私の見た東南アジア

中国の上海と蘇州
シンガポールとジョホール・バール
台北と花蓮

私の見た東南アジア

 平成12年7月に中国の上海と蘇州、平成13年9月末から10月初旬にかけてシンガポールとマレー半島最南端の町ジョホール・バール、平成14年6月に台湾の台北と花蓮方面を旅行した。いずれも観光が主な目的であったが、現地の人達との交流と気風に触れて、現実の状況をこの目で確かめることができた。私の見た東南アジアと題して、私的な旅行記をまとめてみた。

1.中国の上海と蘇州
 中国の上海は、長江(揚子江)が東シナ海に注ぎ込むデルタ地帯の先端に位置し、人口が約1,200万人、市街地の面積が約160Kuで東京より一回り小さく、その昔小さな漁村であったというが、中国経済の発展を主導する経済都市である。1839年に起こったアヘン戦争による中国(清国)の敗戦により、上海には、イギリス、アメリカ、フランス、後に日本が進出し、中国の主権のおよばない租界がおかれた。租界は1949年の解放によって無くなったが、当時の建物等は今でも一部が残っている。 最近、経済の自由化により、開発が急速に進み、郊外や浦東地区を中心に高層ビルが多く建てられていた。そして、その規模は日本の横浜を遥かに凌いでおり、中国一の商業都市上海は、人も自転車も車も多くエネルギーに満ちあふれていた。上海は大都市であり、地方からの出稼ぎ人民の流入も多く、高い所得を求め、長く滞在する人になると、5年や10年と建設現場など泊り込みで働くという。中国全体で農村から都会への人口移動は1億人を超え、日本が経験した高度経済成長期の10倍以上の規模で動いている。また、街中には、寺院や庭園などの中国風のものもあり、西洋風の建築物などとごちゃまぜになった不思議な雰囲気が漂っていた。

 成田から中国上海への出発は、週末金曜日の午後2時前、中国東方航空の便であった。日本と上海の時差は1時間、現地時間で午後4時過ぎに上海虹橋国際空港に到着、入国手続きを終えて外へ出ると気温が40℃を超える猛暑、急いで迎えのバスに駆け込んだ。上海では気温が42℃を超えると学校も会社も休みになるという。そこで、天気予報では気温が42℃を超えそうになると、最高気温が41℃程度になりそうですと放送し、地域的に42℃を超えたとしても休みにはならないとのことである。空港から上海の中心地へは高速道路を車で約30分程度、宿泊したホテルは上海の花園飯店であった。そこで上海の経済界を支える人達と交流しながらの夕食を終え、数人で上海の街中を見学しつつ、黄浦河沿いの外灘へ出かけた。和平飯店の地下にあるジャズ喫茶にて、コーヒーを飲みながらジャズバンド演奏を聞く。外はライトアップされた洋風建築が並ぶ上海の名所、大通りを挟んだ反対側の黄浦河沿いのプロムナードは横浜の山下公園の雰囲気に近い。ここの夜景は特別に美しく、浦東地区にある東方明珠塔(高さ468mのテレビ塔)のネオンが見事に輝いていた。そして、上海人の話す上海語は、早口言葉で人々が口喧嘩でもしているかのように聞こえた。

 翌日は蘇州観光へ加わった。蘇州は江蘇省南端にあり、東洋のベニスとも言われる水と庭園の都市である。上海から近く、車で約2時間程度、途中は田園風景であり、太湖が近くにある。蘇州は春秋時代の紀元前514年に呉王闔閭が周囲に城壁を築き都城を造営したのが都市としての始まりという。虎丘に呉王闔閭の墓(未発掘)があり、「一刀両断」の試剣石を見て、「呉越同舟」「臥薪嘗胆」等の4字熟語が浮かんだ。虎丘にはピサの斜塔のように11度も傾いている雲岩寺塔がある。雲岩寺塔は北宋時代(961年)に完成した高さ47.6m、レンガ造りの8角7重の塔である。宋代の詩人蘇東坡は「蘇州に至りて虎丘を遊ばずんば憾事なりけり」と歌っている。次の寒山寺には唐の詩人張継が「楓橋夜泊」を詠った鐘楼があった。伝説によると寒山寺は509年−519年の間に建てられ、当時は妙利普明塔院と呼ばれた。唐の時代に寒山と拾得がここで修行し、その故に寒山寺と名を変えた。寺の中には寒山と拾得の彫刻像があり、張継の詩が刻んである石碑があった。昼食は四川風の蘇州料理、日本人向けの味付けが美味しかった。蘇州は南京及び杭州とともに中国の3大シルク産地、蘇州絲綢研究所を見学し、シルク加工の高度な技術を持つ芸術的な両面同画織や異画面織に感心しつつ、隣接する絲綢商場でシルク製品や絹織物を買い求めた。

 蘇州の留園と拙政園はそれぞれが中国四大名園の一つである。留園は400年も前の明の嘉靖年代に作られ、1997年に世界文化財に指定された。約6,000坪の敷地面積を持ち、明代の太僕(官職)徐泰時は、多くの奇岩怪石を集めて、東園と西園を造園した。清の乾隆末に劉園と名付けられ、増築後に寒碧山荘に改名されたが、光緒年間に増改築して留園となった。留園の建築の配置と構造は厳密で精巧であり、景観が変化に富み、様々な要素がバランスよく配置され、気品も高く、歩くと景色が変わり、見学人を佳境に引き入れる。園内は中部及び東と西と北の四つに分けられ、中部は池と築山がメイン、東部は亭と堂等の建築物が中心、西は美しい土山と楓の森の自然、北は田園風光がある。この4つの区の景物は曲がりくねった廊下でつながれ、花窓という透かし彫りの窓から見える景色が一つ一つ異なり、それぞれが一枚の絵のようになる。拙政園は世界遺産としての「蘇州古典園林」の主格とされ、中国庭園のモデルとして事実上中国第一の庭園と言われている。当初、唐の詩人陸亀蒙の自宅であったが、明代の正徳4年(1509年)に官僚の王献臣が造営した。王献臣は明の官僚を追放され、故郷の蘇州に戻り、愚かなものが政をつかさどるという意味で「拙政」と名付けたとの説がある。拙政園は蘇州の庭園でもっとも広く、約15,600坪の敷地面積を持ち、東園、中園、西園の三つの部分と住宅部分からなる。園内の中心的な存在は水、全体の約5分の3を大小の蓮池が占めている。蓮池の周りに東屋、橋、回廊、緑が水面に映って美しい景観を構成する。中国の古典文学「紅楼夢」の舞台はここをモデルとしたらしい。水際に築かれた建物は自然で独特な趣きがあった。池を中心とした構成は、随所に借景や対景など庭造りの技法が活かされていた。建築物は素朴で明るく、水に臨んで園内に亭が十幾つもあるが、様式が皆異なっていた。西園には「盆景園」があり、優秀な盆栽の作品が集められ、盆栽館に蘇州式の盆栽が展示されていた。

 その後、上海に戻り、浦東地区の東方明珠広播電視塔の近くにある「小南国大酒店」にて、上海名物の上海ガニや小龍包や雲呑等を地元のビールや紹興酒で頂戴した。外に出ると、周囲の夜景の眺めが素晴らしく、周辺を散策し、最高の気分を味わえた。黄浦河を越えて、再度外灘へ行ってみた。昨日よりも人出が遥かに多く、若人達で賑わっており、上海の活気に圧倒された。


2.シンガポールとマレー半島最南端の町ジョホール・バール
 2001年9月29日〜10月3日の間、4泊5日の日程で、シンガポールとマレー半島最南端の町ジョホール・バールを旅行した。友人夫妻を誘って、4人でシンガポール旅行への参加を申し込み、大船より成田まで成田エクスプレスのボックスシートの指定席を確保し、成田発JL711便で出発、快適な旅が始まった。横浜で乗り込んできた外人さんに成田エクスプレスの号数を確認されたり、成田のカウンターで手続きに若干の食い違いがあったり、これから待ち受ける出会いとの期待があった。

 飛行機のフライトはほぼ定刻に出発し、雲上の人となった。米国の同時多発テロの影響で旅行客は少なく、空席が多かった。窓から見える地上はネオンサイン等の街の明かりが美しかった。間もなく、機内ではスチワーデスさんが夕食の準備を始め、やがて機外は闇夜の世界となった。シンガポールのチャンギ国際空港まで約7時間であり、途中フィリッピン上空を通過したようであった。空港で入国手続き終え、手荷物を受取り、出口に向うと、現地のガイドさんが待っていた。ガイドさんの名は「ジャスミンさん」2人の女の子の母とのこと、40才前後のように感じた。この日はホテルへ直行した。ホテルはアラブ街近くにある「ゴールデン・ランドマーク・ホテル」であった。地下鉄「ブキス駅」へ約5分、交通の便が良く、比較的大きなホテルであるが、シンガポールでは中級ホテルの上クラスのようである。私ども夫婦は8階の801号室、友人夫妻は9階の901号室であった。夜中に水漏れのような音がしたが、室内は清潔であり、シャワーの使用も問題がなく、快適な空間であった。後に、水漏れの音は、9階の901号室らしいことが判明、友人夫妻は9階の908号室に変更された。次の日から水漏れの音は消えていた。

 翌日、窓から外の景色を眺めると、近くに金色のドームを持つ「サルタン・モスク」が見えた。窓の下は「アラブ・ストリート」であった。この日は日曜日であり、朝の礼拝に向うため、独特の衣裳で身を包み、歩く姿のイスラム教徒の人々が見えた。その後、専用バスにてシンガポールの市内観光、マーライオンパークや仏教寺院や植物園等に行った。同時に、買い物ツアーの様相でもあった。皮製品工場のショップや宝石類、シルク衣料センターや免税店等、家内は多くの土産物を買い込み、何しにシンガポールへ来たのかと愚痴る始末であった。しかし、娘と嫁の皮製品、自分のためのイタリア製バックや指輪をチャッカリと買い求めていた。昼食はドラゴンゲートの「食在龍門」にて飲茶料理、現地のタイガービールを注文し、数種類のシューマイ等で満腹になっていた。また、市内観光中に写真やビデオを専属に写すアルバイト学生が観光バスに同乗し、結果的に、その旅行記録を買い求めることになった。特に、ビデオについては私共4人のグループが1本のみ申し込んだ以外に誰もなく、アルバイト学生の「ジミー君」はこの時から私共4人の専属カメラマンになってしまった。

 午後にホテルへ戻り、夕方からオプショナル・ツアー「ナイトサファリー&ディナー」に参加した。ディナーはサファリーレストランでのバイキング料理、腹ごしらえ後、徒歩ルートの散策、カワウソやヤマアラシやベンガルヤマネコ等、多くの小動物を見ることができた。次に列車型の乗り物でトラムルートへ、出発直前に強烈なスコールが襲った。トラムツアーの所用時間は約45分、イーストループとウエストループを回って、世界各国の珍しい動物達を見学した。トラムが動き出すと、スコールが止み、動物達が活動を開始していた。ここは、周りを湖に囲まれた40ヘクタールの広大なジャングルであり、アジア、アフリカ、南米に生息する約1000頭の夜行性の動物が飼育され、夕方からの見学の時間帯に活動するとのことである。イーストループではヒマラヤ丘陵からネパールの谷へ、インドオオカミやインドサイやジャッカルやヒョウ等を見た。インド亜大陸からアフリカ赤道付近とインドネシア/マラヤ地域へ、ライオンやハイエナやオオツル、ナマケグマ、キリンや水牛、マレートラ等が活動していた。ウエストループに入ると、アジア河川地域から南米草原地帯を経てビルマ丘陵へ、大きなマレーバクやヒゲブタ、アジアゾウの群れ、オオアリクイ等、珍しい動物達がいた。出口の横の舞台では、鷲のような鳥や小動物あるいは大きな蛇を使って、見事な楽しいアニマルショウが行われていた。

 次の日、10月1日はシンガポールの子供の日、でも休日ではないとのことである。ホテルの朝食はバイキング料理、メニューの内容は前日と同じ、部屋の鍵を見せるだけでOK(宿泊が朝食込みの場合)、多様な国の人々がいた。日本人は以外に少なく、顔の形は似ているが、話す言葉は、英語、マレー語、中国語等、多種多様であった。この日は、マンダイ蘭薗とジョホール・バール観光のオプショナル・ツアーを申し込んでいた。マンダイ蘭薗は、シンガポールの高速道路(ブキ・ティマ・エクスプレスウエイ)でジョホール・バールへ向う途中にあり、個人が所有する約4万m2の緩やかな斜面の土地に、千種類百万本以上のランの花が栽培されていた。ジョホール・バールはマレーシア最南端の町であり、国内で3番目に大きな都市である。越境のために、パスポート携帯は必須であり、ジョホール水道の国境で入出国の手続きをした。シンガポールとマレーシアとの国境ジョホール水道には巨大な水道管が敷設され、シンガポールはマレーシアから飲料水を購入し、その半分を清涼飲料水にしてマレーシアへ逆輸出している。なお、シンガポールでは、食料を始め、あらゆる生活必需品を近隣諸国から輸入している。つまり、シンガポールは経済先進国であるが、その経済的な基盤は、貿易、金融、観光、一部のハイテク工業製品の生産によって成り立っており、農業や工業等、幅広い経済基盤が存在するわけではなく、世界経済の一部の重要な機能を担って国家が維持されている。教育制度はエリート養成意識が強く、競争が激しいとのことである。厚生年金や健康保険等がなく、福祉制度は遅れているようである。大局的に見れば、その中心となる民族が華僑(中国人)であり、マレー人の次にアラブ人が中流階層に位置し、インド人などが経済の底辺を支えているようであった。一方、マレーシアは王国であり、マレー人が強く、イスラム教が広く布教している。国境を境に道路状態の違いがあり、マレーシアの道路はシンガポールに比べて田舎道の感じがした。マレーシアのジョホール・バールには、ビクトリア様式のベサール宮殿(サルタン王宮)があり、青の屋根瓦と白の壁が美しいコントラストを形成して輝いていた。この青の屋根瓦は日本の三河産とのことであった。この宮殿は1866年に初代の王様アブ・パカールによって建造され、現在でも王室の行事に使用されているとのことである。しかし、宮殿内は一般公開され、宮殿内で使用された食器類や各種のコレクションが展示され、博物館として開放されていた。アブ・バカール・モスクはその外観を見学した。その後、村内に植えられているシナモンやバナナやコーヒー等の植物を観察し、竹製の楽器アンクロンや太鼓による音楽と踊りを満喫した。土産物店はシルクや木綿のロー染め物、錫製の器、ヤシ人形や果物が売られていた。ヤクザ風ガイドの「ティーさん」の案内が楽しかった。昼食は一流ホテルでのバイキング料理、日本人の口に合った料理が多かった。

 シンガポールへ帰路、フットマッサージを申込み、途中で下車し、約45分間、足のツボをベースに肩と腕を揉み解した。特に、足の裏は人体の重要な気管とつながっており、腎臓や肝臓、胃腸、頭や目に異常があると、その部分の痛みが激しかった。ホテルへはタクシーで帰った。タクシーの運転手の話しでは、ガイドさんが免税店やマッサージ等を紹介すると、その数10%をリベートにするとのこと、4人が半日タクシーを貸し切りで観光すれば2千円とのこと等、いろいろな情報が入手できた。夕方には「ナイトセントーサ&ディナー」のオプショナル・ツアーに参加した。セントーサ島へのケーブルカーからシンガポールやその周辺の海域が一望できた。セントーサ島は島の東側半分がゴルフ場、西側半分が観光施設、島民は無く、島全体が観光目的に利用されている。一般車の進入は禁止され、夜中に観光客を迎えにくる許可された車のみ可能とのことであった。巨大なマーライオン・タワーに登ると、シンガポールの夜景や近隣の島々が眺望できた。その内部は難破船の構造を模倣しており、3次元のレーザー光線TVなどにより、巧妙な解説があった。夕食はセントーサ島の西側、リゾートホテル内のレストランでのバイキング料理であった。この間、外は激しいスコールが襲ったようであったが、全く気付かなかった。最後に、レーザー光線と動く噴水を組合せた見事な夜のアトラクション・ショーを見学してホテルへ帰った。

 10月2日は全て自由時間であったが、夕方のオプショナル・ツアー「トライショー&ニュートンサーカス」を申し込んでしまった。朝食後、ゆったりと疲れを癒し、現地時間の10時(日本時間11時)前頃に行動を開始した。ホテル近辺のアラブ街を散策、「サルタン・モスク」を見学し、ストリートの店を覗きながら、珍しい提灯等を買い求めた。そして、ブキス駅から地下鉄(MRT)に乗り込み、シティホール駅で乗り換え、オーチャード駅へ向った。シンガポールの地下鉄は、良く出来ており、誤ってホームから線路に落ちることがないようになっていた。乗車時にバスカードのような切符をコインで行く先まで買い求める。紙幣は窓口でコインに交換してくれた。改札口を通過する時、カードが手前に出てくるので一瞬戸惑った。ブキス駅からオーチャード駅まで1人1シンガポールドルであった。オーチャード通りは日本の銀座通りをやや広くした感じであり、多種多様な人種が非常に多く行き来していた。いくつかの店に入りショッピングを楽しみ、途中のコーヒーショップで休憩し、アップルパイと美味しいモカコーヒーを買い求めて頂戴した。昼食は連日のバイキング料理で満腹のために抜き、歩き疲れもあり、サマセット駅からギブス駅へ戻ることにした。この時、運賃は1人80セントであったが、1ドル分を購入すれば、降りる時にカードが戻り、記念にカードが残ると考えた。しかし、キブス駅ではカードが戻らずに失敗、別に80セントのカードを記念に購入することになった。ホテルに戻り、一時の休息を取り、ホテル内の売店をショッピングした。夕方のオプショナル・ツアー「トライショー&ニュートンサーカス」は、サーカス(曲芸)を見に行くのかと思えば、サイドカー付き自転車でシンガポールの下町を見学し、夕食を屋台で頂くというものであった。つまり、サーカスの意味は「交差」であり、いろいろな人の出会う屋台での食事ということであった。チャイナタウンの近くを散策し、サイドカー付き自転車でリトルインディアからアラブ・ストリートへ向った。途中、仏教寺院や赤線地帯を通り、泥棒市場を通り抜けた。シンガポールは自動車よりも自転車が最優先であり、その運転が日本ならば、交通事故続出の危ないものであった。歩く目線でシンガポールの下町の風景を楽しめたといえる。屋台での夕食は、伊勢海老等の海鮮物を主体としていたが、素材の良さに比べて料理方法がお粗末に感じた。また、ビールを注文したら、現地のタイガービールでなく、アサヒドライの樽が出てきた。しかも、その値段が約30ドル、チョット高かいようである。この日はシンガポール最後の夜、物足りない面もあるが、早めにホテルへ戻った。

 最終日の10月3日は、朝5:00起床、6:00に空港へ向けて出発、JL712便でシンガポールを後にした。なお、シンガポールの街はネオンサインが禁止され、植木類は豊富にあったが、夜間消毒が徹底され、虫類が1匹もいなかった。


3.台湾の台北と花蓮方面への旅行
 台湾へは、平成14年6月にいつもの友人夫妻を誘って、成田発午前11時半のEG203便で出発した。台北の中正国際空港へ現地時間の午後2時前に到着した。時差は1時間である。現地ガイドの案内で台北へ、途中で台北駅前にある台北のランドマークとも言える新光摩天展望台46階に上り、眼下に広がる台北市街360度の全貌を見渡した。西には淡水河が流れ、南に総統府や中正記念堂、北側の遠くに園山大飯店等が見えた。宿泊ホテルは地下鉄「善導寺駅」前の来来大飯店である。チェクインしてから、現地の知識人との交流会を兼ねた夕食の会場へ向かった。場所は民生東路の「蘇杭極品」江南美食・上海名菜である。現地の人達が準備をして盛大に出迎えてくれた。出席者の自己紹介を始め多くの方々との和やかな歓談と豊富なメニューの食事、時間の過ぎるのが早く、記念撮影を終えて解散した。タクシーに分乗してホテルに着くと、時間は午後11時を過ぎていた。1日の疲れからベットにバタンキューと夢の世界へ引き込まれた。

 翌日の2日目は台北市内の観光が目的である。15階の室内の窓から外を見渡すと、眼下に警政署、その左隣に行政院、手前に監察院と立法院が続き、台湾の政治の中枢にホテルが存在していた。朝食はバイキング式、品数が多く豊富なメニューはいずれも日本人好みの味付けであった。観光バスに乗り込み、日本の大正時代に建てられたという赤煉瓦のルネサンス造りの総統府を外から見学し、台湾の政治の中心である外交・法務、裁判所等の諸官庁を通り抜けて中正記念堂へ着いた。中正記念堂は故蒋介石総統の偉業を記念して1980年に完成した青い瑠璃瓦と白亜造りの純中国様式の建築物である。記念堂の正面の額には「大中至正」なる言葉が掲げられている。これは「中庸の道を歩み、公明正大である」という意味の孟子の言葉であり、蒋介石の本名「中正」は孟子の論語の一節から引用して名付けられたという。次に台北孔子廟へ、最初は清朝時代に建てられたが、日清戦争後に破壊と老朽化が進み、1907年に日本軍によって取り壊された。その後、孔子を尊敬する人達の寄付で建て直され、1927年以降に数回の拡張と修繕を重ねて今日の規模になった。孔子廟の特徴は正門(儀門)を通らずに左右に出入口があり、建築様式は古代宮殿式で曲阜孔子廟をモデルにして建てられたという。この近くに保安宮があり、医術であまたの衆生を救った人を保生大帝として崇め、神農大帝、孔聖夫子、関聖帝君、玄天上帝、天上聖母等々の諸神が祀られていた。途中、免税店で買い物をし、昼食は吉林路の農安街口にある「東楽本店」で石鍋料理を味わった。中国伝統の豪華な宮殿洋式で統一された園山大飯店の近くを抜け、忠烈祠へ向かった。ここは中華民国建国や日中戦争や中国国内の内乱で殉死した軍人や人々が祭られている。特に、警護に当る儀仗兵のきびきびした動作の交代儀式(1時間毎)を見ることができた。交代した衛兵は身動き1つなく立ち続けていた。世界5大博物館の1つである台北の故宮博物院へ向かった。ここの収蔵品はもともと北京にある故宮・紫禁城に所蔵されていたが、近代中国混乱期に散乱・破壊・略奪の危機にあり、大半の重要な文物を北京から南京へ、そして台湾へ運ばれ、その移送過程で物品の破損が1つもなく、大切に保存されたという。その背景には、中国文化の伝統的な後継者は、歴代の皇帝が収集して愛用した文化遺産を引き継ぐことによって歴史的に認知されるという考え方がある。このことが中国の歴代王朝の文化を今日の私達に知らせてくれたのである。収蔵品は70万点余という。その内、約2万点が展示され、数百点の絶世の傑作が常設展示室にある。甲骨文や夏・商・周代の遺物、青銅器や陶磁器、書画類と彫刻、玉器や家具等、短時間で鑑賞するのはとても無理であった。特に、宋・元・明・清代の陶磁器や中国歴代の玉器は、その精巧さに目を見張るばかりであった。記念写真を撮ることも忘れ、故宮博物院を名残惜しく後にした。途中で漢方薬の専門店(滋和堂)に案内され、少林寺拳法の秘技を見て、漢方薬の効能の講義を受けた。観光バスを途中下車し、夕食は小籠包の店「鼎泰豊」忠孝店で、各種の小籠包、焼売や餃子、牛肉や豚肉の料理を台湾ビールや紹興酒とともに舌包みした。夕食後、地下鉄に乗り込み、夜の龍山寺へ向かった。龍山寺は台湾最古の寺で1738年に建てられ、現在は大規模な改装工事が行われていた。本尊は観音菩薩像、両側に文殊・普賢の両菩薩、左右には、四海龍王、十八羅漢、海の守護神、商売の神様、町の神様、治水の神様、子宝の神様等が祭られ、台湾の典型的な神仏混合のお寺であった。元気な人は夜市の屋台へ繰り出したが、私達はタクシーでホテルへ直行し、台北観光の1日を終えた。

 台湾3日目、十数名でマイクロバスを貸し切り、花蓮・太魯閣方面へ向かった。前日に急遽予約したミステリーツアーの開始である。台北から花蓮まで約230Km、コースの大部分は太平洋側の絶壁であり、箱根の旧道以上の難所が数多くある。台北近郊の高速道路を下り、基隆から鼻頭角へ、大渓、宜蘭、蘇澳までは比較的平坦な道路であった。途中、セブンイレブンが数多く見受けられ、台湾進出の激しさに驚き、マイクロバス内に大量の飲食類を調達した。台湾北部の町並は、日本の昔の田舎町のようであり、のどかな田園風景があった。蘇澳の港では花蓮方面の道路を見失うハプニングを体験した。花蓮までの山道は、途中に「清水の断崖」と呼ばれる絶壁があり、台湾地震の痕跡が幾つか残されていた。太魯閣峡谷の入口にあるビジターセンターに到着した時は午後2時を過ぎていた。近くに適当な食事場所がなく、花蓮近くの「光隆」のレストランまで行った。花蓮は大理石の産地、昼食後、休日の石材加工工場を見学し、巨大な旋盤や研磨機、加工品の数々に触れて歩いた。広い敷地内には鉱石科技博物館があり、大理石像や珍しい鉱石・化石等を展示していた。また、花蓮は先住民族アミ族の中心地、アミ族は歌謡と舞踊が秀でるという。カラフルな衣装とダイナミックなダンスを見学し、一緒に踊りに加わった。再び太魯閣方面に向かうが、すでに夕方近くになり、峡谷入口の川辺から渓流の山並みを見て引き返した。花蓮のホテルは東洋大飯店であり、チェックイン後、夕食を兼ねながら花蓮の夜市を散策した。かなりの賑わいがあり、物価は台北より安く、衣類や食材等が豊富であった。

 翌日は、花蓮の海側をさらに南下の予定であったが、マイクロバスの運転手が何を間違えたか山側にハンドルを切った。海側への道を探したが、見当たらずに、結果的に引き返して海側の太平洋を望み、途中で海岸へ降りてみた。時には鯨が出現するというので見回したが、その気配がなく、山側にある高射砲台跡が戦争の面影を残していた。再び、山側へ戻り、鯉魚潭湖面へ車を走らせた。ここは現地の穴場、観光案内には掲載されてなく、生きたエビを食し、湖畔の食堂にて、早めの昼食を済ませた。今度こそ、太魯閣峡谷へと車を走らせた。断崖絶壁に燕の巣穴が無数に見られる燕子口を経て、9つの曲がりくねったトンネルのある九曲洞へ、一旦、下車して峡谷のすばらしさを満喫した。さらに、奥へと思っていたら、車の運転手は、何を考えたか、太魯閣峡谷の入口へ、引き返してしまった。再び、峡谷へのチャレンジを頼み、車は峡谷観光の終着点「天祥」へたどり着き、深緑の中の吊り橋を渡ってみた。峡谷を下り、ガソリンスタンドに立ち寄って、台北への帰路に付いた時、午後3時を過ぎていた。工事中の多い山道を抜け、絶壁の下り坂をブレ−キがよく効かないオンボロ車で、ペタルを踏むとキュウキュウと泣いていた。南無阿弥陀仏、過去に日本人旅行客が崖から転落した事故の報道を思い出した。運転手は地図もなく方向音痴、標識無視のミステリー旅行の不安はあったが、無事で何より、貴重な体験をした。花蓮から台北に向かう途中、長さ2,000mのトンネルのど真ん中で約1時間駐車した。原因も判らずに、車内は次第に一酸化炭素が充満し、息苦しくなったが、皆さん我慢してよく耐え忍んだ。長時間駐車の原因となった道路の大工事を見ながら車が走り出し、またトンネル、さらにトンネルと続いた。途中、セブンイレブンで駐車、トイレ、水の補給、腹ペコが救われた。台北で最後の夜のホテルYMCA国際賓館へ到着した頃は夜の9時半であった。チェックイン後、夕食を求め、漢中街にある24時間営業の香港式飲茶「亮星」まで歩いた。

 台湾には親日派が多く、政治的に中国派と独立派が対立している。歴史的には、元朝時代にその保護国となり、清朝期に福建省へ編入され、1885年に台湾省になった。しかし、1624年にはオランダに侵略され、スペインにも一時北部を占拠された。明朝期の1661年に鄭成功(国姓爺)がオランダを撃退した。清仏戦争では台湾北部を一時フランスに占領され、日清戦争で下関条約により台湾が日本に割譲された。第二次世界大戦後に中国に返還されたが、約50年間は日本の統治下にあった。この間に、日本はダムを造り、鉄道を敷設し、台湾の近代化に貢献した。その後、清朝を打倒して中華民国を成立させた国民党が中国本土の内乱に敗れて台湾に移住し、今日の台湾の土台を築いた。台湾本島は南北394Km、東西144Kmであり、中国大陸とは約160Kmの位置にある。南北に三千m以上の中央山脈が貫なり、国土の2/3が森林地帯である。暖流の海流に囲まれ、高温多湿の亜熱帯と熱帯の地域である。2千数百万人の人口の内、原住民は約35万人という。大半が中国大陸からの移民であり、そのほとんどが福建省出身者である。ホテルから見た台北市内にはパソコン教室や学習塾の看板が多くあり、街中では、整然と駐輪したバイクの多さに驚き、若者達の活気を強く感じた。太平洋岸側には最先端技術工場らしき建物を見ることができなかったが、台北の郊外にそれらしき建物もあり、新竹や高雄を中心にして、中小企業を中心とするハイテク産業が存在するようである。

 最終日は、台北(中正国際機場)発13:30のEG204便にて、故宮博物院や足裏マッサージに未練を残しながら、成田へ帰国した。4泊5日の台湾旅行は天候に恵まれ、旅先での多くの出会いが一人一人に人生の1ページを記録した。

(あとがき)
 それぞれの国、それぞれの地域には、固有の歴史や文化が存在し、そこに住み生活している人々がいる。人が生まれ、育ち、意識を持って、様々な行動をすると、そこに何らかの組織や社会が存在する。母親と赤子の関係から、家族を認識し、友達や社会的な交際相手が生ずる。やがて、地域や国家が意識され、宇宙から見ると、地球と言う小さな生命体の社会があることを知る。日本で国内を旅行すれば、必ず誰かあるいは何かとの出会いを経験する。海外旅行においても、日本では味わうことのできない出会いがある。人は多くの出会いを体験して成長する。そこでの出来事や歴史や地域性を知ることが人々の心をより広く大きくさせてくれる。私の見た東南アジアは世界の中でほんの一部分であるかもしれない。しかし、それぞれの出会いにおいて、2度と味わうことのできない一瞬を通して、素晴らしい体験をしたと思っている。

(文責:yut)

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