インドネシアのバリ島とジャワ島の世界遺産への旅

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ボロブドゥール遺跡とプランバナン寺院

インドネシアのバリ島とジャワ島の世界遺産への旅

 インドネシアのバリ島は地上の楽園とも呼ばれている。しかし、その歴史は過酷な侵略と殺戮があった。その歴史を垣間見ながら、バリ島およびジャワ島の世界遺産を、60歳の記念にと我が娘が私共夫婦と懇意にしている友人城田夫婦を案内してくれた。

1.成田からバリ島へ(6/11)
 平塚駅を午前6時過ぎに出発、戸塚駅から成田空港第2旅客ターミナルビルまで成田エクスプレスに乗車、11時発のガルーダ・インドネシア航空GA881便でバリ島デンパサール空港へ向かった。デンパサール空港の正式名はングラ・ライ国際空港、機内の座席はエクゼクティブ・クラス、座席の広いプレミアム・エコノミーを申し込んだが、2名分のみ格上のエクゼクティブ・クラスの席が確保された。娘と家内の言葉に甘え、我々男性2名で乗り込んだ。ゆったりとした座席に行き届いたサービス、早速、バリ島のビール、ビンタンを飲み干し、昼の機内食は2人で和食と洋食を所望しワインで乾杯した。プレミアム・エコノミーとのメニューの違いが気になった。

 宿泊先はバリ島のリゾート地、ヌサ・ドゥアにあるウエスティン・リゾート・ヌサ・ドゥア、バリ風の衣装の娘に歓迎され、チェックインの手続きをする。館内は広く高級ホテルの風格が漂っていた。ここを拠点にバリ島の観光とショッピングなど、そのすべてを満喫しようという試みである。そして、翌日から2日間はウブドにも宿泊拠点を置き、貸切タクシーで内陸を中心に巡る予定になっている。このバリ島には鉄道が無く、路線バスも無い。乗合バスはあるようだが、何時に出発するかは不明、バスが満員になるまで待たされる。車が無ければどこにも行けない。したがって、道路は車やバイクが多く、中古日本車のトヨタやホンダ(何故か日産は少ない)および外車、バイクは日本のスズキ、ヤマハ、川崎、ホンダなどに人気がある。新車のバイクを月賦で購入、2人乗りは当然、3〜4人乗りのバイクも多い。また、デンパサール近郊は選挙期間中、ポスターや集会が目に付いた。

 夕食は、バリ島に住む娘の友人「つくちゃん」と翌日に帰国予定のそのご両親達と合流し、ブノア岬の近くタンジュンブノアにある「ロコ・カフェ」でインドネシア料理を味わった。迎えのタクシーの運転手は「パステカさん」、娘達がバリ島で懇意に利用している馴染みのドライバーである。店に到着すると、親子がバリ風ダンスで歓迎していた。


2.スマラプラ王宮跡〜ブサキ寺院〜キンタマーニ〜トヤ・ブンカ(6/12)
 翌日はクルンクン県のスマラプラ王宮跡へ、ここはバリ島がオランダ軍に支配されるまでの最後の王朝デワ・アグンの宮廷が存在した。旧裁判所クルタ・ゴザを見学、水に浮かぶ宮殿バレ・カンバンがあり、近くにはオランダ軍への抗戦の記念碑があった。クルタ・ゴザとバレ・カンバンの天井画は圧巻、地獄図で生前の行為を戒めている。クルタ・ゴザは北東の角にある。クルンクン王国の事実上の最高裁判所、周囲に壁がなく、村で解決できない争議や訴訟が最終的に持ち込まれた。初期の天井画は布に描かれていたが、劣化が激しいので、アスベストのシートに描き直された。一番下の列にあるのは5つの物語を絵にしたバリ版の千夜一夜物語、その上の列には死後の世界を旅して目撃したという悪人達への拷問の様子、上の列には不老不死の薬を捜し求めたガルーダの物語、バリ暦に基づく諸行事、天国を旅した場面などが描かれている。バレ・カンバンの天井画には、バリ暦に基づく絵、子供達に関する民話、英雄の冒険物語などがテーマのようだ。創設時の宮廷と敷地のほとんどは1908年のオランダ軍の攻撃で破壊されたが、正方形の敷地の南門のみが当時の名残という。また、博物館には王朝時代の宝物や当時の写真と絵画が展示されていた。子供達が私共の横を走り抜けていった。何事かと思ったら、博物館の入口で歓迎の楽器を演奏していた。小遣い稼ぎのようなので、少しばかりの気持ちとして、お礼をしたら喜んでいた。

 次の目的地はブサキ寺院、途中に手入れされたライステラス(棚田)の美しい景観があった。ブサキ寺院はバリ島の最高峰アグン山の中腹にあるバリ・ヒンドゥー教の総本山、16世紀頃のゲルゲル王朝の王家の葬儀寺院としてその地位を確立した。ヒンドゥー教の3大神(プラフマ、シヴァ、ビシュヌ)を祀る寺院を中心に、バリ島各地のすべての寺院を包括し、多くの寺院が集まる複合寺院になっている。入口では、宗教上の理由から男女共にサロン(腰布)を巻き付けねばならず、村が組織するガイドグループに高額のガイド料を支払わなければならなかった。また、寺院の割れ門の近くまで、数百メートルの距離をバイクに乗れとかなり執拗に誘われた。幸いに日本語の話せるガイドが付き、バリ島内の寺院の種類や根強いカースト制度などについて、その状況を知ることができた。最も古い寺院の土台は2千年前に造られた。石に刻まれた銘文から紀元1008年にヒンドゥー教の儀礼が催されたこと、ジャワ島の征服者がバリ島に定住して1284年からヒンドゥー教の祈りを捧げたことなどが知られている。1917年の地震でほとんどが破壊されたが、オランダの再建援助などで寺院は補修された。メインのプナタラン・アグン寺院内へは観光客が入れない。しかし、西側から壁越しに境内を見ることはできる。祭礼は毎週のようにあるが、毎年の記念祭は4月頃、重要な祭礼として、10年毎の儀式と100年毎の儀式があるという。100年毎の儀式は1963年に行われたが、アグン山の噴火により中止された。最新の10年毎の儀式は1999年に行われている。小さな寺院に案内され、礼拝をしたら、献金せよと要求された。日本では気持ちのみの賽銭、多額の賽銭を求められたが、日本風で通した。空飛ぶ大鷲ガルーダの彫り物もあった。ガルーダは日本のカラス天狗の元祖という。サンスクリット語の文字も見られた。途中でフランス人の団体にも出会った。雨が激しくなり、頂上近くのお店で一休み、繊細なバリ風の絵画が多く展示されていた。展覧会にも入選した実績の持ち主で、このお店の人が描いたという。

 バリ島で最高の景勝地キンタマーニに到着すると、あいにくの雨、活火山のバトゥール山を中心とする典型的なカルデラ地形を持つ、雄大なパノラマは眺めることができなかった。しかし、村の入口では入村料を支払わされた。キンタマーニからバリ島の水がめバトゥール湖へ降りると、雨は晴れ上がっていた。溶岩流の跡地の道路を抜け、バトゥール湖の湖畔にあるトヤ・ブンカへ、ここで遅めの昼食を取り、持参の水着に着替え、温泉プールへ入浴、千葉と兵庫の出身という日本人の若い女性に出会った。再びキンタマーニを経由し、タンパクシリンを抜け、ウブドへ向かった。

 今夜の宿はウブド郊外のグリーンフィールド、それぞれの客室が独立しているヴィラ、中心地から外れており、目前に美しい田んぼが広がっていた。一旦、旅の手荷物と土産物を置き、ジェゴグの演奏と踊りを観賞する。やや時間に余裕があり、「アンカサ」というカフェで、バリ風のBGMを聞きながら、コーヒーとケーキを頂戴した。ジェゴグは巨大な竹のガムラン、心に響く重低音に特色がある。民族芸能としてのジェゴグの演奏は、バリ・ヒンドゥー寺院の祭礼に奉納演舞として始められたという。終了後、出演者の踊り手と記念撮影、さらに、竹のガムラン楽器ジェゴグの下に潜り込み、その雄大でダイナミックな音楽を体全体で感じてきた。

 夕食は夜の9時半過ぎになった。レストランは夜遅くまで開いており、デウィ・シタ通りのインドネシア料理の店「バタン・ワル」での宴会となった。店内にはバリ島の植物の美しい色彩画が展示されていた。


3.プラタン湖とイエ・パナス温泉、ウブド宮殿でレゴンダンス見学(6/13)
 バリ島3日目、ウブドののどかな田園風景の中で目が醒めた。周囲は田んぼ、鳥の鳴き声が聞こえ、昔の日本の田舎に似た景色があった。田舎風の田園の中で、ゆったりとした朝食を取り、今日の予定コースであるプラタン湖へ向かう。

 プラタン湖では、湖上に浮かぶウルン・ダヌ・プラタン寺院が神秘的な美しさを漂わせていた。この寺院には水の女神デウィ・ダヌが祀られているという。プラタン湖は農地への重要な水源、生命を生み出す水として、周囲の人々の信仰を集めており、近くでは祭礼が行われていた。周辺は美しい公園になっており、辺りを散策し、記念撮影を取り、プラタン湖周辺の市場を物色、イエ・パナスの温泉地へ向かう。途中のレストラン「PACUG INDAH」で昼食、見晴らしの良いのどかな田園風景とライステラスに感動した。ここから露天風呂のある温泉保養地イエ・パナスへ、プールやレストラン、宿泊施設が完備していた。温泉の温度はやや低め、係員がジャグジーを開けてくれたので、数ヶ所の露天風呂を廻った。帰りはタバナンの町を経由して、ウブドへ辿り着いた。

 早めの夕食は、宿泊地グリーンフィールドの近くにある「ベベ・ブンギル」で名物のアヒル料理クリスピーダックがメインディナー、田んぼの真っ只中での個室料亭で、ウブドの自然を存分に満喫できる。周囲の稲は、田植えを終えた直後のもの、その隣に青々とした稲作、稲刈りを待つ稲穂など、渾然一体の田に囲まれていた。そして、夕方になると、蝋燭の灯りが燈り、周囲は幻想的な雰囲気を漂わせる。夕方になると、ウブドのサレン・アグン宮殿でレゴンダンスを観賞、ガムランの音楽と本格的なバリ舞踊の魅力に引き込まれた。レゴンダンスは優美で華麗な宮廷舞踊、ストーリーがあり、金襴の衣装を身に付けた3人の少女の踊り手で構成される。


4.ウブド散策とゴアガシャ(6/14)
 午前中はウブドを散策、ハヌマン通りからモンキー・フォレスト通り(公式にはワナラ・ワナ通り)に抜け、幾つかの店を覗いた。ウブドは19世紀末、スカワティ王家が分家を創設、近隣の王国と同盟や敵対を繰り返した。1900年にオランダの保護領となり、内戦に煩わされることなく、宗教的かつ文化的に発展、西洋の芸術や知識が入り込んだ。このため、片田舎の小さな村の様相とハイカラな西洋文化の影響を受けた店が混在する。道路は一方通行が多く、時間が無く、市場のあるメインストリート(ラヤ・ウブド通り)までは足を伸ばせなかった。衣類や絵画や民芸品の店が多い。インターネット・カフェもあった。サッカー場の横を抜け、昼食は何となく入った食堂でミーゴレン風の中華そばミークア、近くに美術館もあるようだが、次の機会を楽しみにした。帰り道、ケーキが美味いという店でおやつを買い求めた。ホテル「グリーンフィールド」を12:00にチェックアウト、迎えのタクシーで散策の時に立ち寄れなかったウブド市場で土産物を物色、土産の下駄を大量に購入したのに驚いた。近くのプリ・サレン・アグン宮殿を見学、王室の一部がホテルにもなっているという。バリ風の東屋に広いベランダと四柱式ベットとアンティークな家具類があった。

 途中、ゴアガシャへ立ち寄る。ゴアガシャは11世紀頃の遺跡、「象の洞窟」という意味を持つ。ヒンドゥー教の信者が断食や瞑想に利用したとされる。1923年にオランダ人の考古学者が発見した。洞窟の入口は、魔女の顔を持つレリーフ、岩をくり抜いたT字型の洞穴、ヒンドゥー教シヴァ神の男根の象徴リンガ、シヴァ神の息子で象の頭をしたガネシャの像がある。洞窟の前面に2つの沐浴場、6人の女神が持つ水口から水が少しずつ流れ出る。

 スミニャックにあるアシタバの工場を見学、アタと呼ばれるツル草を素材に、マットやコースター、手提げ籠などを編み上げる。すべてが自家製でオリジナル製品とのこと、何点かの土産物を購入した。夕食は空港近くの中華料理店「FURAMA」、ビンタンビールで乾杯、食欲は旺盛、バリ島の中華は美味しかった。その後、「COZY」で30分の足ツボをマッサージ、明日の早朝からの世界遺産観光に備える。そして、3日間留守にしていたホテル・ウエスティンへ戻った。


5.ボロブドゥール遺跡とプランバナン寺院の見学(6/15)
 朝4時前に起き、外は暗い。バリ島は昼と夜の長さがほぼ同じ、朝6時過ぎに明るくなり、夕方6時半前には暗くなる。ホテルが用意した弁当を持参で4時半過ぎに出発、空港ではエクゼクティブ・ルームで弁当を食べ、デンパサール空港6時20分発のジョグジャカルタ行GA241便に乗る。ふと気付くと、持っていたはずのペットボトルの飲料水がケースごとない。何処かに置き忘れてきたようだ。ジョグジャカルタまで1時間強、バリ島との時差は1時間、日本とは時差で2時間の遅れ、ここでもエクゼクティブ・シートでビンタンビールと軽食を頂戴した。

 ジョグジャカルタは東西に細長いジャワ島のほぼ中間にある。インドネシアの首都ジャカルタはジャワ島の西側にある。100〜65万年前には、ジャワ島中部にジャワ原人が存在していた。紀元前後から稲作農耕が盛んになり、ジャワ島は穀物の島という意味がある。1世紀頃にインド商人が往来し、サンスクリット語やヒンドゥー教が持ち込まれた。5世紀頃に国家が成立し、その証拠となる碑文も残されている。6世紀末になると大乗仏教を奉ずる国家が出現、大乗仏教遺跡ボロブドゥールを建てたのは8世紀後半、中部ジャワに出現した軍事国家シャイレーンドラ朝である。しかし、9世紀前半には早くも勢力を失って、新興勢力サンジャヤ朝が中部ジャワに勃興する。ボロブドゥールの仏教遺跡を残したシャイレーンドラ朝のシャイレーンドラとはサンスクリット語で「山の王」という意味、大乗仏教はシャイレーンドラ朝の国教だった。

 華麗なヒンドゥー遺跡プランバナンを建てたのは、9世紀中頃以降、中部ジャワで権力を握ったサンジャヤ朝、大乗仏教遺跡ボロブドゥールを建てたシャイレーンドラ朝に対抗意識を燃やし、ボロブドゥール近くの東隣に建てた。サンジャヤ朝はヒンドゥー教(特にシヴァ神信仰)を奉じていた。ところが、10世紀前半、メラピ山の大噴火により中部ジャワは壊滅、サンジャヤ朝の末裔(ジャワ族)は東ジャワへ落ち延びた。ここで、巨大な石造建築から一転して、演劇や文学、音楽のような観念的な民族文化を形成した。それがバリ島文化のベースになったと考えられる。

 現在のジョグジャカルタは、学生の街、約60万人の人口のおよそ1/4が学生とのこと、5つの国立大学を含め、約80の大学が存在する。安価なアパートが多く、家賃は平均80万ルピア(約1万円)/年、食料品などの物価はバリ島より安く、インドネシアで最も安い生活費で過ごせる。日本人は少ない。首都のジャカルタは、物価が高く、日本人が多い。ジョグジャカルタは、最高に栄えるという意味を持ち、東・西・南・北と西南に5つの地区がある。多くの学生は卒業しても職が無く、約40%が失業状態にある。労働時間は2パターン、午前8時半から午後4時まで、午前8時半から午後2時まで、前者は土日が休日、後者は日曜日のみが休日になる。教育制度は、6・3・3・5年制、大学が日本よりも1年間多い。しかし、学校の先生になれる教育大学は、2年で小学校、3年で中学校、4年で高校の教員資格が取得でき、医学部は6年である。

 インドネシアの国土面積は日本の約5倍、約2.2億人の人口、大半はマレー系、他にジャワ人やスンダ人など27種族に大別される。共和制であり、ユドヨノ大統領が5月末に訪日し、日本との関係は経済的にも緊密な状況にある。宗教は、イスラム教87%、キリスト教10%、ヒンドゥー教2%、仏教1%の構成である。特に、イスラム教は5原則の教義があり、信仰の告白、1日5回のメッカ礼拝、ラマダーン月の断食、喜捨、メッカへの巡礼が求められる。1日5回のメッカ礼拝は、朝の4時、昼の12時、午後の3時、日没の6時、夜の7時にアラビア半島のメッカに向って礼拝が求められる。ラマダーン月の断食は、1ケ月間/年、朝4時頃から夕方6時頃まで、日の出の間、食べ物や飲み水を口にしてはならない。日没後の飲食は許されるが、断食の期間中、約1ケ月間は学校も休み、3食/日を2食/日に減らし、2〜3kg/人の減量効果がある。インドネシアからメッカへの巡礼は、40日の期間と約3千ドル/人の費用が必要、毎年20万人程度(人口の約1%)が選ばれて巡礼に出かけている。

 空港の近くにジャワ鉄道の線路が走り、世界最大の大乗仏教の遺跡ボロブドゥールは、ジョグジャカルタ北西の郊外、車で約1時間の場所にあった。遠くにメラピ山とメルバブ山の2つの山が見えた。ボロブドゥール寺院は9つの階層からなり、下部の6層は方形構造、上部の3層が円形構造になっている。土台は1辺が約120m、高さは約35mである。この遺跡は、8世紀から9世紀初頭に建造され、約千年間土中に埋もれ、発見されたのは19世紀になってから、イギリスのジャワの副総督ラッフルズが密林の中から発掘した。1973年からユネスコを通じて大規模な修復が開始され、1983年に修復工事を完了した。イスラム過激派による爆破テロでストゥーパ(仏塔)が破壊されたこともあった。現在は修復され、その痕跡は残っていない。東側が正面階段、段差が高く急勾配、天国への階段と呼ばれる。最下位の層の側壁にレリーフは無く、次の階層から側壁に見事な石造彫刻のレリーフ(浮彫)がある。仏陀の生い立ちと生活を4段の回廊で時計方向に物語っていた。仏教の教えは、煩悩を持つ因果応報の世界から、人間的な欲望を捨てた形態的な世界を経て、悟りの境地に到達する。この遺跡は、俗界(カマダトゥ)から色界(ルバダトゥ)へ、そして無色界(アルパダトゥ)を具現している。階層が高くなる程に悟りの境地が近くなる。円形構造の上部3層は、無数のストゥーパが入り乱れる曼陀羅の世界である。内部に仏像が安置され、菱形の窓を持つ32と24の釣鐘状のストウーパ、四角形の窓を持つ釣鐘状の16のストウーパ、それぞれが周囲に等間隔で3段階に配置されている。菱形の窓は悟りの境地が不安定であることを意味し、四角形の窓は安定的な悟りを意味する。数学的な意味を考えれば、数字「32」は「3+2=5」、数字「24」は「2+4=6」、数字「16」は「1+6=7」、段階的に「5」「6」「7」と大きな数字になる。この小ストウーパは全部で72あり「7+2=9」となる。見事な数学の整数論が施されていた。正面の右側に配置されている最初のストウーパは、内部に転法輪印(転法輪印は釈迦が説法したときの姿、教えが車の輪のように早く広がることを表示)を結び座禅している仏像が安置されている。この仏像に対して、男性ならば右手の掌、女性ならば足の裏、これを菱形の窓穴から右手で触れることができれば、願い事が成就して幸せになれるという。女性の方は比較的容易に足の裏に触れることができたようだが、男性は必死になって、やっと届く程度、微かに触れることができた。触れることができない人は、この回廊を3回廻って祈りを奉げれば、同じ効力があるという。円壇の最上段の中心のストウーパは仏陀の位置、煩悩を捨てた涅槃の境地への解脱を疑似体験でき、完全な悟りを達成した天国に最も近い唯一の場所とされる。

 ボロブドゥール遺跡はジャワ島で最大の観光地、観光バスを降りると、土産売りが執拗に寄ってきた。案内所の建物へ逃げ込むと、窓越しに土産物を必死で押し付けてくる。土産売りを逃れながら、バスガイドの案内で、遺跡を見学すると、人懐っこく片言の日本語で話しかけ、扇子で私を煽ぎながら、寄り添ってくる人がいる。さてはスリの登場かと思って、注意深く見守ると、そうでもない。必死で逃れても、観光案内をサポートするように、付いてくる。気温が高く、風が少なく、蒸し暑かった。見学が終わり頃になると、徐にポケットから日本の百円玉を取り出し、「2百円、2百円」という。最後には「百円、百円」と叫ぶ。どうも扇子を煽いた礼金を要求しているようだ。勝手に付いてきて、冗談ではない。最後まで拒否した。帰りには、何時の間にか記念写真が撮られている。私たちが写真撮影している時に盗み撮りしたらしい。全く気付かなかったが、良く写っている。今度はそれを押し売りする。他の観光地よりも始末が悪い。ガイドブックを値切って購入したが、観光客に対するルールが確立されていないようだ。これもイスラム系社会独特の交渉経済なのかもしれない。一物一価や契約による取引を守り信用を獲得するという市場経済のルールがない。

 次にボロブドゥールの近くにあるムンドゥット寺院を訪ねた。この寺院は1834年に密林の中から発見された。内部には傑作した釈迦三尊の石像が安置され、正面に本尊の釈迦如来像、左手が観世音菩薩像、右手が文殊菩薩像のようだ。外壁には観世音菩薩などのレリーフが刻まれ、仏教説話のレリーフがあった。境内は公園のようになっており、大きなガジュマルの木があった。その木のツルにつかまり、子供のような気分で、ブランコのようして遊んでみた。体力の衰えを感じた。ボロブドゥールは孤立した建築ではなく、無数の寺院群を構成していたようだ。カイドさんの話では、ボロブドゥール寺院が胴体、このムンドゥット寺院は頭に相当するという。さらに近くに、パウォン寺院があり、他に多くの寺院群があったようだ。消滅した遺跡も多いという。仏教寺院の持つ謎に興味と疑問を感じながら、バスは銀製品のお店(ANSOR’S SILVER)に入った。ジャワ島は銀の産地であり、バリ島の銀製品はここまで仕入れにくるという。価格も安く、純度の高い銀製品は変色しない。銀細工の実演を見学、手頃な土産物を物色した。

 昼食はジョグジャカルタのマゲラング通りにあるシーフード・レストラン、店内には趣味と思われる西洋絵画が飾ってあり、売値の表示があった。ここで中華料理を堪能、量的にも多く、味覚も日本人に合っていた。午後はジャワ更紗の製造工場の見学から、家内工業(BATIK HOME INDUSTRY)の「PLENTONG」へ、手書き蝋染の更紗の生産工程を見学後、店内で商品を物色した。白生地に手書きで2段階の蝋引き、蝋を付けなかった部分を染め、1回目の蝋引きを溶かして、別の色を染める。さらに、最初に染めた部分を蝋引きし、溶かした部分を染める。蝋はお湯の中で繰り返し溶かす。絹製品は油(ガソリン)を使用して溶かす。手間がかかり、危険な作業が伴う。芸術的なセンスも必要である。バリ島の多くの製品はジャワ島で調達される。

 ジャワ島で最後の観光地はプランバナン寺院、ジョグジャカルタの市内から東へ約15kmの所にある。周囲は広大な公園、寺院は周壁に囲まれ、境内に六つの大きな塔(建造物)が存在する。中心の塔はシヴァ堂、前面にはシヴァの乗り物で牡牛ナンディの堂、右側にヴィシュヌ堂、左側にブラフマ堂がある。ヴィシュヌ堂の前面は、ヒンドゥー教の神鳥、ヴィシュヌの乗り物、神鷲ガルーダの堂である。ブラフマ堂の前面は、ブラフマの乗り物、白鳥ハンサの堂である。シヴァ堂は高さ47m、東西南北に四つの部屋、回廊で繋がっている。回廊の壁にはラーマーヤナ(ヒンドゥー教とともにインドから伝わった叙事詩)の精密なレリーフが彫られている。シヴァは、破壊の神、恩恵の神、生殖の神など多面的な性格を持ち、自在天(イーシュヴァラ)、大神(マハーデーヴァ)などの別名を持ち、旺盛な精力から生殖の象徴リンガの形で祀られる。雄牛ナンディを乗り物とし、陸地を支配する。東の大きな部屋にシヴァ・マハデワ像、高さが約3m、その右腕を触ると力が与えられる。瞑想に耽る禁欲の苦行者としても描かれ、南の部屋にアガスチアとしてのシヴァ像がある。西の部屋にシヴァ神の子で象の頭を持つガネシャ像、息子ガネシャは象の頭を持つ神で障害を取り除くと言われ、その乗り物は体に似合わずハツカネズミである。母パールヴァティーに創られたが、父シヴァが息子と知らずに首を刎ねたため、シヴァは北に向かって歩いて最初に出会ったものの首を持ち帰ると約束、それが象だったために、息子に象の頭をくっつけて生き返らせたという神話がある。シヴァの妻は、世界を支配する女神パールヴァティー、ウマーなどとも呼ばれ、特に怒りの形相を備えたものは死の女神ドゥルガーと同一神格とされる。北の部屋にドゥルガ・マヒサスラマルダニ、別名ロロ・ジョグラン(伝説の女性の名)が彫られている。シヴァ堂の左右にあるヴィシュヌ堂とブラフマ堂は、高さは23mとシヴァ堂に比べて低く、内部の部屋は一つである。ヴィシュヌは、安定の神であり、空を支配する。ブラフマは、創造の神であり、海や水を支配する。ヒンドゥー教の3大神(破壊神シヴァ、創造神ブラフマ、安定神ヴィシュヌ)が三位一体となって奉られているのがプランバナン遺跡である。

 インドネシアは、インド文明の流入により国家が生まれ、サンジャヤ朝が「穀物と黄金に富む」ジャワ島に巨大国家を建立した。その後、軍事交易帝国シャイレーンドラ朝がジャワ島を征服し、巨大な仏教遺跡ボロブドゥールを建造したが、約70年間しか続かなかった。再びサンジャヤ朝がヒンドゥー教のジャワ文化を形成した。この時、最初にボロブドゥール遺跡に対抗してプランバナン遺跡を建造した。しかし、928年から1006年頃のメラピ山の噴火により、これらの巨大建造物は埋没破壊され、町や水田は全滅した。サンジャヤ朝は東部ジャワへ逃れ、芸能や音楽などに力を入れ、独自の文化的な国家へ変貌した。このヒンドゥー教のジャワ文化がバリ島に多大な影響を与えた。その後もヒンドゥー教系の王朝と仏教系の王朝の争いが続き、王朝や王国が分割していった。13世紀初頭、大量の流血で国家を統一したクディリ王国のジョヨボヨ王の予言は興味がある。「人間の歴史は、国内に混乱が生じ、外部から侵入した異民族による支配があり、北方から黄色い人間の軍隊が攻めて来て、異民族支配を駆逐し、代わって支配する。それは短い期間であり、その後、男は女のように、女は男のようになり、世は麻の如く乱れ、やがて白馬にまたがる救世主が登場して、永遠の平和と幸福が約束される」。この予言にはイスラムの終末思想の影響が見られる。また、別のジョヨボヨ予言は「将来、線が地上に張り巡らされ[電線]、遠距離でも話ができ[電話]、馬なしの車が走り[自動車や電車]、距離は問題でなくなる[飛行機]」という。すでに現代を見通していたのかも知れない。

 クディリ王国は1222年に無名の男ケン・アンロクの計略(クリス−短剣−の呪い)によって滅ぼされる。13世紀後半、中国は元の時代、モンゴル族が全世界を席巻しつつあった。ジャワの国王たちは、モンゴルの侵略の意図に対し、強力な対抗手段を執ることにし、1289年にジャワを訪ねた元の使節を追い返した。しかし、内乱が勃発、国内は混乱、そこへジャワ討伐のモンゴルの大軍がジャワ北岸に出現した。内乱を利用した計略でモンゴル軍を撤退させたが、反乱や領土拡張戦争などの繰り返しで、国内は不安定であった。この頃、ヒンドゥー・ジャワ文化がバリ島に本格的に流入した。しかし、15世紀末頃から、イスラム教が流入し、華麗なヒンドゥー・ジャワ文化は衰退する。イスラム教は、8世紀頃にインドネシアへ流入していたが、ヒンドゥー教と仏教の影響で全く浸透しなかったのである。イスラム教はマレー半島から、スマトラ島を経て、マレー商人の海上貿易ネットワークを通じて各地に急速に広がった。さらに、16世紀になると、ポルトガル艦隊がマラッカに出現、マレー半島のジョホール王国がイギリス植民地となり、インドネシアは、西側から、西洋の進出とイスラム文化とヒンドゥー文化の構図を形成する。この頃、バリ島にヒンドゥー文化が定着した。16世紀末から17世紀になると、オランダ人が到来し、イギリスはインドを植民地とし、オランダはインドネシア(東インド)を植民地とする構図が成立する。19世紀になると、ナポレオンがフランス皇帝になり、オランダはその支配下に置かれる。しかし、ナポレオンと戦っていたイギリスは、フランスの支配下にある海外植民地の奪取を進め、ジャワ島を占領、その統治と改革に乗り出す。この時、ジャワの副総督ラッフルズは、ジャワ社会を綿密に調査、ボロブドゥール遺跡の発掘・復元にも務めた。その後、イギリスはナポレオンを破り、ヨーロッパの秩序を元に戻すことを決定、インドネシアはオランダに引き渡される。ラッフルズは、マレー半島南端の島を買い取り、関税無の自由港を開港、シンガポールの飛躍的な発展の土台を築いた。オランダは財政難解消の手段に強制栽培制度を導入、コーヒー・砂糖・藍などで巨額の富を搾取した。非人道的な強制栽培制度は1870年に廃止され、統治機構の近代化を進める。そして、幾多の戦闘を経て、インドネシアを統一、中央集権的な東インド国家を完成させた。すでに時代は20世紀に突入していた。同時に、インドネシア独立の運動が起こった。1914年の第一次世界大戦を契機に、オランダの植民地として、大きな自治権を獲得する。しかし、世界大戦終了後、オランダ政府は再び弾圧を開始する。東インドがインドネシアと呼ぶようになったのは1920年代になってからである。

 1941年12月8日にハワイ真珠湾を奇襲攻撃した日本軍は、軍需物資確保のため、インドネシアに上陸した。1942年3月1日にはジャワ島に上陸した部隊は僅か9日間でオランダ軍を全面降伏させた。ジョヨボヨの予言「北から黄色い人間がやってきて、白い人間を追い払い、しばらくの間支配し、その後幸福な時代が始まる」が実現したのである。日本軍は、政治犯を釈放、公用語をオランダ語からインドネシア語に改めた。インドネシア語はマレー語(ムラユ語)を借用したもの、このマレー語は本来スマトラ島東部で話されていた。それが、シュリーヴィジャヤ帝国の繁栄と共にマレー半島にまで広まり、その後マレー商人の活躍により15世紀ころからインドネシア各地、インドシナ半島海岸地方で用いられ、商業用の共通語として発達した。代表的な言葉として「飯(めし)はナシ (nasi)、魚はイカン (ikan)、菓子はクエ (kue)、人はオラン (orang) 、死ぬはマテ (mati)」がある。 また、日本語や修身を教え、天皇崇拝を強化、社会に組織原理を持ち込み、隣組・婦人会・青年団・警防団など、組織の動員と統制の訓練を行った。日本軍内の補助兵力としての軍事教練も開始した。この戦闘部隊は、後にインドネシア国軍の中核を形成する。戦況が厳しくなると、日本は、イスラム教徒を戦争遂行に協力させるため、政党組織や議会を認め、東インド(インドネシア)の独立を認める約束をする。1945年3月に独立準備調査会を発足、インドネシア側委員スカルノは、民族主義、国際主義、民主主義、社会福祉(社会的正義)、神への信仰、5原則を独立の基本理念として提唱した。この原則は、現在でも、インドネシア共和国の国是になっている。そして、日本軍から8月24日独立の内諾を得たが、8月15日に日本が無条件降伏、急遽、スカルノ等は8月17日にインドネシア独立を全世界に向けて宣言した。しかし、現状維持を目的とする連合軍が上陸、インドネシア武装組織との戦闘が始まった。実質的にインドネシアが独立するのは、世界の非難を浴びてオランダ軍が全面撤退する1949年7月以降になってからである。その後、反乱や内乱はあったが、スカルノが大統領に就任して独裁体制を確立、スカルノ失脚後、スハルト大統領が実権を握り、安定した長期政権を実現した。1998年の経済危機から、スカルノが大統領を辞任、ハビビ副大統領が政権を引き継いだ。その後、4代目ワヒド大統領、5代目メガワティ大統領を経て、現在ユドヨノ大統領が政権を担っている。

 ジャワ島の世界遺産ボロブドゥールとプランバナンの見学は、インドネシアの歴史を知る契機になった。空港へ戻る頃、雨が激しくなった。ジョグジャカルタ発19:55のGA248便には時間的に余裕がある。空港に着くと、帰りのチケットが届いていないという。待たされた後、ガルーダのエクゼクティブ・ルームで軽食を取る。帰りは家内等の女性2人にエクゼクティブ・シートを譲り、デンパサール空港に到着したのは、バリ時間で22:10を過ぎていた。


6.全身マッサージ体験、サヌールでの昼食とケチャダンス(6/16)
 遅めの朝食後、前日の疲れを癒すため、2時間の全身マッサージを体験した。場所はデンパサール近くの「インコバリ」、ここは東南アジア各地の整体・指圧・気功・ヨガ・タイ式マッサージなどを取り入れ、独自の療法を提供しているという。実際に体験すると、ツボを心得ており、気持ち良く、心地良く、心身が軽くなった。この重い身体を全身で格闘してほぐして頂いた女性のマッサージ師に感謝、揉み返しなどがなく、マッサージの効果がかなり長く持続したようだった。昼はサヌールの海岸を望み、「MAMA PUTU」でのインドネシア料理、海岸からの微風に酔いしれながら、食事を堪能した。

 デンパサールのバティック工場の店でジャワ更紗の絵を求める。白い木綿又は絹の生地に下絵を書く、更紗原図を手書きで写し書く。下絵を蝋付け、染めない所を蝋付けすると白く残る。染めた所を蝋付けすると他の色が染み込まない。蝋付け後、染色する。色が多い時は何度もこれを繰り返す。すべての染色が終わったら、ナイフで蝋を削り取る。ここでは、絵を美しく仕上げるため、輪郭に点線を使用している。最後に、お湯に何回も生地を入れ、お湯で蝋を洗い落とす。染め上げた生地を良く洗って陰干しして完成、ジャワ更紗の伝統的な色は、青・茶・黄、生命の象徴の色とされている。

 次に、大型スーパーマーケットのマクロで買い物、ここは会員制の店であり、衣類や雑貨および食料品など、生活必需品はすべてが揃っている。日本のスーパーマーケットよりも安く、品質はそれほど劣っていない。主に衣類と食料品の土産物を求めた。ケチャダンスを観賞するため、バドゥン半島の南西端の断崖絶壁の上に建つウル・ワトゥ寺院へ行った。ウル・ワトゥ寺院には、サルが多く住み、眼鏡やハンドバックや帽子など手の届く物は何でもひったくるという。注意しながら、断崖の頂上に、ここでインド洋に沈む素晴しい夕陽を見た後、海から魔物が上陸しないように祈る儀式が発展したというケチャダンスを観賞した。ケチャダンスは物語になっており、ガムランなどの楽器が無く、円陣を組む上半身が裸の男性ダンサー達の「チャ、チャ、チャ」という一定のリズムに乗った叫びで舞踊劇が進行する。ヒンドゥー教の「ラーマーヤナ物語」が取り入れられている。城田夫人の解説を聞きながら、バリ島の宵闇の一時を楽しんだ。夕食はホテル近くのバレバンジャ(Bale Banjar)でロブスター料理、バリ島の昔の写真が展示してあった。オランダの統治下にあった日本の明示時代の頃の様子や風俗であった。


7.クタ散策とショッピング(6/17)
 朝、友人城田の夫君が下痢症状で体調が良くないという。疲れと水の影響によると思われ、持参の下剤止めを飲ませたが、念のために医師に診てもらうことにした。幸いに、このホデルには、24時間体制で医師が待機している。駆けつけてくれたのは女医さんと看護婦さん、日本語は通じずに、英語と現地語のみ、およその意味は通じたようだが、娘の友人の助けを借りる。携帯電話で連絡を取り、医師側と友人側と患者側との3元通訳、日本語・英語・現地語という国際的な会話がどうにか成立した。結論はバクテリア(細菌)による下痢症状、日本の下剤止めを併用し、バリ島の飲み薬を処方して頂いた。飲み水と食べ物に注意しなさいという。特に、歯磨きや口濯ぎに水道水はダメ、購入した飲料水を使用しなさい。油物にも注意が必要、ジュース類も避けるべきという。俗に言うバリ腹と呼ばれる症状であった。ジャワ島等のインドネシアは軟水の土地だが、バリ島は硬水の島である。このために、午前中、城田夫妻はホデルでの休息となった。

 我々は、午前中、バリ島で作られている地ワインのハッテンワインのお店で試飲、何種類ものワインを試飲した。これだけでアルコールは十分、推奨のワイン「アレキサンドリア」を購入、シャンパンも買い求めた。次にバリ島の繁華街クタへ、クタを散策して買い物、クタの繁華街レギャン通りで2002年10月に爆弾テロ事件があった。犠牲者は500人以上、死者が200人近く、その大半がオーストラリア人とインドネシア人であった。その現場に慰霊塔があり、旅行の安全と冥福を祈った。女性専門店のサーフショップ「サーファガール」は、ロキシーの水着など、一流ブランド品が多く、Tシャツや小物類も多く取り揃えてあり、ハイカラお店である。隣接する「クイックシルバー」は男性専門店であった。レギャン通りを北上、子供服の専門店で孫の土産を購入、隣のレストラン「MAMA‘S」(ママズ)で休憩、ビンタンの生ビールを飲み干した。帰りに、クタの両替所で、日本円をルピアに換金、現地通貨を増やした。

 ホテルに戻り、城田夫妻と合流、昼食は「和の家」で日本食、但し、大志さんは体調を整えるためにホテルで留守番となる。昼食後、陶磁器の店「ジェンガラ」で買い物、商品の種類は約3500種類という。整然と陳列されているが、その種類は来る度に代わっており、その時に買い求めないと、次に来た時には商品が無くなっているという。バリ島の陶磁器の宝庫、色や形に工夫がみられ、民芸的な感覚を持っているが、独特の芸術品ともいえる。店内はアートギャラリーやカフェテリアも併設されている。再びホテルへ戻り、大志さんとも合流、早目の夕食は福太郎でお腹にやさしい日本食となる。食後、マタハリのデパートで地図とCD(ガムランとデュゴン)を購入した。ホテルへ戻ると、庭でショーや花火大会が開催されていた。この間、娘達は日本からバリ島へ到着したばかりの友人「畑さん」達と合流し、バリ島の友人宅へ遊びに行った。

8.ヌサ・ドゥアの海岸散策、インド洋を見て海鮮料理の晩餐(6/18)
 朝の散歩として、岬まで海岸を歩く、美しい風景、手入れされた庭園があった。虫除けを持っていったが、虫類は以外に少ない。朝食後、コージー「COZY」で1時間半のマッサージを受ける。クタにあるDFS(ギャラリア)で主に衣類の買い物、ギャラリアには見事な神鳥ガルーダの置物があった。隣接するマタハリ・デパート(モル・バリ・ギャラリア)のスーパーマーケットで土産の食料品を購入する。プラザ・バリでは2階の民芸品コーナーで小物の土産物を手に入れる。そして、トラギア・デパート&スーパーマーケット(写真屋)で、現像を依頼していた写真を受け取り、店内を物色する。ホテルに戻り、荷物を整理して、帰り仕度をする。ホテル(ウエスティン)をPM5:30にチェックアウト、旅行業者(HIS)が用意した空港までの送迎をキャンセルしており、ジンバラン海岸の「イカン・バカール」でシーフード料理、自分達で魚や烏賊や海老などの食材を選び、サンセットディナーとなる。しかし、海岸に到着した時には、すでに太陽はインド洋へ沈んだ後だった。


9.帰国(6/19)
 デンパサール空港で、お世話になった「つくちゃん」と「パステカさん」達とお別れ、ちょっぴり寂しいが、窓越しに最後まで見送ってくれた。空港ではエクゼクティブ・ルームで寛ぎ、ショッピングを楽しみ、PM10:55発のガルーダ航空GA880便で日本へ向った。成田空港に到着したのは、翌朝(6/19)の9時頃であった。税関と入国の手続きを終えて、横浜行の成田エクスプレスに乗車した。横浜で東海道線に乗り換え、平塚駅に到着した時には昼頃になっていた。南口の「北海道」で日本食の打ち上げ、タクシーで無事に自宅へ戻った。

 今回のバリ島旅行は、インドネシアとバリ島およびジャワ島の歴史にも触れることができた。現地で直接状況を確認することは、話を聞いたり、デレビ等で景色を見たりするのとかなり異なる。特に、心に響くインパクトが違う。バリ島が多様な世界の国の人々を受け入れている気風を知ることも目的にあった。バリ島には、仏教やヒンドゥー教のベースがあり、イスラム教が広範囲に普及し、カトリックやプロテスタントのキリスト教も受け入れている。特に、東南アジア文化の上に西洋の文化が比較的早く普及していた。第一次世界大戦や第二次世界大戦の影響も無視できない。前者は、オランダやフランスの文化からイギリスの文化に触れる機会を与え、後者は日本の文化や戦前の教育が入り込む機会があった。近くにはオーストラリアがある。経済力は低いが、バリ島には穀物や果実等の豊富な農産物、インドネシアの地下資源等がある。これらのことが、東インドからインドネシアという国家を形成する土台を生み出した。もちろん、そこには昔からの王国の文化も残っていた。芸術や音楽などの国際的な文化がバリ島を育てていたのである。この機会を与えてくれた娘に感謝し、現地でお世話になった「つくちゃん」や「パステカさん」および「カデさん」達にも感謝したい。ありがとうございました。

(文責:yut)

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