日本の法制度について

公法と私法
日本の古来の法律
フランス民法典

日本の法制度について

 日本の古来の法律、律令は刑法と行政法であった。しかし、一般的な規律として、公法と私法(私人関係)があり、私法は紛争解決のための法、私人と私人の規律として、慣習法があったはずである。また、身分によって法が異なり、商法は商人階級に適用されていた。中世の日本において、国家的な権力は幾つかの社会集団が分有し、多種多様な法が存在する分権的な社会であった。日本の封建制度では、領主が領地と領民に対して、支配権が存在していた。つまり、領主が主体であり、領地と領民は客体であった。

 日本は明治時代になると、江戸幕府が締結した不平等条約の改正を急ぐために、西洋の法を取り入れた。近代の法典は1804年のフランス民法典に始まる。この法典(Code)は、啓蒙思想の影響から、合理的に考えられており、一定の指針を与えている(例:罪刑法定主義)。また、近代の法典は、法の下の平等が保障され、人が等しく権利能力を持つことにある。この権利能力平等の原則は、フランスの市民革命において、すべての市民を客体から主体に引き上げ、フランス民法典がそれを鮮明に表していた。したがって、民法とは、市民法のこと、憲法で保障された権利、継受法であり、日本の法律でない。

 明治維新後、江藤新平(佐賀の乱で失脚)は、民法会議を主催して民法典編纂に取り組み、フランス民法典を日本語に訳し日本の民法とするように、箕策隣祥(フランス語出来た人)へ「誤訳ヲ妨ゲズ唯速訳セヨ」と指示した。しかし、日本に法典の伝統が無く、うまくいかなかった。そこで、フランス人ボアソナード(Custave Boissonade)に任せ、明治11〜12年頃に、日本の民法典を作成した。但し、日本古来の問題、家族、相続については日本人が作成した。司法省に日本プロジェクト発足(フランス語→日本語)、中国古典の漢字を訳語に使用した。

 商法はドイツ人ロェスラー(Herman Roesler)が起草した。また、訴訟法はドイツ人ヘルマン・テッヒョー(Hermann Techow)の起草による。日本の民法(旧民法典)は、明治23年(1890年)に公布され、明治26年(1893年)に施行されることになっていた。しかし、ここで法典論争が起こった。実施延期を主張する延期派(歴史派)と予定通りの実施を主張する断行派(自然法派)の争い、個人主義と団体主義の対立、フランス法学派(法政大学)対イギリス法学派(東京大学、慶応義塾大学)、日本の商取引(商慣習)と異なり民法と商法の統一性を欠くこと、条文の技術的欠陥の存在、日本固有の家族制度の破壊、などの激しい論争が繰り広げられた。

 結果的に延期派が勝利した。民法施行が無期延期となり、延期派に決定的勝利をもたらしたものとして、「民法出で忠孝滅ブ」(穂積八束)、民法の個人主義と忠孝を重視する団体主義の影響が大きかった。しかし、民法典は必要、日本人の手で民法を作ることになった。

 穂積陳重(八束の兄)・・・法理学(法哲学)
 富井政章・・・・・・・・・・・・・・・ドイツ学派(ドイツへ留学)、延期派
 梅謙次郎・・・・・・・・・・・・・・・フランス学派(リヨン大学へ留学)、断行派

等が中心になり、旧民法をベースに、イギリス法学や各国の法を参照して、現行民法が作成された。イギリス法には、判例法の伝統があり、コモンロー(Common Low)とエクイティ(equity)、信託(Trust)の違いが存在する。なお、フランス法学派対ドイツ法学派へ変化は、大きなナゾである。

 結局、日本で最初の民法(明治民法:新民法典)は、明治29年(1896年)に公布(1条〜726条)、明治31年(1898年)に施行された。明治維新が1868年、民法公布が1896年、この間約30年、明治10年(1877年)には、大日本帝国としての民法典がほぼ完成していたが、そこに法律と外交の問題(不平等条約の解消)が存在していた。そして、外国人裁判官を認めないなど、司法省と外務省の関係は無視できなかった。

 日本の法体系の基本は、この頃の法典論争がベースにあり、民法と商法が資本制的な生産関係を規律する基本法となった。また、明治憲法(大日本帝国憲法)は、伊藤博文等が中心に草案し、明治22年(1889年)に公布され、明治23年に施行されたが、近代天皇制国家とその基本原理(国体)を確立した。そして、これらに皇室典範と「教育ニ関スル勅語」が加わり、近代日本の法体制の基本的枠組みとなった。その結果、家父長制的な家族制度の民法への取り込みが天皇を中心とする国民の一大団結を強化させ、日本的な資本主義を発展させた。しかし、国家の法体系が完全でなく、法体制の安定と規範の面から、また法思想の基本が不十分であったと考えられる。

 特に、明治憲法は、天皇制という絶対君主制であり、市民的な自由を求める板垣退助の自由民権運動を弾圧していた。その後、大正デモクラシーや労働争議や社会主義運動も天皇制国家を崩すことができなかった。そして、労働者の権利や社会保障の権利など、生存権の基本すら勝ち取ることができずに、軍部の圧力により、侵略戦争と天皇制ファシズムによる国家総動員法や治安維持法などの体制下で民主的な自由は完全に失われていった。

 戦後、日本はポツダム宣言の受諾に基づき、制度的に、平和、民主主義、人権を三本柱とする日本国憲法が作られた。特に、民主主義と人権は、西洋の法に基づく、市民的な自由権と社会的な生存権を保障するものとなった。しかし、戦後60年を経過した現在、日本の現実の社会は西洋的な自由は存在しない。例えば、公務員は政治的な自由はなく、表現の自由も制限され、選挙になると、政治的な自由が著しく規制されている。外国では、裁判官や検察官でも、政党に入り、自由な政治活動ができる。

 企業内では、上司に反対すれば、反対意見は排除され、左遷や出向あるいは退職を覚悟しなければならない。そこには言論の自由も思想の自由も存在しないといえる。日本社会には、市民革命で勝ち取ったような、市民的な自由は存在していない。例えば、社会保障や福祉政策は、その予算の裏付けによって、恩恵としての保護をするという考え方である。一方、企業の開発の自由はかなり手厚く保護されているようだ。

 西洋の法の伝統は、古代ローマにあり、紀元前1世紀〜紀元3世紀のローマ法がベースになり、フランス法やドイツ法などの大陸ヨーロッパ法を生み出した。一方、イギリス法には、判例法の伝統がある。判例法は法典が無く、判例が重ねられ、不文法の法体系が存在する。

 判例法の事例として、例えば、

  @Aは、自分の土地をCへ授け、エルサレムへ(所有権移転)。
  ACは土地の収益でB(Aの子供)を養育することを条件にする。
  BCはAの土地を自分の物にしてしまう。
  CBが所有権移転の問題の訴えを国王裁判所へ提起する。
   (コモンローでは訴えが認められない)
  DBは大法官裁判所へ訴え、エクイティが適用され、信託契約を適用し、Bを救済する。
  Eこれらの判例が重ねられ、判例法となる(法典無)。

 最終的に、日本の民法は、フランス法、ドイツ法、ローマ法を援用している。近代民法の柱は、権利能力平等の原則(民法1条の3、民法1条、1条の2は戦後に付与)にある。民法1条〜724条は、カタカナ条文(財産法)、民法725条〜1044条は、ひらがな条文(家族法、相続法を含む)である。戦前はイエ制度があり、戦後は個人主義になり、民法の家族制度や夫婦別姓問題が存在する。

 近代法は、市民革命、ブルジョア革命、都市民が経済主体として経済活動をした。それは、封建領主の権利、主権を奪うことにある。経済活動を行う出発点は、財産の帰属関係を確立し、所有権絶対の原則、財産権の自由と不可侵が憲法に定められた。

 私人関係でも所有権が尊重される。Aの土地へBが不法侵入し、不法占拠すれば、所有権を確認することで、所有権に基づく土地の返還請求ができ、Aは土地を自由に使用できる。Aは土地に工場を建て、金融機関からお金を借りると、消費貸借契約が成立する。建築業者は請負契約、労働者を雇うことは雇傭契約、問屋と小売業者は売買契約、消費者も売買契約となる。

 取引社会は、契約の社会、取引は契約で営まれている。契約をどのように運用していくのか、取引に国家が介入するのか、個人の自由に任せるべきか、近代社会は、契約自由の原則、これが近代市民社会のモデルである。19世紀のヨーロッパは古典的自由主義、自由放任主義、神の見えざる手を前提にしていた。

 現代社会は、古典的自由主義が破綻、最初に雇傭契約で破綻した。私法上の権利は権利能力平等の原則、所有権絶対の原則、契約自由の原則、過失責任の原則であった。これだと、持てる側と持たざる側の立場、雇傭契約では労働者が譲歩される立場になる。弱者の地位は、形式的に平等から実質的に不平等になる。労働法は雇傭市場へ対等な形での契約に関与する。

 経済法は、消費者と小売商に存在する取引知識の違い、情報量の格差、不平等な契約に関与する。消費者基本法は、訪問販売法等、消費者保護(クーリングオフ等)を目的とする。

 過失責任の原則(民法415条、709条)は、事故や欠陥商品への対応であり、消費者と小売商(事業者)の間では、売った者、作った者へ損害賠償であり、無条件となると、経済活動が停滞する。

 例えば、ワクチンの製造・販売では、作って売るより賠償金が大きくなる。そこで、近代法の調整策は、A(売る側)に落ち度があった時に責任を負う。巨大メーカーの場合、メーカー側の不注意を消費者が証明できない。 製造物責任法(PL法)は、過失責任の原則から無過失責任、不法行為の問題としている。

 最近では、法の乱立と思われることも多い。一つの規制が外されると、それ以上の規制的な障壁になるものが生まれる。法の変化が新たな法を生み出すような手法で立法化されることにも問題がある。

(文責:yut)

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