東洋思想の基本概念

東洋思想
易学
儒教
孔孟
老荘
武士道

東洋思想の基本概念

 中国の歴史に興味を持ち、三国志や史記を読み、孔子や孟子および老子や荘子、さらに孫子などの書物を買い求めてきた。そこには多種多様な人間ドラマが展開され、人の生き様、社会のあり方、基本的な物事の考え方などがあった。文字や言葉による表現に限りはあるが、数千年の歴史を駆け巡り、今日に残された記録がある。そこに潜む根本的で深遠なる意味を正しく理解したいと思った。何が東洋思想の基本概念か、そのどこに魅力があるのか、西洋思想との違いは何か、ここでは今まで学び得たことの幾つかを紹介したい。

 東洋思想の概念として「道」「徳」「功」「力」なるものがある。これは人間の存在や生活の活動を捉えた根本的な枠組みとなる。「道」は、これがあることでこの世の宇宙や人生が存在し、これがなければこの世の宇宙や人生は成り立たない。この「道」が人間に現れると「徳」になる。「徳」は、これがあることで人間となり、これがなければ形は人でも人でない。自然は、何万年・何億年を経過して、無機物から有機物を生み、有機物から生命へ発展し、植物や動物の世界を形成して、哺乳類から高等猿類に進化し、心なるものを創造して、この心が人間に宿り更なる発達を遂げ、道徳や信仰や芸術などのより貴いものを生み出した。したがって、人間の持つ心、人間生活、人としての形や精神や霊魂など、人間の持つあらゆるものは、自然界の原子(アトム)、科学的な陽子と中性子と電子、それらを構成する素粒子から、発達してきたものであり、決して別個のものでなく、連続的な関連性を持って生まれてきたのである。この考え方は東洋思想の基本であり、「天地の為に心を立つ」天地から人間の心が開けてきたと考えられてきた。つまり、「道」は創造進化の働きであり、その「道」が人間を通じて「徳」になった。「徳」とは、明るいとか、清潔とか、愛するとか、扶けるとか、報いるとか、努めるというような心にある。そして、この「徳」がなければ人間ではない。宇宙の「道」に対して、人間は「徳」であり、人間の「徳」が社会生活を通して発達し、政治や経済や教育などの仕事になる。これが「功」であり、人間を動かす「力」になる。「道」の作用は「化」、道化あるいは創造、造化なる言葉が生まれ、自然界の不思議な世界、無機物から有機物、生命や精神など、多種多様の千変万化が行なわれ、その姿が「自然」である。「徳」の作用は「教」、教えることは効であり手本となり、人がこれを学ぶ、則る、手本にするということになる。その姿は「譲」、この謙譲が「徳」の特徴でもある。「功」は人間をプロモートして「勧」となり、これを進めて行くことで、人間生活や社会生活が治まり、正しくなる。その姿が「政」である。それは人間を率いる力であり、力だけになると、動と反動があり、争い乱れが起こる。すなわち、「力」の作用が「率」、その姿が「争」である。

 「道」を以って「化」し、天下を「自然」に化すような「聖」なる支配者を「皇」という。「徳」を以って人を「教」え、人の手本となり、人間を「謙譲」へ「賢」なる如く導く者があれば、これを「帝」という。「功」なる仕事を「勧」、「政」なる姿にて、人間生活を「才」なる覚えで開発し、進歩させ、人間社会を秩序良く保ち、治めて行く者を「王」という。それは「力」を以って「率」し、「争」なる姿を免れんと、「術」を用いる者は「伯」あるいは「覇」という。これを「皇道」「帝道」「王道」「覇道」と呼び、「皇」と「帝」と「王」を「王」で一括すると、「王道」「覇道」の二元に帰すことができる。

 次に、易の思想であるが、単なる易占いなどと甘く考えてはならない。易は動的な変化の理法、東洋において、最も古い思想学問であり、宇宙と人間の実体、本質、創造、変化などを探究したものである。易は「変わる」という意味を持ち、俗にいう運命を予言するというものではない。変易「変わる」とはその根本に不易「変わらない」がある。変易「変わる」は変転してやまないもの、それは「化」という。自然と人生は「化」、日本の歴史で「大化の改新」は易の「化」を意味する。変化の根底に不変があり、不変がなければ変化の意識はない。同時に、易の対象となる宇宙の実相は複雑であって簡単である。つまり、易の意義は変易、不易、簡易の三義が含まれ、この命題は相矛盾するようであるが、相矛盾しない。すなわち、変化を自覚して意識することで、不変の真理、法則なるものを探求し、変化を意識的に積極的に捉え、変化の原則に従って、自ら変化することに易の本質がある。易は創造的進化の原理に基づいて、人間が意識的、自主的、積極的に変化、化成することに意義ある。この場合、運命とは、動いてやまない自然と人生のこと、決して他律的、予定的なものではない。予定的、固定的に考えるものは宿命と呼ばれる。大自然、宇宙、神、人間の思考や意志、それらに基づく行動、自分の存在、生活、仕事など、常に創造する立命に易の意味がある。

 易の考え方の基本は、陰陽なる相対的な概念であり、表裏と相待的な作用に基づき、自然の創造や進化のすべてを包括する。この陰陽の根本が太極、宇宙そのものであり、太極の作用が陰陽相待性理法である。相待的な作用、相待性とは、中立と中庸を求める力であり、どっちつかずの真ん中に居るというようなこうもり的な立場を意味していない。相対するものの是非や善悪を明確にして、一段と進歩向上した境地に立ち、矛盾を解消し、積極的かつ創造的な立場に立つ努力をすることを意味する。すなわち、陰陽の陰は統一して含蓄する力を意味し、これに対応する陽は分化発展する力をいう。例えば、樹木は種子から発芽して、幹が伸び、枝が分かれ、小枝や葉と分化・分散して発展する。これは陽の働きである。しかし、分化・分散すれば、支離滅裂になり、破滅の原因になる。これを統一して、根に含蓄する結びの働きをするのが陰である。この二つの相待性が健やかな発育を促す。 つまり、自然界の原子(アトム)の世界から人間の精神や心、人格形成まで発展してきた生命の歴史を考えると、人間は限りなく進歩し向上してきた。この無限の過程が根となり、ここから人間という幹を出し、そして人間の精神活動という発展をしてきた。そして、少しでも高く、尊く、大いなる存在に向かおうとする本能、この心の働きが、人間に「敬する、敬仰する」という心を生ずるようになった。陰陽相待性の理法(易の理法)によれば「仰ぐ、参る」ということがあると、必ず「返る、省みる」という働きがある。これによって「恥ずる」という心が生まれる。仰ぐ−敬する。省みる−恥ずる。この相待性の心理が人間の根本的な「徳」である。したがって、「仰ぎ見る」ということを知らない人間や「恥ずる」ことをわきまえない人間は、非人間的であるといわれる。人は、何億年もかかって、ようやく心霊の世界、人格の形成、動義の世界へ到達した。それを無視して単なる物質的世界や動物的世界への逆戻りは無理な話である。人間は、人格だとか、精神だとか、道徳だとか、信仰を重んじ、生きるということを考えなくてはならない。

 陰陽は、古代中国の思想に端を発し、森羅万象、宇宙のありとあらゆる事物をさまざまな観点から陰と陽の二つに分類する。陰と陽とは互いに対立する属性をもった二つの気であり、万物の生成消滅といった変化はこの二気によって起こるとされる。この陰陽にもとづく思想や学説を陰陽思想・陰陽論・陰陽説などという。宇宙の最初は混沌(カオス)の状態であると考え、この混沌の中から光に満ちた明るい澄んだ気、すなわち陽の気が上昇して天となり、重く濁った暗黒の気、すなわち陰の気が下降して地となった。この二気の働きによって万物の事象を理解し、また将来までも予測しようというのが陰陽思想である。そして、受動的な性質を陰、能動的な性質を陽に分類する。具体的には、影・暗・柔・水・冬・夜・植物・女などが陰であり、光・明・剛・火・夏・昼・動物・男などが陽である。これらは相反しつつも、一方がなければもう一方も存在し得ない。森羅万象、宇宙のありとあらゆる物は、相反する陰と陽の二気によって消長盛衰し、陰と陽の二気が調和して初めて自然の秩序が保たれる。重要な事は、陰陽二元論が善悪二元論とは異なると言う事である。陽は善ではなく、陰は悪ではない。あくまでこの世界を構成する要素に過ぎず、陰陽は対等、同等である。

 易の全体は六十四卦からなる。この六十四種類の卦の形は八卦の組合せからなる。八卦は四象からなり、四象は陰陽の両儀からなり、陰陽の両儀は大極からなる。大極は造化の根源、創造概念、存在と活動を意味する。つまり、太極の相待的な作用として、陰陽の両儀が生まれ、陰の陰と陰の陽、陽の陽と陽の陰が四象を構成し、老陰と少陽および老陽と少陰の四象を生ずる。四象はそれぞれに陰陽が生じ、八卦を生ずる。八卦は、乾・兌・離・震・巽・坎・艮・坤と呼ばれる。そして、これらはそれぞれが天・沢・火・雷・風・水・山・地の自然現象と対応関係にある。また、八卦は、自然現象に配当されるだけでなく、父(乾)・母(坤)・長男(震)・長女(巽)などの家族の成員、首(乾)・腹(坤)・足(震)・股(巽)などの人の体の部分にも配当される。易の思想を理解するには、六十四卦三百八十四爻それぞれの辞を熟読玩味すべきであるが、六十四卦の根幹となる乾坤二卦が基本にあり、その変化と解明の辞を正しく理解することで、自然現象のみならず、社会問題やすべての事象に関して無限の解決を示している。乾卦の説くところ健剛の道のみでなく、坤卦の説くところ柔弱の道のみでない。陽中に陰あり、陰中に陽あり、一陰一陽の法に無限の変化が秘められている。乾坤二卦は天地の作用および乾坤の徳の偉大なることを明らかにしている。乾は「大いなるかな乾元、万物資りて始む。すなわち天を統ぶ。雲行き雨施し、品物形を流く」とある。坤は「至れるかな坤元、万物資りて生まず。すなわち順いて天を承く。坤は厚くして物を載せ、徳は无彊に合し、含弘光大にして、品物ことごとく亨る」とある。

 この陰陽説に基づき、五行説が生まれた。世界の万物を「木」「火」「土」「金」「水」の5種類の「気」、すなわち「五行」に分類し、その相性を考える。あらゆる存在そのものを陰陽と五行に配当する。そこに陰陽の普遍的な概念として、相生と相剋の関係を持ち込んだ。木は燃えて火を生じ、火は灰となり土を生み、土からは鉄等の金属を生じ、金属は水分を放出し、その水分がまた木を生み育てる。木生火、火生土、土生金、金生水、水生木と循環する。これらの関係は「相生」と呼ばれ、良い関係であるとされ、互いに力を与え、若しくは与えられる。同時に相待的な仲の悪い関係も存在し、それらの関係は「相剋」と呼ばれる。木を例に考えてみる。木は大きくなるために土の養分を吸い取る。土にしてみれば自分の栄養を吸い取られ、痩せてしまうことになる。また、木は斧やのこぎり等の金属に倒されてしまう。つまり、木は土を剋し、土はきれいな水を濁らせ、水は火を消し、火は金を溶かし、金は木を傷つけて倒し、木は金に剋される。これら仲の悪い関係が相剋関係であり、木剋土、土剋水、水剋火、火剋金、金剋木と循環する。ここで剋とはやっつけるという意味である。

 この対応関係は、易学だけでなく、漢方の医学・医療にも深く結び付き、興味深いものがある。例えば、内臓の臓、これは蔵であり、おさめるという意味を持つ、陰である。肝臓、心臓、脾臓、肺臓、腎臓、これは五臓であり、「木」「火」「土」「金」「水」に対応する。陰に対する陽は府であり、それぞれに「にくづき(月)」を付与すると、臓腑となる。胆、小腸、胃、大腸、膀胱、これは五腑であり、「木」「火」「土」「金」「水」に対応する。肝臓と心臓の関係は木生火、心臓と脾臓の関係は火生土、脾臓と肺臓の関係は土生金、肺臓と腎臓の関係は金生水、腎臓と肝臓の関係は水生木である。このことから、肝臓が良くなると心臓が良くなり、心臓が良くなると脾臓が良くなり、脾臓が良くなると肺臓が良くなり、肺臓が良くなると腎臓が良くなり、腎臓が良くなると肝臓が良くなる。これに対して、肝臓が悪くなると木剋土の関係から脾臓が悪くなる。脾臓が悪くなると土剋水の関係から腎臓が悪くなる。腎臓が悪くなると水剋火の関係から心臓が悪くなる。心臓が悪くなると火剋金の関係から肺臓が悪くなる。肺臓が悪くなると金剋木の関係から肝臓が悪くなる。さらに、その臓腑の陰陽関係から、肺病の人が大腸を患うと危険、腎臓病の人が膀胱を悪くするといけない。脾臓患者が胃をこわすとダメ、心臓病の人が小腸を痛めるとダメ、肝臓病の人が胆嚢を患うとダメなどの循環関係がある。この相生相剋五行説は色や味にも関係する。色では青が木、赤が火、黄が土、白が金、黒が水の対応関係になる。したがって、肝臓を悪くすると青くなり、心臓を悪くすると赤くなる。脾臓を悪くすると黄色になり、いわゆる黄疸になる。肝・胆を悪くする青くなり、肺・大腸を悪くすると白くなり、腎・膀胱を悪くすると黒くなる。脾・胃を悪くすると黄色くなる。味では酸が木、苦が火、甘が土、辛が金、鹹(塩辛い味)が水の対応関係になる。酸はすっばい味、肝と胆に相当する。苦い味は心臓と小腸、脾と胃は黄色で甘く、肺と大腸は辛く、鹹(塩辛い味)は腎と膀胱が対応する。相待性は相待つの意味、人間には酸味が必要、しかし酸味が強すぎると肝胆を悪くする。苦味は必要であるが、苦すぎてもダメ、甘すぎても脾と胃に良くない。鹹は塩気、これは人間に大切な味、同時に過ぎると腎や膀胱を痛める。そこで昆布や黒豆など黒い物を食べると良いとされている。青い野菜は肝胆に良く、赤い人参は心臓や小腸に良く、黄色い物は脾と胃、白い物は肺と大腸に良いとされる。葱の白根などは漢方で大腸の薬である。また、肝胆は怒り、心と小腸は笑い、脾と胃は思い、肺と大腸は憂い、腎と膀胱は恐れに関係するという。なお、方位と時節は、東と春が木、南と夏が火、中央と土用が土、西と秋が金、北と冬が水に対応する。つまり、易学では、すべてが人間と存在、人間生活上のあらゆるものが陰陽五行に分類され配置される。これらは科学的にも多大の真理があり、興味深いものがある。東洋ではこのような原理的な知識が根本にあり、西洋思想のように理智的・理論的ではないが、東洋思想は含蓄的であり、直感的・情操的な面がある。このことから、西洋思想は陽の学問、東洋思想は陰の学問ともいえる。また、易の文字や言葉は東洋の数学的言語ということもできる。

 東洋思想の源流は孔孟と老荘にある。孔孟の教えは現実的に倫理・道徳を説いたもの、人間生活に厳しい実践が求められる。このために、現実の生活に疲れると、重荷になる傾向がある。一方、老荘思想は理想主義的、現実から解放され、救いを感じる傾向にある。孔孟の教えは、儒教と呼ばれ、易・詩・書・禮・春秋の五経を経典としていた。論語などはその注解とされていたが、朱子学において、論語は孔子の精神を伝えたものとされ、禮記の中から大学と中庸を摘出し、これに孟子の教えを加え、論語・大学・中庸・孟子の四書が孔孟の教えを正しく伝えるものとされた。儒教は、五常(仁、義、礼、智、信)という徳性を拡充することにより五倫(父子、君臣、夫婦、長幼、朋友)関係を維持することを教える。特に、仁は人を思いやる心、孔子は仁を最高の徳目とした。義は正しい行いを守ること、人間の欲望を追求する利と対立する概念として考えられた。孟子は羞悪の心が義の端であると説いた。羞悪の心とは、悪を羞じる心のことである。礼は仁を具体的な行動に表したもの、本来は宗教的な儀礼での制約や伝統的な習慣・制度を意味していたが、後に人間の上下関係で守るべきことを意味するようになった。また、孝忠は儒教における重要な徳目であるが、日本と中国・朝鮮ではその解釈が若干異なる。例えば、日本では親の身代わりに子供が死ぬことは親不孝、中国や韓国では親孝行とされる。行動様式として孝の概念が逆になることもあるが、孝は親によく従うことを示す。祖先祭祀にとって孝は重要な原理となり、身近なところから段階的に進められる儒教の徳治において、まず家庭で守られるべき徳として悌とともに重要視された。孝悌と併用され、孝悌は仁を為す本とされる。忠は、中なる心、正直で裏表のないことを表し、君臣間において重要とされる徳目である。主君に尽くすというまごころを忠義という。中国や朝鮮では多くの場合、忠よりも孝が大切だと考えられ、日本においては、朱子学伝来以後、逆に孝よりも忠が大切だと考え、江戸幕府体制下では公的な見解として採られる様になった。なお、中庸の中は偏らないこと、決して過不及の中間をとりさえすればよいという意味ではなく、中途半端や真ん中と勘違いされる。庸について、朱子は「庸、平常也」と庸を平常と解釈した。鄭玄は「・・庸猶常也言徳常行也言常謹也」と「庸」を「常」と解釈し、「庸」が「常」という意味を含んでいると指摘した。現在、多くの学者は「庸」が「平凡」と「恒常」の両方の意味を含んでいると見ている。なお、中庸は儒教の倫理学的な側面における行為の基準をなす最高概念であるとされる。

 老子は、恣意的な行動や欲望さらに知識をもしりぞけ、自然(道)にしたがって国を治めるという無為の政治学を説いた。これは道徳や儀礼、あるいは制度や罰則といったものによって国を治めようとした儒家や法家へのアンチテーゼである。老子は道徳経とも呼ばれる。これは「老子」上下巻の最初の一文字「道」と「徳」をつなげたもの、道徳について説いたのではない。老子のいう道は、そこから万物が生まれ出る母胎(≒無)とも考えた。これは現代の量子論が宇宙の誕生に想定している無の概念に近い。老荘の思想家は道家ともいう。道家以外の思想家たちも道という概念を使用していた。道家は道を自然と捉えたが、儒家は道を最も人間的かつ社会的なものとみた。道家は、立身出世のために儒教の説く道を身につけようと躍起になっていた人々に対して、「本当の道はそんなものではない」と説いた。道は気の流れをつかさどる法則のようなものと考えられる。仏教や朱子学における理とほぼ同じ概念と考えられる。この場合、気は万物を流れるエネルギーといえる。

 荘子は老子の政治理論を純粋な思想・哲学として発展させた。道の全体性・不可分性、つまり万物斉同を説いた。そして、現実と夢、生と死といった一切の対立は存在しないとした。つまり、万物は道の観点からみれば等価値あるという思想である。荘子は物事の真実「道」を知ることが、充実した生を生きることだと考えた。人は是非や善悪といった分別の知を働かせるが、その判断の正当性は不明であり、一方が消滅すればもう一方も存立しない。すなわち、是非や善悪は存立の根拠が等しく相対的であり、それを一体とする絶対なるものが道である。とすれば、貴賤などの現実の社会にある礼法秩序は、すべて人の分別の知の所産、相対的なものであり、生死ですら相対的である。人は生をよろこび死をにくむが、生も死も道の姿の一面にすぎないという。道家のいう自然とは、生き方や考え方の例えであって、田園生活を勧め自然保護を唱えていたということではない。道家の思想は、もともとそのなかに、厳しい現状を宿命として諦めさせ、あるいは自己の快楽の追求に走らせたりする可能性をもっていた。また、道家の思想は道教だけでなく、禅などにも大きな影響を与えている。禅の何にもとらわれない自由な発想は、仏教版の道家思想とも呼べる。

 日本の武士道を考える。武士道とは、封建社会の日本における武士階級の倫理及び価値基準の根本をなす体系化された思想である。それは家を媒介とした社会との契約の一種であり、己の存在を確立するためのものであった。しかし、近年の武士道は、平和な江戸時代に官僚的な幕府制度を維持することを目的とし、実際の戦闘で役立つ思想や哲学ではなく、高潔な人格を尊ぶ道徳性を重視した。このように武士道の観念は時代により変遷している。武士道の意味するところは、日本の中世・近世の思想としての武士道、日本のアイデンティティの拠り所の一つとして創造された近代以降に武士道がある。前者は個人的戦闘者の生存術としての武士道、武名を高めることにより自己および一族郎党の発展を有利にすることを主眼に置いている。藤堂高虎の遺した家訓「武士たるもの七度主君を変えねば武士とは言えぬ」のように、自己を高く評価してくれる主君を探して浪人することをも肯定した。また、朝倉宗滴の言葉「武者は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝つことが本にて候」のように、卑怯の謗りを受けてでも戦いに勝つことこそが肝要であるという冷厳な哲学をも内包していた。後者の武士道は「君に忠、親に孝、自らを節すること厳しく、下位の者に仁慈を以てし、敵には憐みをかけ、私欲を忌み、公正を尊び、富貴よりも名誉を以て貴しとなす」という態度を念頭に置いている。さらに、常在戦場を以て心構えとした武士の意識を重視し、日本特有の「死の美学」が付けくわえられた。

 武士が発生した当初から、武士道の中核「主君に対する倫理的な忠誠」の意識が高かったわけではない。中世期の主従関係は主君と郎党間の契約関係「奉公は御恩の対価」とする観念があった。この意識は少なくとも室町末期ごろまで続き、「裏切りは卑怯」「主君と生死を共にするのが武士」「君、君たらずとも、臣、臣たるべし」といった後世の考え方は主流ではなかった。江戸時代になり、山鹿素行等が朱子学の道徳にこの価値観を説明しようとして、新たに士道の概念が確立、儒教的な倫理(仁義、忠孝など)が武士に要求される規範に加えられた。また、「武士道と云ふは、死ぬ事と見付けたり」は葉隠の一節、山岡鉄舟の武士道によれば「神道にあらず儒道にあらず仏道にあらず、神儒仏三道融和の道念にして、中古以降専ら武門に於て其著しきを見る」とある。

 新渡戸稲造は、欧米の宗教観と対比させ、日本人の自己確立のための一面において、社会における実用主義を推奨し、人間が持つべき義務とそれを支える誇りとしての武士道を著した。それは道徳的体系としての武士道であり、義・勇・仁・礼・誠・名誉・忠義などをもってその本質が明らかにした。義は武士の掟の中で最も厳格なる教訓、義は勇の相手にて裁断の心、道理に任せて決心して猶予せざる心、死すべき場所に死し、討つべき場所に討つことなり。孟子は「仁は人の心、義は人の路」と言った。義の分岐としての義理は「正義の道理」「道徳的実践と哲学的理論」を意味し、なすべきことを要求する義務である。勇は敢為堅忍の精神であり、義しき事をなすことなり。プラトンは「恐るべきものと恐るべからざるものとを識別すること」と言った。仁は惻隠の心、王者たる者の不可欠要件、仁とは人なり、柔和なる徳、人を治める王者の徳である。伊達政宗は「義に過ぎれば固くなり、仁に過ぎれば弱くなる」と言った。礼は作法、他人に対する思いやりを表現すること、その最高の形態は敬虔なる心を持つ愛に接近する。礼は寛容にして慈悲あり、礼は妬まず、誇らず、驕らず、非礼をせず、己の利を求めず、憤らず、人の悪を思わず、礼道の要は心を練ることにある。誠とは信実と誠意のこと、言と成との表意文字、誠は物の終始なり、誠ならざれば物なし、誠の悠久たる性質、動かずして変化を作り、無為にして目的を達成する力を要する。正直は最善の策、誠とは実益のある徳行である。名誉は最高の善、人格の尊厳と価値の明白な自覚を含む。恥を知り、苦痛と試練に耐え、寛容と忍耐強さの極致にあり、名誉は境遇より生ずるのでなく、各人が善くその分を尽くすにある。忠義は武士的名誉の掟、服従と忠誠が重みを持ち、必要とあらば、あらゆる手段を尽くして主君の非を正し、容れらざる時は自己の血をもって言の誠実を示し、主君の叡智と良心に対し、最後の訴えを行った。特に、武士に必要なことはその品性を高め、智・仁・勇(知恵、慈悲、勇気)を具えることが求められる。

 東洋思想は相対的、仏教の輪廻流転の如く、すべてのものが変化する。一方、西洋思想は絶対的、キリスト教に代表されるように、その絶対的な存在が神、正誤のように正しくなければ誤り、二者択一の概念が前提にある。東洋人は統一的・含蓄的に動くが、西洋人は分析的・外面的に行動する。西洋文化はものを限りなく分化し、形をとって発現しようとする。東洋文化は複雑な差別を統一してできるだけ内に含蓄しようとする傾向がある。考え方の違いとして、西洋では「他人にしてもらいたいと思うような行為をせよ」という能動的でかつ積極的な倫理観が見られ、東洋では「自分がしてもらいたくない事を人にしない」という受動的でかつ消極的な倫理観が見られる。衣食住を考えた場合、洋服は外に出て活動するのに便利にできているが、和服は静かな生活、くつろいだ生活をするのに相応しく、複雑な要素が融通性・統一性を持って、その要求が内に含蓄されている。西洋の食物は功利的・合理的にできており、カロリーや蛋白質や炭水化物や脂肪など、どの栄養素がどのくらい含まれているかで作られる。東洋の日本料理や中国料理は、食物が単なる食物でなく、栄養素やカロリーを摂取することのみが目的ではない。味覚の満足や精力の蓄積および医食同源など、複雑な要求を統一して芸術的な要素を持っている。茶道などはその極めであり、幽玄なる侘び寂びの世界を作り上げている。西洋の住宅は大自然から人間の住まいを分離して造られているが、東洋の住宅は人間の住居をどのようにして自然と融合・合体して統一するかを考慮する。この結果、日本人の日常生活は躾や作法に従って、食事や来客の応接など、普段の生活することで、多くの運動を伴うようになっている。襖の開け閉め、配膳やお茶の接待など、すべてが全身運動である。しかし、西洋の生活は椅子や寝室のベットを見ても合理的ではあるが、戸外での運動が別に必要になる。

(文責:yut)

戻る