教育と社会

教育と社会
倫理と道徳
善悪の判断基準

教育と社会

 教育の原点は倫理にある。倫理は善悪の区別であり、戦前の日本では道徳とも呼ばれた。善悪の判断に理由はない。時代が変われば、善悪の基準も変わる。地域や環境によっても、善悪の基準は異なる。また、一人ひとりの家庭環境によって、その判断基準は違うのである。また、倫理は人の道の教えでもある。社会や共同体において、その習慣の中から生まれ、通用するようになった規範のこと、法律などの規則とは意味合いが異なる。社会的な習慣や礼儀や作法などもその範疇にあるとされる。

 人間は物事を区別することで知恵を獲得する。最初に、真偽・正邪・善悪の区別を本能的に見極める能力とその感性を高め・養い・育てることが教育の原点となる。そして、真実なるものを大切にし、正義を知り、善良なるものを求めることが本能的にできるような人に育てることが大切である。しかも幼児の時期から、このことを身に沁みこませる事が必要なのである。この時、人間としての一つの判断基準を持つことになる。但し、この判断基準は人の成長と共に変化する可能性はある。

 日本の道徳は、江戸時代には儒教、特に朱子学を中心に、仏教や神道などの影響を強く受けて形成された。武士には武士道、商人には商人道など、身分に分かれ、それぞれの道徳が形成されていた。武士道では、「上を敬い、下を導く」と言った上下関係を重んじる傾向が強く、君に忠、親に孝を説く儒教道徳を基本とし、「努力」「忍耐」と言った内向的性格を美徳としていた。日本には宗教と異なる道徳教育が存在していた。明治以降、文明開化とともに、西洋の価値観が移入され、道徳も変容した。この時、明治政府は天皇制を支柱に伝統的な道徳を国家としての共有道徳に再構築した。それが教育勅語であり、身を修めることを意味する修身と呼ばれ、学校教育に取り込まれた。しかし、これは終戦とともに廃止された。

 一時的には伝統的な道徳が無意識に存在していた。そして、それが日本人の倫理観を形成していた。伝統的な日本の道徳は武士道に認められる。武士道は知識ではない。心(精神)の持ち方や身の捌き方にある。それは「義」と「勇」を支柱とし、「仁」や「礼」や「誠」を尊ぶ。そして、「名誉」を最高の善とし、人のために命を懸ける「忠義」が重んじられた。

 善悪の基準は一人ひとり異なるが、正義と不正は社会的な合意が不可欠である。正義はあるべき姿に社会や人間を正そうとする信念、社会に認められない正義を貫くことは困難である。現代では「公正としての正義」が求められている。それは、各人には基本的自由に対する平等の権利があること、社会的・経済的な不平等は最も恵まれない人の利益を最大化するときにのみ許されること、いかなる立場につく可能性が全ての人に開かれていること、などである。経済学的には、基本的自由の権利を認め、格差原理と公正な機会均等の原理が重視される。

 しかし、倫理は論理ではない。近代的な合理的精神は論理の世界、論理的に正しくともそれが本質的なものかどうかの判断はできない。最も大切なことを論理で説明することはできないのである。いかなる論理にも出発点があり、最後は正しいか誤りのいずれかで帰着する。この世には、絶対的に正しいことも、絶対的な誤りも存在しない。数学的にも論理の不完全性はゲーテルの不完全性定理によって証明されており、論理の出発点は数学的な公理系を明確にすることと同じ意味を持っている。

 いま、日本の教育に求められるもの、それは倫理の再構築である。子供の時に、「義をみてせざるは勇なきなり」とか、「卑怯を蔑み、名を惜しむ」という教えは、論理ではなく、そこに大和魂なるものが込められている。三つ子の魂百までも」倫理の基本は三歳までの幼児への無条件の躾が大切である。しかし、論理を無視することはできない。倫理と論理を区別して、そのあるべき教えを正しく子供たちに植えつけることが真の教育ではないだろうか!!

 いま、大きな社会的な教育問題の一つに「いじめ」の問題がある。「いじめ」とは、学校やその周辺で、弱い立場の特定の生徒に対して、特定のグループや集団が、集中的にかつ継続的に繰り返し、肉体的あるいは精神的に痛めつけることである。具体的には、仲間はずれにしたり、無視したり、交際を拒否したり、持ち物を隠したり、物を壊して使えなくしたり、殴る蹴るなどの暴力的な行為を集団で加えたりすることである。

 「いじめ」は一回や二回程度では、怪我でもしない限り、法的にも問題になる「いじめ」とは言えない。集中的にかつ継続的に一定期間繰り返されることが問題なのである。また、「いじめ」を苦に自殺するケースを表面化してきた。現在の日本では、法的に捉えると、「いじめ」の具体的な内容、事実関係、その因果関係など、被害者側に立証責任が課せられていることにも問題がある。「いじめ」の客観的な事実を第三者が把握することも困難なケースもあり、「いじめ」の客観的な事実を容易に確認できることが難しいともいえる。

 子供の頃、正義心や弱気を助け強気を挫くような「義」と「勇」の精神が養われていないことも問題である。昔は弱い者「いじめ」を悪としていた。その考え方が社会的に失われたようだ。法的な問題に絞れば、常に被害者側に立証責任が存在する考え方にも問題がある。社会的な労働法や経済法などのように、これらに何らかの修正を加える必要があると思う。

 戦後の個人主義の考え方を多くの日本人が誤って解釈してきたようだ。弱肉強食の自然状態(戦争状態)が個人主義ではない。弱者を保護する考え方が基本になければならない。人類の知徳の進歩と人間(じんかん)交際の改良は、独立自尊を前提にした文明社会の基本である。大人が子供を守る仕組みの崩壊、弱者を切り捨てる考え方に日本社会の根本的な問題が潜んでいると考えられる。

(文責:yut)


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