古代ローマに学ぶ社会のあり方

古代ローマ
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古代ローマに学ぶ社会のあり方

 古代ローマの歴史は紀元前8世紀頃までに遡る。紀元前7世紀頃、羊飼い達が定着し、周辺の部族と戦いながら領土を拡大した。紀元前6世紀には王政が廃止され、共和政を樹立した。最初の成文法である十二表法が成立したのは紀元前5世紀であった。この法典は貴族と平民の身分闘争の結果、貴族が独占してきた法知識を成文化して公けにしたものであり、訴訟手続、損害賠償、隣人関係など、市民生活に関わる個別的な内容が多かった。

 紀元前4世紀以降、ケルト人の来襲、サムニテウス戦争、ラテン戦争、ボエニ戦争、マケドニア戦争など、頻繁に戦争があり、次第にローマの勢力が拡大した。カエサル(ジュリアス・シーザー)のガリア征服が始まったのは紀元前58年、カエサルがルビコン川を渡りローマに進軍したのが紀元前49年であった。しかし、紀元前44年には独裁者となったカエサルが暗殺された。

 アウグストゥスによる帝政が開始されたのは紀元前27年、紀元27年にアウグストゥスが亡くなり、ローマ帝国の時代が続いた。その後、皇帝ネロによるキリスト教徒の迫害、ヴェスピオ火山の噴火によるポンペイの埋没、貨幣制度の確立と普及などがあった。4世紀頃になると、キリスト教が幾多の迫害を受けながらも次第にローマで公認されるようになる。

 しかし、476年には西ローマ帝国が滅亡、ビザンツの東ローマ帝国でローマ法大全の編纂がなされたのは529年頃であった。東ローマ帝国が滅亡したのは1453年、マキャベリが「君主論」を表したのは、分裂と動乱の時代、15〜16世紀のことであった。ここで、特に注目したいのは、君主政と共和政の考察にあり、共和政は貴族政と民主政に区別される。つまり、古代ローマの政治形態を考える時、執政官を見れば君主政であり、元老院を見れば貴族政に見え、民衆の立場を見ると民主政の国家形態と捉えることが出来るという。これらの政治形態と人種も宗教も内包的に認めるという考え方が古代ローマ興隆の要因であったと考えられる。現代の政治形態の基本概念が古代ローマで確立されていた。但し、注意すべき点として、君主政が堕落すると僭主政に、貴族政が堕落すると寡頭政に、民主政が堕落すると衆愚政になる。これは必然的な現象で必ず次々と繰り返すという。古代ローマの歴史から得られる教訓は大きいようだ。

 古代ローマの国家構造は都市国家であり、周囲の種族を征服・併合して大国家になった。このために利害関係を異にする種族を包含しており、ギリシャ思想のような正義や善のような抽象的な理念でなく、法律に基づき個人の権利義務の観念を明確にした統制が必要になった。この法意識と個人主義は、平等と平和主義に基づき、ストア哲学がローマ法に取り入れられた。

 その統治形態として、初期のローマは君主政治であったが、次第に民主政治に移行して、紀元前5世紀頃に共和政治の形態が取り入れられた。政治機構は、元老院と平民会議及び護民官が重要な役割を持ち、奴隷制の大土地所有者の貴族と商工業者や農民等の平民との政権争いが中心になった。

 支配地域が拡大するにつれ、軍の指揮権を持つ元老院が変質して、カエサル(シーザー)の時代には皇帝の専制政治に移り、辺境地域の防衛を軍の有力指導者に委ねたので、皇帝の軍に対する発言権が増大した。しかし、交通が未発達であり、中央集権制が物理的に不可能なため、地方の住民が政治に参加せずに、最小の税金で国王の保護や私的権利の保証等の要求のみがなされた。

 思想家キケロは、共和政治末期のローマ司法界の第一人者で統領となり、元老院の栄誉回復に専念して、ギリシャ的学問とローマ市民の政治意識を結合させ、ストア思想による理想の世界国家をローマに結びつけ、支配階級内部での自由主義思想を展開した。

 ローマ時代は、大量の奴隷が用いられ、大土地所有制の農業が行われた。しかし、生産技術が高まると、強制労働による奴隷制が非能率的になり、奴隷の団結が可能になってしばしば奴隷の反乱が起こった。

 また、大土地所有者や商業資本や高利貸資本と農民や手工業者等の自由民との間の矛盾が激化した。ローマ市民は戦争のための租税の負担と兵役に服しており、中小土地所有者や手工業者が没落したので、ローマの軍事力が低下して、安価な奴隷獲得の征服戦争が成功しなくなった。この結果、奴隷制の利点が薄れ、没落市民や解放奴隷による小作人が生まれ、奴隷制度が崩壊した。

       (この項は書き掛け、未完の状態のままです。)

(文責:yut)

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