最初の海外旅行

ローマ
フィレンツェ
パリ
ベルサイユ宮殿
ロワール河

最初の海外旅行

(まえがき)
 最初の海外旅行は今から十数年前の平成5年12月のことでした。当時、勤務先の会社には、永年勤続表彰制度というのがあった。入社10年目・20年目・30年目などの節目の年に、永年勤続者を表彰し、記念品が贈呈された。さらに、リフレッシュ休暇と呼ばれる長期の特別休暇が通常の年次休暇と別枠で与えられた。私達は、勤続30年目に「ホテルオークラ」へ招待され、永年勤続表彰と記念撮影、盛大なパーティが催された。この時、記念品に旅行券を頂戴した。この旅行券は、家内の内助の功への感謝を含め、夫婦で最初の海外旅行をしようということになった。

 国内旅行は毎年のように計画して、北海道から沖縄まで、主な観光地をすでに踏破していた。会社の関連企業には旅行を専門に取り扱う部門があり、各種のリフレッシュツアーを企画していた。私達は「ローマ・パリ7日間」のイタリアとフランスを巡る海外旅行を選択した。夫婦が健康な時に、一度は行って見たいと思っていた。懇意にしている近くに住む友人夫妻にこのことを話したら、是非とも同行したいという。旅行会社へ問合せると、特別に参加を認めてくれた。当時のヨーロッパは通貨統合の前、通貨単位の「ユーロ」はまだ出現していなかった。私は旅先の歴史や風土を事前に調べ、予め概略の知識を得て、旅行先で見聞のキーワードをメモし、帰って来てからそれらを整理して、簡単な記録や感想を残しておくようにしている。このことから、その旅先の土地への愛着が深まり、より多くの人々の歴史や風土や生活や環境を学ぶことができる。この記録もそれらの資料やメモを整理して作成した。

1.イタリアのローマとバチカン市国
 12月のヨーロッパは日本と同様に寒いという。イタリアのローマの緯度は日本の青森や函館とほぼ同じ位置、フランスのパリの緯度は北海道よりも北に位置する。防寒には十分な準備が必要、冬着の衣類を少し多めに持って行くことにした。しかし、出発の日、防寒用コートを準備していたのに、自宅に忘れたままで出かけてしまった。最初の海外旅行で心は上の空、フライト前の成田空港での注意事項の説明は気を引き締めて聞いた。防寒対応は、万一の場合、現地でコートを購入することにした。また、イタリアでは、スリや置き引きが多く、ジプシーの子供達が集団でその技術力を競っているという。盗品は翌日にはマーケットへ出品され、取り戻すためには、自腹でそれを購入しなければならないようだ。イタリアは芸術の国、スリや置き引きにも高度な芸術的センスが磨かれているという。余程の注意をしないと、日本人は、格好の獲物にされる。国が変われば、考え方も土地の風土や文化も変わる。不安と期待が入り混じって海外へ出発した。

 古代ローマの歴史は紀元前8世紀頃までに遡る。紀元前7世紀頃、羊飼い達が定着し、周辺の部族と戦いながら領土を拡大した。紀元前6世紀には王政が廃止され、共和政を樹立した。最初の成文法である十二表法が成立したのは紀元前5世紀であった。この法典は貴族と平民の身分闘争の結果、貴族が独占してきた法知識を成文化して公けにしたものであり、訴訟手続、損害賠償、隣人関係など、市民生活に関わる個別的な内容が多かった。紀元前4世紀以降、ケルト人の来襲、サムニテウス戦争、ラテン戦争、ボエニ戦争、マケドニア戦争など、頻繁に戦争があり、次第にローマの勢力が拡大した。カエサル(ジュリアス・シーザー)のガリア征服が始まったのは紀元前58年、ルビコン川を渡りローマに進軍したのが紀元前49年であった。しかし、紀元前44年には独裁者となったカエサルが暗殺された。アウグストゥスによる帝政が開始されたのは紀元前27年、紀元27年にアウグストゥスが亡くなり、ローマ帝国の時代が続いた。その後、皇帝ネロによるキリスト教徒の迫害、ヴェスピオ火山の噴火によるポンペイの埋没、貨幣制度の確立と普及などがあった。4世紀頃になると、キリスト教が幾多の迫害を受けながらも次第にローマで公認されるようになる。しかし、476年には西ローマ帝国が滅亡、ビザンツの東ローマ帝国でローマ法大全の編纂がなされたのは529年頃であった。東ローマ帝国が滅亡したのは1453年、マキャベリが「君主論」を表したのは、分裂と動乱の時代、15〜16世紀のことであった。ここで、特に注目したいのは、君主政と共和政の考察にあり、共和政は貴族政と民主政に区別される。つまり、古代ローマの政治形態を考える時、執政官を見れば君主政であり、元老院を見れば貴族政に見え、民衆の立場を見ると民主政の国家形態と捉えることが出来るという。これらの政治形態と人種も宗教も内包的に認めるという考え方が古代ローマ興隆の要因であったと考えられる。現代の政治形態の基本概念が古代ローマで確立されていた。但し、注意すべき点として、君主政が堕落すると僭主政に、貴族政が堕落すると寡頭政に、民主政が堕落すると衆愚政になる。これは必然的な現象で必ず次々と繰り返すという。古代ローマの歴史から得られる教訓は大きいようだ。

 最初の旅先はイタリアのローマ、成田からの飛行時間は約15時間強、昼12:00発のJL419便、途中ロシア上空を通過すると、真下にツンドラ地帯の広大な光景が見えた。ミラノで給油のために一時待機、空港の待合室で休憩、ローマに到着したのは現地時間で夜7:00過ぎ、気候は比較的温暖であった。日本との時差は8時間の遅れがある。日本では朝方の3:00頃、長旅の疲れと眠気で体力は限界、夕食に日本食らしき弁当がホテルで配られたが、味付けはイタリア風味、少し手を付けてベットインとなった。ローマで宿泊したホテルは「ヴィスコンティ・パレス・ホテル」、テベレ川の近くにあり、近代的な4ツ星ホテルである。翌日はローマ市内観光、当時のイタリアの通貨は「リラ」、100リラが約7〜8円、室内のベットメイクの枕銭は毎朝1000〜2000リラが一般的であり、街中のトイレに入る時もチップとして1000〜2000リラを支払う。水分はミネラルウォータを購入、何も言わないと炭酸入りのミネラルウォータを買わされる。また、多くの道路の両側は乗用車の駐車場、2列縦車で前後の車間の隙間がほとんど無、中央の道路のみ観光バス1台がやっと通れる程度、ローマの道路は車が過剰状態にある。駐車中の車が出る時、どうするのかと聞くと、前後の車をバンパーで押し退け、隙間を広げて脱出するとのこと、車のバンパーはそのためのもの、日本の車とは比較にならない程に頑丈に造られているという。交差点に進入する車は、早いものが優先権を持ち、交通ルールを補助的なものと考え、自己主張の強いお国柄が反映しているとのことであった。信号待ちの車に対しては、チップの稼ぎを目的に、車の窓拭き人が近寄ってきた。なお、イタリアの男性はスマートで魅力的な容姿の人が多く、若い女性も素敵なプロポーションと堀の深い目鼻立ちの人が多い。しかし、何故か年配の女性は体格が良くなり、大柄な体型へと変身するようである。

 専用バスに乗り込み、最初に「トレビの泉」へ向かった。途中でバスを降り、街中を散策した。イタリアの古風な建物が印象に残った。「トレビの泉」では後ろ向きに立ち、左肩から泉にコインを投げると再びローマへ戻れるという伝説がある。泉の水底には投げ込まれた沢山のコインが輝いていた。ある外人さんが後ろ向きにコインを投げ込もうとして泉に近付き過ぎて、自分自身が泉の中に落ち込んだ。全身がびしょ濡れになって這い上がってきた。バスは宮殿のあるヴェネツィア広場を抜け、古代ローマ最大規模の遺跡「コロッセオ」へ、「コロッセオ」とは巨大という意味がある。ここは大闘技場として紀元80年頃に完成、約300年の間、猛獣対人間、人間対人間、猛獣対猛獣など、壮絶な戦いが繰り広げられ、当時のローマ市民を熱狂させたという。その傍に古い凱旋門があった。途中でヴェネツィアン・グラスの工芸店に立ち寄りショッピング、その後、映画「ローマの休日」で有名な「真実の口」のあるサンタ・マリア・イン・コスディアン教会へ、「真実の口」は半人半魚の顔の円盤にあり、嘘つきがこの口に手を入れると噛みつかれるという伝説がある。道路の角の質素な建物の中にあるこの円盤、その昔は水道の蓋に使用した河の精の大理石のお面であったという。ここから共和政時代の2つの神殿が見えた。昼食はワインとパスタ料理、パスタのお代わりは自由、本場のパスタ、オリーブ油は強かったが、ワインと共に美味であった。パスタの茹で加減はパスタの芯が無くなる直前を見極めることがコツという。しかし、サラダは日本の兎の餌のようにシンプルな葉物、イタリアのサラダはこれが一般的、どの店でも同じようなサラダに出会った。食後のコーヒーはかなり濃く、小さなカップに入っていた。ミルクと砂糖を多めに入れないと飲めないが、その味は悪くなかった。

 古代ローマの集会所フェロ・ロマーノを右手に見下ろしながら、ローマ市内を巡り、バスは世界最小の独立国というバチカン市国へ、ここはカトリック教の総本山、サン・ピエトロ大寺院を見学、その広場に立つと、聖ペテロの円屋根を持つ教会の壮大さに目を奪われた。この広場は30万人以上を収容することができるという。左右に半円形の回廊を持ち、その回廊の上に約140人の聖人の像が立ち並び、中央にベルニーニの柱、左右には2つの美しい噴水があり、見事なバランス感覚と芸術性に魅せられた。聖ペテロ教会(サン・ピエトロ大寺院)の入り口では、スイス衛兵による儀式が見られた。青銅の扉を中央に、5つの扉が並び、右側にある聖年の扉は25年毎の聖年のために開かれるという。左側の扉から中に入ると、その内部の大きさに驚いた。すべてが大きく造られており、人間の大きさと比較すると圧倒される。天井の高さは44m、教会の内部に6万人が収容できるという。右手にミケランジェロの傑作「ピエタ」像があった。内陣と呼ばれるクーポラ(円屋根)の真下には聖ペテロ像と法王の祭壇があり、ブロンズの天蓋がそびえ、聖堂の心臓部になっている。また、後陣の正面にはバロックスタイルで装飾された聖ペテロの椅子があった。

 その後、ジャニコロの丘へ、ここから見下ろすローマの街並みは素晴らしかった。バスはカラカラ浴場からアッピア街道を経てカタコンベへ向かった。途中で、バスは革製品の店に立ち寄ったので、革製の手袋を買い求めた。カラカラ浴場は古代ローマ時代の大浴場跡、216年頃に完成、温水・冷水の風呂、サウナ風呂、プールや図書館が備えられていたという。ローマ人は入浴が大切な日課であった。6世紀頃、ゴート族の侵入により、破壊と略奪が繰り返され、廃墟と化した。当時の破壊を免れた巨大な壁やモザイク画が残っており、夏には特設の野外ステージでオペラが上演されるとのことであった。アッピア街道は古代ローマへの道の1つ、軍用道路としてナポリの北にあるカプアと結ぶために整備された。後にアドリア海の港プリンディシまで延び、トルコや中近東への最短の道となった。街道にはマイルを刻む大理石の円柱があった。また、道路沿いに石積みの城壁も見られた。カタコンベは各種の宗教団体が管理している地下墓地、特に、古代のキリスト教徒は地下の穴の中に布で包まれて葬られることを望んだという。迷路のように地中を深く掘り進み、地下5階とも6階ともなっており、その全長800kmにも及び、数百万人が埋葬されていたという。網の目の通路の両側に棚が幾つも掘られ、そこに遺体が安置され、一部の遺体はミイラのようになったようである。ロウソクの灯りに導かれながら、網の目の迷路を巡ってみた。

 ホテルに戻り、レストランで夕食、その後、数人のグループでスペイン広場の方面へ出掛けた。テベレ川のカヴール橋を渡り、コンドッティ通りを抜け、スペイン広場まで、靴屋、革製品店、高級ブランドのブティックやファッションの専門店などが多く立ち並び、賑やかな街並があった。私達は、異常なほどにスリ被害に注意を払いながら、それぞれが夫婦で手を繫いで歩いた。今考えると、滑稽なほどに、可笑しな東洋人であった。また、夫婦で手を繫いで歩くなど、何十年振りのことだろう。スペイン階段を登ると、何人もの絵描き屋さんに声を掛けられた。それぞれが個性のある見事な似顔絵を描いていた。階段で楽器を演奏する人達もいた。この周辺は人通りが多く、各種のショッピング街があり、大勢の芸術家達が住んでいるとのことであった。階段を登り切ると、眺めの良いローマの夜景が目に焼き付いた。スペイン広場は階段が造られた18世紀頃、ここにスペイン大使館があったことに由来するという。少し雰囲気にも慣れ、余裕が出てきた。近くの2〜3の店を覗きながら、一部の人はブランド品を物色し始めた。日本人から見ると、ここはブランド品の宝庫のようだ。幾つかの小道を抜け、ホテルへ戻った。ホテル近くの小さなスーパーに立ち寄り、ミネラルウォータや小物の土産物を物色、店のおばさんと身振り手振りで値引き交渉をしてみた。言葉は通じなくとも意思は伝わるらしい、値引きに成功、少しながらも安くしてくれた。意思が伝わったことに感動し、店のおばさんと握手をして別れた。


2.フィレンツェの都
 翌日、私達はオプショナル・ツアーでフィレンツェ観光を申し込んでいた。朝7:00には出発、一部の人達はナポリ・ポンペイ方面に出掛けた。フィレンツェは花の都、イタリア・ルネサンスが開花した町、芸術的なレンガ色の屋根を持つ古い町並み全体が美術館のようであり、期待に胸を膨らませていた。ローマから高速道路で約2時間半、途中、オリーブ畑やブドウ畑など、のどかな丘陵地帯が広がっていた。トイレ休憩に立ち寄ったドライブインでのこと、友人はついでにと土産をかなり買い求めた。ところが代金の支払いになると、何を勘違いしたのか、手持ちの現金が足りないという。イタリアでは10,000リラが約800円程度、2〜3万リラの手持ちで数千円相当以上の買い物をしていたのだ。紙幣の桁数を間違えてしまったとのこと、幸いにクレジットカードが使用できるとのことで事なきを得た。余りにも数字の桁数が多く、錯覚を起こしてしまったらしい。旅の思い出の1つの出来事になった。

 フィレンツェで最初に訪ねた場所は大聖堂「ドゥオモ」、町の象徴「花の聖母寺」(サンタ・マリア・デル・フィオーレ)とも呼ばれている。外壁は修復中であったが、高さ106m、外観が白・緑・ピンクの見事な幾何学的色彩を持つ大理石の巨大な建造物である。建築様式は典型的なイタリア・ゴシック様式の教会、15世紀頃に建てられた。その横にはジョットの鐘楼が高く聳えていた。フィレンツェは2本の主要道路が交差し、アルノ川の船着場を持ち、交通の要所として、商業と貿易を中心に発達した。古代ローマ時代には幾多の戦争の影響を避けることができなかったが、ルネサンス時代にメディチ家をリーダーとする支配体制が確立し、文学・科学・芸術・人文学などでヨーロッパの最先端の文化をリードした。レオナルド・ダ・ビンチやミケランジェロなど、ルネサンス時代の多くの偉大な科学者や芸術家たちはフィレンツェでメディチ家の支援を受けて巣立っていった。「ドゥオモ」から路地に入り、古風なフィレンツェの建物を見つつ、小さな入り口から中に入ると、そこは近代的な広い店内であり、外観と内部の違いに驚かされた。中にはクリスマスの物語を人形で展示している店もあった。フィレンツェは町全体が文化遺産、建物の外観を維持しつつ、人々の生活を確保する工夫が至る所で感じられた。

 ダンテの生家を見て、ヴェッキオ宮殿前のシニョーリア広場へ、そこにミケランジェロの「ダヴィデ像」があり、メディチ家の事務所であったというウフィッツイ美術館に吸い込まれた。そこはイタリア・ルネッサンスの世界最大の絵画コレクションの場、レオナルド・ダ・ビンチの「受胎告知」、ミケランジェロの「聖家族」、ラファエロの「ひわの聖母」、ボッティチェリの「春」「ヴィーナスの誕生」など、教科書で見たことのある超有名な作品が次々と存在していた。フィレンツェ最古の橋「ヴェッキオ橋」を渡り、レストランでの昼食となった。ヴェッキオとは古いという意味のことである。次に、サンタクローチェ教会へ、教会の傍では子供達が数人で遊んでいた。すると、私達のガイドさん「あの子達はスリの常習犯です。その腕はかなり巧妙で近付かないで下さい。近寄ってきたら逃げて下さい。持ち物には十分に注意して下さい。万一、盗まれると、翌日の市場に出品され、それを取り戻すために自腹で購入しなければなりません。盗まれた人の自己責任になります。」と忠告した。一見、可愛らしい子供達のようだが、ガイドさんは直ちに判断できるらしく、しばらくすると、子供達を追い払ってくれた。都市の繁栄の陰に、多くの子供たちは、貧困の中で暮らしているのかもしれない。その雑踏と喧噪の中に、人それぞれの喜怒哀楽が存在し、多くの光と影が交差しているように感じた。教会の正面は大聖堂「ドゥオモ」に類似した見事な色彩を持つ大理石の建造物であった。内部に入ると、ミケランジェロ、ダンテ、マキャベッリ、ガリレオなど、ルネサンス時代のフィレンツェを代表する著名人の像と墓があった。再びバスに乗り、フィレンツェの町が一望できるミケランジェロ広場へ、広場から大聖堂「ドゥオモ」や多くの教会、アルノ川や「ヴェッキオ橋」など、フィレンツェの全容が手に取るように眺めることができた。

 イタリアの町はそれぞれが独特の雰囲気と固有の風景を持つという。それぞれが古代ローマ以前の歴史を持ち、中世の都市国家の町並みに個性的な魅力がある。いずれは、のんびりとオルヴィエートやアッシジやシエナ、さらにはナポリやヴェネツェアやミラノやピサなど、各都市の違いとそれぞれの町での街頭の風景を味わってみたい。ローマのホテルに戻り、イタリア最後の夜、レストランでの夕食はカンツォーネを聞きながら、ナポリやポンペイ方面に出掛けた人達と合同の会食となった。歌の国イタリア、カンツォーネとはイタリア語で「歌」という意味、男性歌手の声量は豊かで、各テーブルを巡りながら、そのサービス精神は旺盛であった。各人がそれぞれの思いを胸に、夜の更けるまで、イタリアの雰囲気に酔った。


3.フランスのパリ
 次の日、アリタリア航空AZ334便でフランスのパリへ、所要時間は2時間強、途中で雄大なアルプス山脈を飛行機の窓から見下ろす。やや曇っていたが、素晴らしい眺めであった。ローマとパリの時差は無く、午前11時半近く、パリ郊外のシャルル・ド・ゴール空港に到着した。当時のフランス通貨は「フランス・フラン」、1フランが20円弱、すでに私達は両替を済ませていた。昼食はセーヌ川沿いのレストランでバターとにんにくで味付けしたエスカルゴのフランス料理、少し変わった異国の食材で舌鼓、フランス・ワインも頂戴した。パリ市内は東西約12km、南北約9.5kmの広さを持つ小さな都市、その形も蝸牛(エスカルゴ)に似ているという。食後、セーヌ川沿いを散歩しながらシテ島にあるノートル・ダム寺院へ、途中に絵画などを売る露店があった。シテ島はパリ発祥の地、パリの中心となる指標もこの島に埋め込まれていた。3世紀頃、この島にパリシー族が住み着いたことから始まるという。ローマ時代に巨大な建物がここに造営され、歴代の王朝の宮殿があった。14世紀以降、その歴史的な遺産は裁判所として使用されている。その一角はフランス革命時に王侯貴族の牢獄として使用され、マリー・アントワネットの独房もここにあったようだ。ノートル・ダム寺院はゴシック建築の代表としての大聖堂があり、天高くそびえるとんがり屋根を持ち、前代未聞の高さに築き上げた天井や豪華なステンドグラスの円花窓が強烈な印象を与えた。

 シャン・ド・マルス公園でエッフェル塔を見上げた。エッフェル塔はパリのシンボル、高さ320m、1889年のパリ万国博覧会を機会に造られた。ここで記念撮影、反対側には陸軍士官学校が見えた。セーヌ川を渡り、凱旋門からシャンゼリゼ大通りをコンコルド広場へ向かった。凱旋門は12本の道路が放射状に延びており、車は凱旋門を中心に右回り、幾重にも車列が重なり、内側に入ると、脱出するまでに何周も回らなければならなくなる。コンコルド広場はフランス革命で国王のルイ16世や王妃マリー・アントワネット等が処刑された場所、中央にはエジプトのルクソール神殿から運ばれたという高さ23mの石柱オペリスクが立っていた。オペラ座で観光バスを降り、オペラ通りの近くを歩きながら、ショッピングを楽しんだ。夕食はレストランで本格的なフランス料理、生牡蠣にワイン、マナーは自己流、注文したフランス・白ワインはテーブル横の氷入りのクーラボックスへ、最初は美味しく飲んでいたのだが、白ワインが無くなるとボーイが直ちに代わりを持ってくる。テーブルに置いたワイン・グラスが空になると注いでしまう。もう要らないと断っても、新しいワインを持って来て、グラスに注いでしまう。フランスのマナーではナプキンの使い方にポイントがあるらしい。マナーに従わない客をボーイがからかっているのかも知れない。ボーイの顔を見ると、何故か笑っていた。高級レストランではマナーの基本があるのかと考え、マナーに詳しい友人に聞くと教えてくれた。マナーに従ってナプキンを掛け、断りのサインを出すと、ワインのお代わりが止まった。何かゲームの世界に入ったかのような錯覚に陥った。お陰様で高級なフランス・白ワインを十分に堪能することになった。

 今夜のホテルは33階建ての「コンコルド・ラ・ファイエット・ホテル」、私達の部屋は21階に案内された。部屋の窓から、夜の凱旋門やシャンゼリゼ大通りのイルミネーション、エッフェル塔などが丸見え、その眺めは素晴らしく、パリの市街は人工的に造られた都市の美しさを感じさせた。パリの整然とした広い街路は、頻繁に繰り返されたパリ市民の騒乱を防止する意図があったようだ。ナポレオン三世の時代、狭く曲がりくねった街路を拡幅し直線的なものにすることで、パリの主要路は軍隊が速やかに移動できるように大改造されたのであった。同時に、敷石が民衆の投石に使用できないようにアスファルト舗装が施された。ところが、就寝間際に、家内が体の不調を訴えた。下痢と嘔吐、どうも夕食の生牡蠣が中ったらしい。同じもの食べ、家内の分までも余分に食した私は何の症状も無い。用意していた薬を飲ませ、翌日の予定変更のことを考えた。翌朝になると、家内はすっかり元気になっていた。一時的な体の不調のようだった。友人夫妻の夫君も同様に体の不調を訴えて大変だったらしい。夫人の方は私と同様に何の症状も無いとのこと、体の疲れと体質によって生牡蠣が中ったのだろう。この日はベルサイユ宮殿の観光を予定していたので心配したが、体調が回復して問題はないという。予定通りにベルサイユ宮殿へ向かった。


4.ベルサイユ宮殿
 ベルサイユ宮殿、フランス国王ルイ13世がベルサイユに狩りをした時、煉瓦と石で出来た小さな城館を建てたのが始まりという。次第に城館の再建拡張工事を進め、太陽王ルイ14世の時、本格的な宮殿に整備され、広大な庭園を持ち、規模の大きさと豪華な建材が使用され、丸ごと一つの町となった。そして、多くの貴族を支配する目的から、政治の中心をベルサイユに移し、宮廷政治を行った。1682年から1789年まで、豪華絢爛な歴史を形成した。しかし、ベルサイユ宮殿の造営と相次ぐ対外戦争の影響は、ブルボン朝の栄光の陰で国庫の赤字を招き、庶民の負担増と王室への不満となり、後のフランス革命の遠因となった。そして、1789年10月6日のこと、国王とその家族が黄金の馬車でパリに戻った時、王侯貴族のいない城は放棄された状態になり、多くの芸術作品が強奪されたという。その後、ベルサイユ宮殿は、修復されフランスの歴史美術館となった。一時的にはドイツ軍に占領されたが、1919年に第一次世界大戦が終了し、ドイツと平和条約(ベルサイユ条約)が締結したことで知られている。ベルサイユ宮殿は正面の柵門を潜ると、左右の均整美を追求した建物に目を奪われる。右側から宮殿内に入り、階段を登ると、無数の部屋があり、撞球の間、遊戯の間、豊穣の間、ヘラクレスの間、礼拝の間、磁器の間、王の図書の間、ヴィーナスの間、ダイアナの間、マルスの間、マーキュリイの間、アポロンの間、戦争の間など、その眩いばかりの室内装飾と多くの美術品に感動した。昔は国王が多くの貴族をここに呼び、領地を賭けてトランプなどのゲームに熱中したこともあるという。鏡の回廊の豪華なシャンデリアや金塗りの彫像と大理石の装飾、1つ1つが一時期の世界の最高傑作の粋を集めたものという。左側の宮殿では、平和の間、王妃の寝殿、貴族の間、戴冠の間などを見学した。当時、国王や王妃は常に多くの従者の監視下にあった。出産の際も多くの従者の前で晒されながらの儀式であった。その私生活は大変な環境下にあったようである。その想像を巡らしながら、王妃の階段を降りた。宮殿の1階は国王の子息達の部屋、しかし、予定時間の関係で、そのすべては回ることができなかった。庭園に出ると、見事な幾何学的模様の広大な花壇があった。宮殿の裏側には、アポロンの泉水や大運河を中心に、多様な泉水と噴水があり、餓え込み花壇の細道を散策しながら、多くのモニュメントの鑑賞ができた。

 一旦、パリのホテルに戻り、夕刻からサヨナラ・ディナー・クルーズへ参加した。ガラス張りの豪華な大型船に乗り、セーヌ河畔のロマンチックな夜景を眺めながら、フルコースのフランス料理ディナーを頂戴しようという試みである。男性は上着とネクタイの着用が義務付けられた。さぞかし紳士・淑女的なパーティが催されると思いながら期待した。確かに、セーヌ川の架かる幾つかの橋桁を潜りながら、パリの街の夜景は一味の違った風景を見せてくれた。しかし、その雰囲気は特別に豪華に感じなかった。ベルサイユ宮殿の豪華で華奢な雰囲気に飲み込まれた影響かもしれない。再び、ホテルに戻り、ショッピングの追加資金にと両替をする。両替の交渉、英語で話すと通じない。いや、実は通じているのだが、フランス語で話せと言っているようだ。まともな英語を話せないのに、フランス語など話せるわけがない。虎の巻を出し、両替交渉、何とか理解してもらったのだが、なんと、日本語も少しは通じるではないか、フランス人はプライドが高く、英語よりもフランス語、それならば、こちらも日本語で交渉した。夜のパリ市街を少し散策する。幾つかのショー・ウインドウを眺めながら、気の向いたお店に入り、土産物を買い求めた。スーパーマーケットに入ると、子供連れの若い日本人女性に出会った。声を掛けると、パリ市内に住んでいるという。パリの街は収入の割りに物価は高いが、子供連れの女性には住みよい処だと言いながら、ラーメンや味噌などを購入していた。福祉の面で日本とは違う恩恵を受けているという。


5.ロワール川の古城巡り
 翌日は最終日、帰国の便まではかなりの時間があり、ロワール川の古城巡りのオプショナル・ツアーを申し込んでいた。ロワール川の流域は、豊な土壌と温暖な気候に恵まれており、中世の貴族達が競って華麗な宮殿を建て、幾つかの古城を中心にした小都市が存在する。そこにはおとぎ話の国のような姿の美しい傑作した城があった。パリから高速道路で約1時間半、ジャンヌダルクで有名なオルレアンからロワール川の流域へ、途中に第二次大戦中に橋を破壊されたままで放置されていた幹線道路や田園風景の中の原子力発電所などを見受けた。

 有名なシャンボール城は、田園の田舎町の広大な森の中程に建っており、ユニークな小塔や煙突の屋根、城内で昇り降りが出会うことのないレオナルド・ダ・ビンチ作の二重ラセン階段などがあった。部屋数は約440室、365本の煙突、800の柱頭、15の階段があり、ロワール川の流域では最大の城、ベルサイユ宮殿に匹敵する規模である。内部は狩猟博物館になっており、獲物の豊富なこの領地で狩猟王フランソワ1世は狩猟を楽しんだという。16世紀前半、フランスのフランソワ1世はハプスブルク家の皇帝カール5世の最大の宿敵であった。城の周囲の森は王の狩場、その森は総延長約32kmの石の壁で囲まれているという。特に、シャンボール城の小塔のテラスから眺めた庭園が素晴らしかった。

 ブロア城は13世紀にブロア伯爵夫人が築いた要塞を基本にしている。その後、代々の城主が増改築を施し、多様な時代の建築様式が集大成されたことに特徴がある。特に、石とレンガの色調が美しかった。この城は宗教戦争の場にも立ち会った。新旧教徒の和解のための場として催された宴は、密かな陰謀の裏をかく手段として利用された。ここで催される豪華な祭典はしばしば悲劇の結幕を迎えたようだ。逮捕や死刑の判決、敵対者との果し合い、暗殺や大虐殺等、悲劇的な歴史を持っていた。そして、フランス革命による破壊と略奪の嵐にも晒されたが、19世紀には修復されて今日の姿が維持されているという。昼食はロワール川の流域にある洞窟を改装したレストラン「ラ・カーブ」、カーブとは穴倉を意味するという。このレストランの息子さんとその仲間達は、バイオリンを弾きながら、歌を披露してくれた。パリ郊外で田舎町の人情ある歓迎に、ロワール地方特有のワインを飲みながら、親しみを感じた。

 アンボワーズ城はロワール川の河岸にあり、15世紀末頃にシャルル8世がイタリアからルネッサンス文化を取り入れたことから、フランス・ルネッサンスの発祥の地とされている。レオナルド・ダ・ビンチが晩年に創作活動をした場となり、ダ・ビンチ考案の機械や模型、最初のグライダーや自動車、回転橋などのデッサンの複製が展示されていた。そこには礼拝堂とアンボワーズ城に続く秘密の地下道があった。また、近くの聖堂にダ・ビンチの墓があった。ここで中世の王様や騎士達の時代に思いを描きながら、ケーキ屋さんに立ち寄り、近くの店でショッピングを楽しみ、レンガ造りの街並みを眺めていた。


6.ヨーロッパの街頭風景
 各都市の街頭には、都市化による人工的な風景があり、日常的な生活空間がある。そして、その街頭風景は、多様な人間社会との関係を持ち、場所や時間によって変化し、一瞬一瞬が固有の情況を生み出している。そこには人間的な空間が形成され、人間が生活するための衣食住を介して、生命の営みとの関連性が見られる。都市は人間が造り上げた複雑な創造物であり、文明社会の姿が映し出されている。また、そこでの食糧生産はないが、田園や地方とも密接な関係を保ちつつ、農村にはない繁栄が見られ、人間の創造力を飛躍的に発展させてきた。そして、そこでは歴史的にあらゆる可能性が模索されて、宗教・政治・思想・権力・経済など、人間の欲望と夢のあらゆる姿を生み出してきた。今日、これらの風景は、このことを意識する側の人間にも存在し、それぞれの人の主観的な風景が心の映像となって生じている。見るべき都市には、それぞれの形があり、見るべき街頭風景が存在する。

 この「イタリアとフランスへの旅」において、ヨーロッパの各都市には、中世の都市国家の余韻とキリスト教の影響が強く感じられ、歴史の重みを持った街頭風景が至る所に存在した。ローマの最盛期は、帝政時代の約200年間、町並みがレンガ造りから大理石の町に造り替えられた。また、巨大な円形闘技場のコロッセオが完成して、ローマ防備のための城壁の構築に着工した。3世紀以降は没落期に入り、西ローマ帝国は解体したが、中世以降になって、キリスト教は教会の指導的な立場で教皇の動きと密接な関係を持ち、中部イタリアで一大政治勢力を形成した。15〜17世紀は、ルネッサンス期であり、ローマの復興と美化が進み、多くの著名な芸術家たちに仕事場を与えた。現在のバチカン市国の聖ペテロ教会が本格的に建造されたのもこの頃であった。聖ペテロ広場から見た円屋根や大寺院や柱と多くの彫像に囲まれた風景は歴史の奥深さを持っていた。「トレビの泉」に至る街角にはローマに住む人々の生活の匂いがあり、水道の破壊などで水の供給を断つことが古代の戦争の手段となった。乙女達の水源地としての意味を持つ、生活水の重要性を考えつつ、付近の街頭風景を見回していた。「真実の口」は水道水の蓋に使用された河の精の大理石のお面であるという。スペイン広場で出会った似顔絵を描く多くの画家達や階段で楽器を演奏していた人達にも日常の生活の匂いがした。信号待ちの車に対して、チップ稼ぎを目的に、車の窓拭きに近寄ってくる人もいた。フィレンツェではジプシーの子供達が芸術的な手腕を持つスリ仲間であった。その近くの大聖堂は、正面があまりに美しい出来栄えの装飾があり、暫し見惚れてしまった。また、レンガ色の屋根を持つ古い町並み全体は美術館のようであり、多くの絵画や街中の至る処で見られ彫像も芸術の都に相応しい匂いがした。そこにはイタリア・ルネッサンスを開花させた歴史の重みが残されていた。ローマからフィレンツェまでの丘陵地帯に広がるオリーブやぶとうの畑、のどかな田園風景の中にも、日本との文化の違いを見た。

 フランスではパリの街が人工的に造られた美しさを備えていた。至る所に幾何学的な美の表現が存在した。パリのシンボルとしてのエッフェル塔、凱旋門の放射状の道路、沼地を干拓したシャンゼリゼ大通り、セーヌ川に架かる豪華な橋など、いずれもが人工の美を誇っていた。ゴシック建築の代表的な建造物、ノートル・ダム寺院には、彫刻や円花窓など、繊細な美しさがあった。その近くでは、多くの観光客に混ざって、絵を描く人、路上で談笑する人、絵画を売る露天商、古今の珍しい本や版画を並べている古本屋など、生活空間が垣間見られた。そして、橋桁の下のセーヌ川の流れは時の流れと共にゆっくりと流れていた。ベルサイユ宮殿ではスケールが大きく繊細で厳正なる人工的な美しさに出会った。また、パリ郊外の川沿いには無数の小都市が古城と共に存在した。戦争の傷跡や田園風景の中の原子力発電所などがありのままの姿を見せていた。そして、歴史的な遺産の中に日常の生活があり、芸術によって造られた町が多く、人々は巨大な芸術の隙間で小さくなって生活しているように感じた。家族的な雰囲気を漂わせていたケーキ屋さんの人々の顔、ホテルやレストランで働いていた人達の姿、食料品店の女主人、大通りを歩く人々など、その一瞬一瞬の時空において、生きている生活空間と現実の街頭風景があった。お金が世界の人々を友達にしてくれると言っては余りにも虚しい。ヨーロッパの各都市にも現実的な生活と歴史の世界が存在していた。

 フランスのベルサイユ宮殿やロワール川の古城は、いずれも広大な庭園を備え、幾何学的な様式を持ち、近くの建造物と見事な調和と一体感を見せていた。この点で日本の寺院や庭園や公園は、東洋的な思想や哲学の心が形になっているようである。特に、京都の寺院には小さいながらも必ず庭園があり、枯山水式や池泉回遊式などの古風な風景を醸し出している。古い民家は特徴のある茅葺張りや格子戸等があり、二重の門構えで外と内との人間的な空気の違いが存在する。また、金沢の兼六園は、宏大・幽遠・人力・蒼古・水泉・眺望の六勝を兼備していることから命名されたようだが、茶室の近くにある瓢池、近江八景と琵琶湖を模した蓬莱島のある霞ケ池、灯篭や雁行橋、クロマツの根が数mも盛り上った根上がり松、園内を流れる曲水等、見飽きない独特の素晴らしさがある。しかしながら、これらいずれもが人工的な構築物であり、それぞれに人間的な生活空間との関係が感じられる。都市の構造と機能は、それぞれが時間的(歴史的)、空間的(地域的)、社会的(経済的・政治的)な関連性を持っており、そこに存在する人々と一瞬一瞬の相互作用が行われているのである。このことは、あらゆる都市構造物に適用でき、人間社会の日常生活の活動の中から、一瞬の街頭風景を私達に提供してくれている。そして、それぞれの人々が固有のイメージを描き、次の活動や行動の糧にしていると考えられる。最近では、都市の近代化に伴って、高層ビルや立体的な高速道路の出現など、世界の主要な都市で画一的な傾向が見られる。しかし、西洋と日本の都市の変化に注目すると、その歴史的な変遷の違いを大切にし、それぞれの都市に埋め込まれた人々の思いを汲み取る必要があると強く感じた。

7.帰国
 ロワール川の古城巡りからパリのホテルに戻り、荷物を受け取り、帰国の準備、帰国の便は、現地時間で午後11:45発のJL1436便、日本時間では翌日の午前7:45発である。まだ見ぬルーブル美術館などの多くの美術館巡り、郊外の多様な都市と建造物など、フランスとパリの街に未練を残しながら、飛行機は約5分遅れで離陸した。幸いに、飛行機のシートは航空会社の都合でビジネスクラスに変更になった。エコノミークラスに比較してかなりゆったりとできた。日本まで、飛行時間は約11時間強、オランダのアムステルダム、デンマークのコペンハーゲン、スェーデンのストックホルム、フィンランドのヘルシンキ、ロシアのサンクト・ペテルブルクとコトラスの上空を経由、さらにロシアのレナ川とアムール川の上空を飛び、日本の成田国際空港に到着したのは夕方の7時を過ぎていた。機内では、今回の海外旅行を振り返り、2人の添乗員さんを交えて、同行した仲間と共に、多くの出来事と話題に花が咲いた。成田空港に到着後、税関や出国の手続きを終えて、午後8時前に解散となった。多くの心の映像を胸に抱きながら、イタリアとフランスを巡る最初の海外旅行を無事に終えた。広大な人間の歴史と生活の空間という時空を駆け巡ってきたような旅であった。

(文責:yut)

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