私の人生物語その2

2. 私の人生物語・その2
戦後教育と人間形成

 幼児期は山形の田舎町で祖母に厳しく躾けられた。特に箸の持ち方から礼儀作法など、武家風の作法が少し残っていたようだ。 家父長制の名残があり、長男で一人っ子の私にはそれなりの作法が求められたようだ。小学校に入学すると、毎日の朝夕には、 質素ながらも、一人前のお膳が目の前に出されていた。遊び仲間として、腕力のみが強い子、腕力は無いが知恵が回る子、 腕力も知恵も無いが何故か威厳が存在する子など、多様な子供達に出会ったようである。また、山形地方の方言には独特の言葉がある。 その中で、帽子のことを「シャッポ」、飴玉のことを「ボンボン」と教えられた。 その後、これらの方言はフランス語と同じであることに気付いた。幕末の江戸幕府はフランス政府と提携していた。 幕軍の敗残兵が山形に住み付き、フランス語を方言化したものなのか、それとも誰かがフランス文化を山形に持ち込んだものなのか、 興味ある問題でもある。いずれにしても、それぞれの地方にはその土地の文化を形成する数人の指導者のような人がいたようだ。 そして、その土地と環境の風土の中で無意識に人間形成が創られたように感じる。

 戦前までの国民教育は、尋常小学校(国民学校)と呼ばれた6年制の義務教育、その上に中学校や高等女学校や高等小学校など、 並列する幾つかの進学コースが存在していた。その背景には、明治政府の基本方針として、 近代工業社会を構築するための欧米に対する「追い付け追い越せ」の政策があった。このためには、 生産者を育成し大量生産のための教育システムが形成されていたと考えられる。 家長を中心にしたイエ制度も貧しい国力を維持向上する手段であった。それは日本が軍国主義に傾くことで、 戦争遂行のための教育に置き換えられ、個性的な教育が退けられ、 画一的な集団行動に辛抱強く協調する平均的な人材育成が求められるようにもなった。 すなわち、個性的な人間は不良とされ、特別なレッテルが貼られたのである。戦後、日本の教育は、占領軍(米国)の影響を受け、 小学校六年・中学校三年・高校三年・大学四年、いわゆる小学校と中学校を義務教育とする六−三−三−四制の学制を基本とし、 男女共学の原則、教育委員会制度の導入がなされた。 この上で、自由・平等・平和・民主主義・人権などを重視する教育内容が求められたのである。

 しかしながら、現実の戦後の生活環境は厳しく、食を満たすことから始まり、時には古着を継ぎ接ぎにして布団や衣類を揃えた。 住居は一時的に平塚の伯母の家で同居していたが、母が出稼ぎ奉公したりして、精神的にも苦労をしたようであった。 さらに、再び母は病に倒れた。今度は盲腸から腸が腐敗する病気であった。 前回の大手術で大半の腸を失っていた母は又もや生死を懸けた大手術となった。ほんの少しの腸を残すだけで、今度も無事に生還した。 母のお腹は手術跡で傷だらけであった。やがて、近くの家の八畳間の一部を借り、間借りすることで独立した生計を得た。 この間借生活は私が中学を卒業するまで約6年間を過ごした。この間、生活費は母の日雇い労働で凌いでいた。 一部は平塚の伯母や八王子の伯母が援助してくれた。私の成長は多くの人の世話の上にあった。母子家庭ではあったが、 公的に生活の援助はなかったようだ。父が戦死でなく病死であったこと、国の福祉制度が完備していなかったことなどの理由はあった。 当時、平塚市は戦後復興計画を推進中、道路の拡張や整備が至る所で行われていた。この仕事が私達母子の生活の糧になった。 また、近くの相模川河口ではシジミやアサリが獲れ、平塚海岸や茅ヶ崎海岸はハマグリが採取できた。 遊びながらも良くこれらの魚介類の調達に出かけた。

 田舎の小学校から都会の小学校へ転向した頃、当時を自己採点すれば、記憶力と理解力は比較的に優れていたが、 表現力が劣っていたように思う。転向によって成績は上から中への下落を覚悟しなさいと言われた。事実、そのようになったが、 向上心は強かった。しかし、上には上があり、勉学のレベルの差を思い知らされた。 中学時代には予習や復習をせずに常に満点の成績を取り続ける人がいたのである。普段の授業をしっかりと聞いていれば、 それで十分だというのである。すぐには信じられなかったが、その友人と行動を共にすると、 そのことが平常心の結果になっていることを知った。そこで悟った。人は人、自分は自分、同じようにはならない。 自分なりの努力をすれば良いのではないか、その結果がどうであれ、自分自身に満足する生き方があると考えた。 しかし、自分には財力もなければ腕力もない。この世で戦う土俵は知力で勝負しなければならなかった。 また、知力で勝負するための書物もなかった。人は不思議なもので、煽てられ褒められるとその気になる。 小学校の高学年になり、ある友人は夏目漱石の草枕の冒頭にある「智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。 意地を通せば窮屈だ。とかくにこの世は住みにくい。・・」と教えてくれた。そんな内容は小学校の教科書にはない。 早速、友人宅へ遊びに行き、その書物の在り処を教えてもらった。友人宅には多くの書物が豊富にあるではないか、 既に住む環境が大きく異なっていたのである。その後も友人には優しく接して頂き、多種多様なことを教えられた。 人は優れた環境と優れた友人に恵まれることで正しく成長するのだということを知った。 この時、書物の大切さや知の糧として重要であることを知らされたのであった。そして、その後、本を大切にするようになり、 同時に、本を選ぶことの意味を知った。一人の人が一生涯で読める本は多くても数千冊程度、 その有限な本から得られる知識や知恵も限りがある。よりよい知識と知恵を身に付けたいと考えた。 お金も無く、財産も無く、この世で生きる糧として、知識と知恵が自分の持つことのできるすべてだとも思った。 知識と知恵を自分の武器として道具として、この世を生き抜くことができないだろうかとも考えた。 本は先人の遺してくれた大切な知識と知恵の宝庫、多くの良い本に巡り遇いたいと願った。多くの人との出会いと同時に、 人はその知識や知恵によって育てられるのである。また、自らが求めるものを求めなければならないことを知った。

 家庭内での教育、常に祖母と母から口癖のように言われたこと「人様の迷惑になる行為はするな!」「人の振り見て我が振り直せ!」 「頂戴したお金は百を使うな、九十九までにせよ、百一と九十九の生活はそれほど変わらない。」等、幾つかの格言はあった。 しかし、何にも増して、母子だけの家族ながら、愛情には恵まれた環境に育ったようだ。 多くの親戚や知人から少なからず常に心に留めて頂いたことを感謝しなければならない。 母の口癖は「私は母親でありながら父親の役目もしなければならない」であった。戦後教育で欠けていたもの、 新渡戸稲造の武士道の精神「義・勇・仁・礼・誠」などは、家庭内の教育で補われていたようだ。 ある時、運送業の伯父の家の床の間に「和」の文字が掲げてあった。伯父が言うことには「和は大切、 しかし単に仲良くすることではない。時には喧嘩をしても戦わなければならない。 その結果、互いに納得した上で相手を尊敬した和でなければ真の和ではない。チームワークとは異なるのだ!」と教えられた。 平和の和とはそのようにして勝ち取ったものだという。戦争で多くの人が犠牲になったことを忘れてはならない。 平和の重みはその上にあるという。さらに、男たるもの、自分が信念を持って正しいと思ったことは最後までやり遂げることだ。 例え他の人が悪だといっても、その信念を死ぬまで失わずに、やり遂げて続けることでそれは善になる。 福澤諭吉の心訓が伯父の家の座敷に掲げてあった。そこには、

一.世の中で一番楽しく立派な事は一生涯を貫く仕事を持つと云う事です。
一.世の中で一番みじめな事は人間として教養のない事です。
一.世の中で一番さびしい事はする仕事のない事です。
一.世の中で一番みにくい事は他人の生活をうらやむ事です。
一.世の中で一番尊い事は人の為に奉仕して決して恩にきせない事です。
一.世の中で一番美しい事はすべての物に愛情を持つという事です。
一.世の中で一番悲しい事はうそをつく事です。

とある。後日に知ったことだが、これは福澤諭吉の書ではないようだ。諭吉を敬愛する人が認め、額縁の売上を伸ばすために商品化したという。 しかし、その内容には共感する。その後、この心訓は座右の書となり、長年我が家に掲げ続けていた。

 戦後教育で受けたものに何が残ったのであろうか、確かに軍国主義は廃され、平和な国家と社会形成の道を歩むことができた。 しかし、個人主義と自由主義は利己主義的な傾向が強くなり、 個人の真の主体性はより多くの人々に正しく植え付けることができなかったように思われる。 一人一人の個性を大切に育てる風土が欠けていたようにも見える。日本は官僚国家、 日本人の多くは誰かに保護されることを求める傾向が強く、上からの命令には従うが、 自己の主体性を主張することに苦手意識があるようだ。平等は画一的に捉えられ、銀行の護送船団方式に代表されるように、 結果の平等が重視されたのではないかと考えられる。国民の一人ひとりが自ら求めて築き上げる国家体制ではなく、 官僚指導型の社会もそのまま残ってしまった。この考え方は、米国から押し付けられたのではなく、 戦前の日本の考えを引き継いだのではないかと思う。私の場合、科学的な真理の追究に興味を持ち、 正義の希求を願う精神は養われた。出会った多くの教師は比較的に恵まれていたのかもしれない。 小学校の高学年で算数に興味を抱き、中学校では理科に興味を持った。鉄道や船舶の模型と鉱石ラジオ造りにも熱中した。 中学時代には、運送業のアルバイトをしながら、おもちゃ工場の廃材置場から多様な形の木材を入手、 独自に戦艦大和の大きな模型を作り上げたこともあった。手先は比較的に器用で根気が強かったようだ。 電動モーターを何度も分解し、コイルを巻き直しては、その動きを詳細に観察して研究したこともあった。 てこの原理や目に見えない原子の仕組みに神秘的な摂理を感じた。スポーツは得意でなかったが、 中学時代の三年間を軟式庭球に熱中した。参考書が欲しい時や学用品が必要になると、八王子の伯母の家に遊びに行っては無心してきた。 入手した本は知識の糧として大切にした。八王子の伯母は私の良きスポンサーであった。

(文責:yut)

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