私の人生物語その1
私の生い立ちと時代環境

1. 私の人生物語・その1
私の生い立ちと時代環境

 私が生まれた時は太平洋戦争の真っ只中、昭和二十年一月末頃、東京の八王子の駅前近くで産声を上げた。 父と母との出会いの詳細は知らない。多分、戦時中に見合いを勧められ、同郷ということもあり、 陽気な性格の父と意気投合して世帯を持ったのだろう。この頃、父は体格が無く丙種合格のために徴兵を免れていた。 自宅は和菓子を販売していたようである。同時に、父は軍需工場へも駆り出され、少ない労働力と物資で細々と暮らしていたようだ。 真冬が過ぎ、三月の寒い日に、米軍の空襲が八王子の軍需基地に大量の爆弾を投下した。 父は、勤務していた工場が火災になり、必死の消火活動に加わった。その夜は暖房が無く、 寒気で父は病に倒れた。当初は単なる風邪と考えられたが、高熱と肺炎を併発した。母は必死で看病したようであるが、 生まれて三ケ月にも満たない赤子の私と母を残し、間もなく父は他界した。戦禍は激しくなるばかり、 近くに父の姉が生活していたが、途方にくれた母の決断、駅前の土地と家屋を処分、母の姉を頼りに平塚へ行くことにした。 当時、八王子で赤子の私を養子に欲しいという申し出が幾つかあったようだ。しかし、母は私を手放さなかった。 平塚に住む母の姉の家は、夫が外地でのトラック部隊の任務を終え、数人の部下と供に平塚周辺で任務に付いていたようだ。 また、平塚は海軍火薬廠や航空機製造工場など、軍需産業工場が多く、米軍のB29爆撃機などによる空襲のターゲットになっていた。 七月の平塚大空襲で私は母の背中で雨霰の焼夷弾や戦闘機による機銃放射から逃げ惑っていたようだ。 私達親子は運よく難を逃れた。しかし、母の姉の長男は、平塚空襲で投下された焼夷弾に当り、幼い命を失ってしまった。 この幼い長男を背負っていたもう一人の母の姉は全身に大火傷を負ったが、辛うじて命だけは助かった。 この時、平塚に投下された焼夷弾数は、東京大空襲で投下された焼夷弾数を大きく上回っていたという。 平塚で暮らすのは危険、私達親子は父と母の実家のある山形へ疎開することになった。山形の母の実家は前年に母の父が亡くなり、 母の弟である長男と次男は徴兵で出兵し、一時的に祖母が一人で留守をしていたようだ。母は八人の兄弟姉妹があり四女、 六番目と八番目に二人の弟がいた。実家の生計は僅かな田畑と草履や繭の行商で成立していたという。

 間もなく、終戦となり、現実の厳しい生活が待ち受けていた。 八王子の不動産を処分して得た膨大な預金は戦後の急激なインフレーションで一瞬にして皆無になっていた。 山形は米の産地、日本人の主食である米は配給制になっていた。ところが東京近郊は大量の米不足、 僅かな余剰米は違法な闇米ルートで検閲を逃れながら東京近郊へ運んだようだ。 何度かの往復で検閲の網に引っかかると闇米は没収された。闇米の持ち主が判明すると検挙されるので、 多くの人はその持ち主が判断できないようにしていた。当時、没収された闇米はどのようなルートで処分されたのだろうか、 多分検閲官ルートを経由して消費され、多くの人の命を救ったのだろう。検閲を逃れる口述に、母は何度となく、 幼い私をも同行させたようだ。朧げながら、私の記憶に残っている出来事は、検閲で何度か列車が止められたこと、 上野駅のホームや陸橋の様子などである。ある時、母は上野駅で激しい腹痛を起こして座り込んだ。 必死で山形へ戻ったようだが、即日に入院、病名は腸捻転から腸閉塞を併発、腸の大部分を摘出する大手術になった。 母は三途の川で生死を彷徨って、家族からの必死の呼びかけで目を覚ましたという。多額の医療費を捻出するために、 その後も闇米商売は続いたようだが、復員してきた実家の長男が引き継いだ。母の病魔はさらに続いた。 脊椎カリエスという難病に罹ったのである。コルセットを着用しての長期療養が求められ、 さらなる多額の医療費が必要になった。幸いに、ストレプトマイシンなどの新薬が入手でき、 母は九死に一生を得て生還したようだ。幼少の頃の記憶では、母の弟である実家の長男の結婚式、 父と母の実家や親類宅を良く往復したこと、湯川秀樹博士が日本人初のノーベル賞を受賞したというラジオ放送を聞いたこと、 病室で母と生活したこと、母の弟である実家の次男が突然に無事に復員してきたこと、そして、その次男の突然の死など、 子供心の記憶に残っている。

山形での疎開生活は小学校二年の暮れ迄であった。小学校への入学時に学用品が八王子に住む伯母から届いた。 入学式は母の弟の嫁さん(叔母)が入院中の母に代わって参列してくれた。入学後、校内放送で童話「北風と太陽」を朗読した。 幼少時代は泣き虫と呼ばれた。本人にその意識は無い。正義感が強く、年下の者や弱い者をいじめる事が大嫌い。 喧嘩相手は常に2〜4歳も年上、勝てる訳が無い。メンコやビー玉遊びも年上が相手、最後にはすべてを失って負けて帰ってくる。 看かねて、従兄が取り戻してくれたことも多かった。喧嘩に負けて泣きながら帰ると、祖母に追い返され、 再び喧嘩をやり直してこいという。幼い従弟が加勢に付いて来るが、前面で喧嘩するのは年長の当事者間、 再び泣かされて帰ってくる。祖母に男なら負けて帰ってくるなといって、家に入れて貰えなかった。遊び仲間は多かった。 毎日、木登りや隠れんぼ、冬には雪合戦や迷路ゲームや落とし穴作戦など、遊びのルールは常に進化して行った。 親はその日の生活に必死の時代、子供の面倒など見ていられない。当時の子供は自分達が工夫してその日の生活を楽しんだ。 自らがルールを創り、喧嘩の手加減を習得し、集団を作っては、組織の離合集散を自然に学んでいた。 ある時、私は、家族に内緒で自宅のグミの実を採るために、梯子に登り、バランスを崩して転落した。 右手の肘を脱臼、手首を骨折していた。祖母に見つかったが、それ程に酷い怪我とは思っていなかったようだ。 数日後、接骨医に連れて行かれると、腕は一生涯曲がらなくなるという。母は心配して東京の医者に診て貰うために、 私を平塚に住む母の姉である伯母の家へ連れて行った。必死の治療で右腕は、ほぼ元通りのように、曲がるようになった。 その時のリハビリ治療の痛みは今でも忘れられない。泣こうが喚こうがお構いなし、毎日毎日が荒治療であった。 この事件から、親子2人で真剣にこの世を生き抜く覚悟が現実的になった。田舎では母の職が無く、疎開生活に別れを告げ、 平塚に生活の拠点を移すことになった。この間、母には再婚話もあったようだが、子供の私のことが不憫になり、 すべての再婚話を拒否したという。母は母なりに苦しんだようだ。

 戦後復興の中、物資の輸送が次第に多くなり、トラックで運送業を営む平塚の伯母の家の家業は順調に拡大し、 多くの人手を田舎から調達していた。時々、伯父のトラックに乗せられ、横浜や東京方面へ連れて行ってもらった。 横浜港は赤レンガ倉庫が現役で使用され、周囲には蒲鉾型の米軍宿舎が数多く存在していた。当時のトラックは馬力も弱く、 戸塚駅付近の急坂を上るのがやっと、時には車から降ろされて歩かされた。日産の横浜工場では製造現場を駆けずり回った記憶もある。 当時は、朝鮮戦争の最中、何故か平塚駅に戦車が降ろされて市内を走行した。偶然にも、この戦車に乗せられ、 戦車の内部を覗いた記憶もある。戦争の恐ろしさも知らずに、日本軍の戦艦や零戦にも興味があった。 子供の間では軍事将棋なるゲームが流行していた。大相撲は吉葉山や鏡里や千代の山から、 その後に栃錦と若乃花の時代になっていった。力道山の出現でプロレスも全盛になった。

(文責:yut)

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