私の人生物語その7
自然科学から社会科学へ

7. 私の人生物語・その7
自然科学から社会科学へ

 さて、私の職場での進路の問題である。技術者としてのより高い望みは何か、最新の技術を吸収し、さらに付加要素を加えて、 新しい技術分野を開拓する。この繰り返しを激しい技術競争の中で死ぬまで続けるのだろうか、学会の技術委員活動にも参加していた。 一方では、管理とマネジメントの世界にも関心が芽生え、事業運営や企業経営への興味も生まれ始めていた。 若い頃、経済や法律の世界は科学ではないと考えていた。 ルールや約束が日々変えられるような世界に科学性など存在しないというわけである。 一方、ある人は経済や法律にも社会科学という科学性があるのだという。 技術部門の職場では担当の製品群の技術計画と共にその売上高や利益の管理が必須になっていた。 競合他社の情報を入手する必要も生じた。技術業務の業態分析を行って合理的な技術活動や技術開発を模索することも課題になった。 当然、コストダウンの推進や製品の品質と信頼性の向上はより厳しくなった。製品の開発や改良のスケジュール管理も厳しくなった。

 技術環境はスーパーコンピュータと高性能化したEWS(エンジニアリング・ワーク・ステーション)が普及しつつあり、 OA(オフィス・オートメーション)やFA(ファクトリー・オートメーション)が叫ばれていた。 徐々に通信のネットワーク化が本格的に進められ、電気通信分野では、競争原理の導入と独占の廃止および参入の自由化により、 日本電信電話公社が民営化されてNTT(日本電信電話株式会社)が発足していた。 情報通信サービスに多彩な内容の付加価値サービスが出現した。各種の電子機器は人工しもべとして、 電話、ファックス、複写機、パソコンやワークステーション、電子ボードなどの有効利用が求められた。 企業内では情報の武装化が急務になった。製品はアナログからデジタルへ、 その機能は回路系を中心にした機能デバイスの製品化が活発化していた。これらの変化に対応する技術的なツールとして、 各種シミュレーション機能を持つEWS(エンジニアリング・ワーク・ステーション)の進展がみられ、 新たな展開に対応する時期にあった。一方、この頃の私はすでに四十歳を過ぎており、 新しい最先端の技術分野の第一線に自らが飛び込む気力は衰えつつあった。 科学や技術の第一線で最先端の仕事を遂行する能力や気力の充実は三十歳代後半までが限度なのかもしれない。 その後は若い人の力を結集し、組織としての効率的な研究や開発の場の提供を管理するのが望ましいようだ。 これまでの個人的な努力は、多くの人が必死になって築き上げてきた技術の道をほんの少しばかり引き継いで その一部を歩むことができたに過ぎないとも考えていた。

 技術の道を大局的に振り返れば、学んできた多くの基本的な知識は、ほぼ一〜二世紀前には確立されていた。 その上を現代科学の進歩と共に歩んで来たに過ぎない。例えば、電磁波現象の基礎を定式化したマクスウエル方程式は 1864年に導かれていた。そのベースになったファラデイの電磁誘導は1831年に発見されていた。 数学の世界では微分積分学が成立したのは十七世紀のことであり、オイラーやラグランジュが活躍したのは十八世紀のことであった。 十九世紀以降は数理物理学が定着し、日本や中国にも西洋流の数学が本格的に入り込んだ。 二十世紀前半には相対性理論や量子力学など、物理現象の基盤を揺るがす概念が提示された。 コンピュータや半導体の本格的な出現は第二次世界大戦後のことである。科学や技術の進歩の激しさに驚かされるばかりである。 科学や技術の発展の恩恵に触れられただけでも満足と誇りに思いながら、 この流れに技術者としてどこまで付いていけるのか不安も芽生えていた。

 仕事の悩みを抱えていた頃、技術部門から計画部門への異動が発令された。突然の異動である。 技術活動の精神的な負担から開放されたが、日々の業務に追われるようになり、忙しい毎日が続いた。 何しろ毎月数億個の半導体を受注から出荷まで数十人で管理するのである。一個たりとも取り扱いにミスは許されない。 新しい仕事の流れや業務のルールを把握した頃、コンピュータによる管理業務のシステム化の担当をすることになった。 従来の伝統的な生産の管理方式は、メンテカード方式による帳票台帳に基づき、各種伝票からの情報収集を行っていた。 その後、コンピュータの発展が著しくなり、その利用は技術計算から管理情報の取り扱いへ拡大していた。 また、企業の行為は、お金とモノと情報とが密接に絡み合っており、 これらの対応を関係付けるのは人が介在することによってなされてきた。そこには人と人との約束事が存在し、 信用に基づく契約の成立が不可欠である。人々を相互に結合する関係や状態を発展・持続させているものがあり、 その諸々の条件が普遍的に作用するならば、そこに法則に類似するものが存在すると考えた。 その普遍的な法則をシステム化すれば、科学の自然法則と同様な数学的モデルが構成される。 特に、この場合、歴史的な時間軸での普遍性と地域的な空間軸での普遍性が存在する。 この時、自然科学から社会科学への道を見出した。

 普段の仕事の流れから普遍的なものを抽出すれば、システム化による合理性が生まれ、 コンピュータのプログラムによる自動化や省力化が可能になる。ここで最大の難問が存在した。 システムに乗せるための信頼できる原始データはどのようにして入手すればよいのかということである。 自然科学の世界ならば、物理定数や材料定数などに相当するものである。例えば、電子の質量や光の速度など、 多くの先人達の努力でほぼ信頼できる普遍的な正確な数値を知ることができた。これらの普遍的な数値を用いて、 法則としてモデル化された関係式に乗せ、初期条件や境界条件を変化させることで、自然現象のシミュレーションが可能になる。 その取り扱いが正しければ、実験とも一致して、製品の機能や動作ともほぼ正確に対応付けることができた。 社会科学の場合、その原始データはお客様の注文する商品の数量や納期や価格であり、 生産すべき生産量やそれに費やす原価(コスト)と時間(リードタイム)などである。 これらは時々刻々と変化し、普遍性はなく、個人の思惑などが入り込む。常に正しい情報が登録されるとは限らない。 物づくりの現場では、FSC(フロア・ショップ・コントロール)による自動化やシステム化が進み、何時、何処で、 どの工程のどの装置から、何が幾つ良品として流れたかを知ることのできる技術的ベースがほぼ確立していた。 問題は何を、何個、何時、何処で生産すれば、お客様の要請を満足に満たすことができるかということである。 このような局面の世界は、生産管理における生産計画の問題とされ、在庫や棚卸の管理に結び付いた。

 現実には、多品種生産であり、特約店を含む千社以上のお客様からの情報とマッチングする管理が求められる。 販売システムの構築によって、受注情報のデータベース化は存在していた。問題は生産計画にあった。 過去の実績や今後の出荷予測を担当の思惑や経験に基づき、その多くは見込みで生産計画を立案していたのである。 このため、特定の品種群は過剰生産、一部の品種は品不足のため出荷できずに多量の遅れが発生するという現象が慢性化していた。 シリコンサイクルと呼ばれる四年周期の好不況の原因の一つにもなっていた。過剰生産は過剰在庫や棚卸資産の増大に結び付き、 事業経営の資金不足や借金経営を招くだけでなく、大量の不良資産を抱え込み、毎年の決算時に膨大な売れ残り品の処分が必要になる。 この行為はお金を溝(ドブ)に捨てるようなものである。一方、品種の品不足は販売チャンスを失うだけでなく、 お客様の信用を失う原因になり、注文が存在するのに出荷できないために、売上げが伸び悩むという現象が生じる。 このジレンマを解消する手段として、見込生産を少なくして、受注生産を増やそうとした。 しかし、受注生産はお客様からの受注を受けてから生産するために、生産の工期(リードタイム)を短くしなければならない。 半導体の生産は生産投入してから完成品になるまで、数週間から数ヶ月を必要とする。材料の調達を含むとさらなる工期が必要となる。 また、品不足品種の生産設備を増強するとなると、より大規模な設備投資と工期を要する。 設備投資して生産増強したのに販売チャンスを失って、大量の売れ残りの棚卸資産や稼動しない遊休設備を抱え込むということに なりかねない。企業経営の基本的なリスクに直面したのである。この課題は本格的に社会科学の問題に取り組む契機になった。

 自然科学から社会科学への道に興味を覚えた頃、会社内で創立記念に懸賞論文の応募があった。技術者活動を整理する意味を込め、 将来の夢を描いた論文を提出してみた。すると、見事に優良賞の受賞の知らせが届き、驚いたが、 賞状と思わぬ臨時のボーナス賞金を獲得した。そこで夏季休暇を利用して、過去の無計画の新婚旅行を取り返すためにと、 夫婦2人だけの三泊四日のドライブ旅行を計画した。二人の子供達は成長しており、留守をお願いした。 東名高速道路を下り、米原ジャンクションを経て、福井の東尋坊、金沢の兼六園、能登半島の輪島や能登島、 合掌造りの白川郷と五箇山、御母衣湖付近で大雨に遭遇、飛騨の高山、乗鞍から松本城への旅は楽しい思い出になった。

 経済や法律に関する社会科学の分野は、今まで意識的に避けてきた。生産管理のシステム化などに対して、 真剣に取り組むためにはそれなりの基礎が不可欠、大学の通信教育課程の経済学部に入学した。四年で卒業すると、 さらに続けて法学部にも挑戦し、無事に二学部を制覇することができた。 この間、世界規模の社内情報システム構築プロジェクトの一員として参画、その成果により顕貢賞を受賞した。 また、計画業務を一時的に離れ、情報システムの専門部署へ配属された。さらに、永年勤続表彰制度により、 勤続30年目の永年勤続表彰を受け、記念品の旅行券が贈呈された。 そして、リフレッシュ休暇と呼ばれる長期の特別休暇が通常の年次休暇と別枠で与えられた。 この旅行券は、家内の内助の功への感謝を含め、夫婦で最初の海外旅行をしようということになった。 国内旅行は毎年のように家族旅行を計画して、北海道から沖縄まで、主な観光地をすでに踏破していた。 会社の関連企業には旅行を専門に取り扱う部門があり、各種リフレッシュツアーを企画していた。 私達は「ローマ・パリ七日間」のイタリアとフランスを巡る海外旅行を選択した。夫婦が健康な時に、 一度は行って見たいと思っていた。懇意にしている近くに住む友人夫妻にこのことを話したら、是非とも同行したいという。 旅行会社へ問合せると、特別に参加を認めてくれた。当時のヨーロッパは通貨統合の前、 通貨単位の「ユーロ」はまだ出現していなかった。この最初の海外旅行は、 広大な人間の歴史と生活の空間という時空を駆け巡ってきたような旅であった。

 四十歳代後半の数年間は日々の仕事と生活に追われて過ごしてきたが、人生の一区切りという時期でもあったようだ。 ところが五十歳代になると、間もなく健康問題に見舞われた。突然、右目が真っ黒な月が昇るように下から見えなくなったのである。 痛みは何もない。会社の机で朝の仕事を始めた直後のことであった。その時間は1時間足らずで、 右目の上部から僅かに光が差し込む程度までになった。慌てて帰宅、眼科に行くと網膜剥離と診断された。 即座に手術しなければ完全に失明するという。直ちに入院、網膜の剥離を付着させた。レーザー光線による点溶接である。 一時的に視力は戻ったが、歪みがひどく、健康時のようには回復しない。約1ケ月後には再発した。大学病院を紹介され、 高度な医療技術の世話になることになった。最新の手術装置を使用した最初の患者とのこと、眼球の上部に3ケ所の穴を開け、 監視しながら完全に剥離した網膜を薄い銀紙を貼り付けるようにして、一点一点ずつ丁寧に、レーザー光線で焼付けられた。 手術を直接に行う人、準備された手術器材を処理する人、装置を取り扱う人など、数人の医師団チームにより、 全体で約千点近い網膜のスポット溶接がなされたようである。部分麻酔であり、本人に意識はあり、医師と会話をしながら、 約5時間の手術であった。眼球内のゼリー状の硝子体は人工物に置換えられ、水晶体も取り外された。 後日に人工レンズに置換えるという。網膜と角膜は人工物が開発されてなく、 それ以外の眼球内の物質はサイボークのように人工物に置換えられた。手術後、一時的に麻酔が切れて、 激しい痛みに襲われたが、眼帯をしたのは一晩のみ、翌日には眼帯が外され、視力が自然に回復するのを自覚できた。 数日間は絶対安静の中、冷静に観察していると、眼球内で細胞が徐々に活動しているようであり、視力の回復は白黒の世界から始まった。 最初の視界は色がなく白と黒の境目がぼんやりと確認でき、少しずつ濃淡が認識できるようになり、 徐々に色が付加されて、カラーになっていった。人間の眼球は撮像管や撮像素子と類似の仕組みであることに驚いた。 不思議な体験であった。

 網膜剥離の原因は、強度の近眼で眼球の構造が人よりも奥に拡大して風船が膨らんだようになっていること、 老化現象によって細胞が脆くなってきたこと、激しいスポーツなどにより眼球への衝撃が重なったこと、 これらの複合的要因が重なり、柱への衝突や激しい運動などの僅かな衝撃で網膜の一部に孔が開き水分が網膜の裏側に漏れ始めた ことが考えられるという。この推測は私の場合の事例であり、糖尿病や他の病的な原因、交通事故やボクシングなどの衝撃によっても 起こるという。最新の医療技術により右目の視力は若干ながら回復したが、左目も同様な現象が起こる可能性があると忠告された。 その前兆はあるはずであり、晴天の青空を眺めながら、視界の中に小さな黒い影が浮遊する飛蚊症が最初の兆候、 微粒子の泡が見え始めたら危険な状態のようだ。網膜の剥離が進む前にレーザー光線で焼き付けることができれば、 視力の低下を招かないで治療が可能になる。このことから、左目の症状には万全の注意を払うようにした。数ヶ月を経過した頃、 その兆候があり、即座に治療を開始して、左目は視力をほとんど低下させることがなかった。

 このことがあってから、体調の異変が続き、高血圧の発症、大腸ポリープの摘出、鼻炎の手術、肝臓や腎臓の機能低下など、 次々と病気の兆候に見舞われた。しかし、事前に治療を施すことで私の生命は維持されてきたようだ。それにしても、 現代科学の進歩の恩恵は医療技術にも深く浸透していることに素直に感謝したい。高血圧症の発見は定期健康診断や 人間ドックのお陰であり、治療薬がなければ、母と同様な突然の脳卒中に襲われていたかもしれない。 大腸ポリープの摘出は医師と患者が同じ画像を見ながらであった。一昔前ならば、すでにこの世に私の生命を保つことは できなかったとも考えられる。この天から与えられた身体はたったの一つのみ、生命の尊さに心から感謝しつつ、 大切に使って残りの人生を生き抜きたいと考えるようになった。

(文責:yut)

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