私の人生物語その3

3. 私の人生物語・その3
高校進学と講道館柔道

 当時、神奈川県では、公立高校入学時にアチーブメントテストと呼ばれる学業の達成度を客観的に評価測定する 学力テストが実施されていた。そして、その達成度によって、進学すべき高校の事前選抜がなされていた。 アチーブメントテストの結果は、県下の中学校間の格差に無関係、全県下一律に客観的評価が付与され、 各人の成績順が把握できる仕組みになっていた。高校では、このアチーブメントテストと中学での内申書に基づき、 合格者の選抜を行っていた。中学を間もなく卒業する頃、親子での進路指導の面接があった。 日々の生活に追われていた母はしぶしぶ面接に同席、面接官の先生に「我が家は生活が苦しく高校進学などできません。 中学卒業後は就職の道を進ませて下さい。」と訴えた。私のアチーブメントテストの席次はかなり高かった。 面接官の先生は「この子は高校に進学させるべきだ。学費は奨学金制度を利用すればよい。」と母を説得した。 この時、すでに国の奨学金制度への申請は放棄していた。また、日頃の内申書の成績はそれほど高くはなかった。 定期試験の結果は、毎回席次が公表されており、それほど悪くないのに、内申書を友人や知人と比較すると、 相対的に低く評価されていたようだ。母子家庭であること、内向的な性格であったことなど、 テストの結果以外の面で減点されたのだろう。この矛盾は小学校時代から気付いていたが、人には先入観と好き嫌いがあり、 各人の環境の差も評価の対象になるとの考え方で、自分なりに納得していた。しかし、不満は蓄積しており、 あまりに酷い評価をした教科の先生には抗議を申し入れたこともあった。 そして、いずれは追い付き追い越したいという気概を持ち続けていた。人は人を色眼鏡で見る傾向は誰にでもあるようだ。

 高校進学は、特別に県と市の両方から奨学金の支給が認められ、普通科のある高校の工業系機械科に合格した。 当時、工業系の高校には県下で貧しくとも優秀な生徒が多く集まった。母は日雇い労働者として道路工事の最中であったが、 合格の報告に行くと喜んでくれた。平塚の伯父から、合格の記念にと、自分が嵌めていたスイス製時計を頂戴した。 しかし、この時計、私の僅かな油断から海岸で遊泳中に盗まれてしまった。悔しい思いをしたが、伯父には話すことができなかった。 母は私が高校に進学したことで、家計が維持できなくなると考えたようだ。間借生活の家主からも立ち退きを求められていた。 幸いに、山形の酒田から進出してきた企業が寮母を募集していたので、その寮母に母子ともに住み込みで納まることができた。 二十名以上の男子寮の寮生の朝夕の食事をほぼ1人で賄うのである。毎日の献立と食費の管理を含め、 約三年間の勤務が休み無く続いたが、母子の生活を支えてくれた。同時に、寮生からは多くのことを学んだ。 麻雀・将棋・囲碁など、多くのゲームや遊び以外に、勉学の仕方に感化された。一度に沢山の兄貴が出現したように思われた。

 入学直後、クラブ活動の勧誘があった。全国大会にも参加した実績を持つ高校であり、軟式庭球を続けようと考えていた。 しかし、友人の勧めもあり、柔道部の練習を覗くことになった。腕力に自信の無い欠点を補うことができるかもしれないとも考えた。 体力や腕力に自身が無ければ、健全な精神が宿らないのではないかとも考えた。それが運の就き、柔道部員に半強制的に加入させられた。 毎日、放課後の午後三時過ぎから夕方七時頃まで、柔道の稽古に参加させられた。最初は基礎体力造り、しかし、体力が弱く、 首の力が無くブリッジなどが満足にできない。柔道の基本、受身の練習は、畳を上げ、床板の上に直接行う。 正しく受身が出来るようになれば、床板の上でも痛みは無く衝撃が吸収できるという。海岸では砂の上を走らされ、 毎日の激しい扱きに、身体全体が悲鳴を上げた。少しは稽古を休みたいと、放課後に正門から帰宅しようとした。 なんとそこには先輩が見張っているではないか、逃げ出すことができずに、柔道場へ連行された。今度は裏口から逃れようとすると、 裏口にも先輩達は見張っていた。そろそろ悲鳴を上げる頃と新入生の行動は先輩達に読まれていたのである。

 夏休みになると、合宿に参加させられた。入学した高校の柔道部は、当時、県下でも有数の名門校であった。 特に、毎年の県下体重別大会は優勝争いに加わる常連校、大先輩がその伝統を築いてきた。 普段の稽古時に何人かの大先輩も参加していたが、合宿には柔道部を卒業した先輩達が大勢で参加した。 その数は現役の部員数よりも多く、先輩達の中には合宿所から勤務先へ直接に出勤する人もいた。 連日の猛稽古、数日後にはトイレで腰を落とすことのできない程の筋肉痛、這いずって移動する人もいた。 猛稽古に脱落する新人もいた。やがて鍛えられた成果が生まれ、柔道を始めて半年が過ぎた頃、初段を取得する仲間が出現した。 私も2年生なってから講道館柔道の初段になり、夢の黒帯を締めることができた。最初の試合で勝利を得た喜びも味わった。 ところが、私は体が硬い体質、骨太ではあるが、骨は脆かったようだ。何度も稽古中に骨折などの怪我を繰り返した。 骨折時は脂汗が流れ、骨折部の皮膚は蚯蚓腫れになる。近くに優れた接骨医がおり、その都度お世話になった。 幼少の頃、母は丈夫な骨が形成されるようにと、良く煮干などの小魚の骨を丸ごと焼いて食べさせたことが裏目に出たようだ。 怪我は休養にもなったが、物足りなさを感じた。余力で応援団にも加入した。柔道部員には応援団を兼務する数人がいた。 現役大学生が応援方法を直接指導したこともあった。そして、怪我が完治すると、柔道の稽古を優先した。 最も大きな怪我は足首を骨折したこと、歩くことが出来ずに、毎日の通学には友人のお姉さんに車で送り迎えをして頂いたこともあった。 母は真剣になって柔道を止めるように懇願した。数年前に、稽古中の事故で一人が亡くなっていたことを聞きつけていたのであった。

 この頃は既に講道館柔道の魅力に惹かれていた。稽古を休むことはあっても柔道は続けた。講道館柔道の真髄は精力善用と自他共栄にあり、 柔能く剛を制し、小柄な人が大きな人を投げ飛ばすことのできる豪快さにある。また、勝負に拘るのではなく、 体育と勝負と修身を一体化させ、勇壮・礼儀・自制・親切などを重視する。帰宅すると、 母が寮母をしている寮生に数人の柔道経験者がいた。休日になると、何処から調達したのか、会社内の敷地に畳を敷き詰め、 畳が不足すれば、寮の部屋の畳を剥がし、炎天下での野試合や乱取など、荒稽古に駆り出された。 練習試合を含む、他校との交流試合は多かった。大切な試合の前には良く怪我をした。 このため、大きな試合に出場する機会は少なかった。3年生の学年別団体戦では、私にも出場する機会が与えられ、 県下で三位に入賞し、獲得した成績に喜んだこともあった。県下体重別大会は、直前まで選手としての出場を予定していたが、 怪我で出場できなかった。この年の県下体重別大会では優勝したのであった。卒業する頃には、講道館柔道二段に昇段していた。 柔道は基本的に一対一での勝負、投技か固技で勝負を決する。投技は立技とも呼ばれ、手技・腰技・足技・捨身技に区別される。 固技は寝技とも呼ばれ、抑込技・絞技・関節技に区別される。そして、それぞれが数十種類の技に分類され、 崩し・作り・掛けの正しい理合に基づき、基本技と多彩な応用技との組合せが大切であり、 自らの身体で本能的に体得すべく稽古が求められる。また、講道館柔道には形があり、 投の形、固の形、柔の形、極の形、護身術、五の形、古式の形など、武術の真剣勝負を形に残し、 美的要素を取り入れ、柔道の理合をゆるやかな動作で体現できる工夫がなされている。

コラム:嘉納治五郎の柔道

 ほとんど毎日が柔道漬けの高校生活、帰宅して夕食後はバタンキューと熟睡、朝起きると三十分程度の床の中での勉学の予習と復習、 学問の世界に興味はあったが、勉学に励んだような記憶は特にない。しかしながら、柔道を続けたことにより、集中力と忍耐力が増し、 理性と感性が無意識の内に磨かれたようだ。学業の成績は、優秀ではなかったが、それほど落ちなかったようだ。 成績は厳しく評価されたようだ。平均点が六十点未満の科目は落第点が付与された。二科目以上の落第点が存在すると、 進級できない。校風は、誠実と健康を求め、科学と技術の追究、自由と平等など、 生徒達と卒業生に男子校として独特の雰囲気と匂いが立ち込めていた。 当時の高校の教師達は教えることよりも育てることを重視していたようだった。この頃の心の思惑、人生の矛盾をも感じていた。 母の行動を見ていると、働けど働けど生活は楽にならない。日本は平和になったが、世界を見渡すと戦争は存在する。 正しいことが必ずしも認められるとは限らないし、悪いことをする人はなくならない。 この世の理不尽なことも数多く見て体験してきた。この世は矛盾だらけ、何を心の支えにして生きるべきか、 思春期の中で何かを求めていたようだ。考えを整理してみた。わが意思に反するようなこの世のあらゆる矛盾は、 肯定すべきなのか、それとも否定すべきなのかである。否定してこの世を認めなければ、自分も否定され、 その存在の価値が無くなるかもしれない。矛盾は肯定して生き抜くことが大切なのではとの結論に至った。 この頃から、時代は日本が高度経済成長期に突入しようとしていた。

(文責:yut)

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