私の人生物語その9
多くの人との出会いの中で

9. 私の人生物語・その9
多くの人との出会いの中で

 人生は一期一会という。この世に生を授かり、最初の出会いは母であり、父であったと思う。我が身が守られ、 我が身を守りつつ、この世を信じ、人を信じなければ、生き抜くことはできなかった。近隣の人々との出会いがあり、 伯父伯母や叔父叔母および多くの親戚との出会いが生まれた。子供の頃の遊び仲間や喧嘩の相手とも出会った。 やがて、小学校に入学、先生や新しい友達とも出会う。転向すれば、そこには新たな出会いの世界が待ち受けていた。 記憶に残る人もいれば、記憶から消え去ってしまった人もいる。中学から高校に進むにつれて、人は成長しながら、 次々と新たな出会いの範囲を広げた。テニスや柔道で知り合ったスポーツの仲間、母の交際範囲で知り得た多くの知人、 母が会社の寮母をすることでお世話になった社内の人々や寮生の人達、会社内では上司や同僚あるいは多くの諸先輩の方々など、 多くの人との出会いは様々な形で訪れた。戦後の時代、太平洋戦争で生き残った人々が、そこで命を落とされた人々の願いを込めながら、 私達を大切に育ててくれたようにも感じる。

 サラリーマン生活が長ければ、会社生活で生まれた多くの人との出会いは、人生で最も大きな影響を与えてくれる。 会社生活の中で名刺を取り交わした方々との出会いだけでも数千名にもなる。 特に、職場でお世話になった多くの人々は走馬灯のように脳裏に浮かんでくる。 私が20歳代の頃のある日、就業時間を過ぎてから、仕事の仲間と飲み会に出掛けた。 二次会三次会と梯子酒をして、突然に仕事のグループリーダは、サラリーマンの世界で夜討ち朝駆けは常識とばかりに、 数人の部下を引き連れて、夜中の零時近くに、上司の自宅へ押し掛けた。そこで仕事の不平不満をぶちまける。 しかし、当時の上司は素晴らしい。家族が寝付いていたのに、全員が起きて来て歓待してくれた。 時には、仕事のコミュニケーションとして、徹夜の麻雀に明け暮れたこともあった。仕事仲間の家庭を順番に押し掛け、 家庭内でマージャンをした時代もあった。入社時には、母校の先輩達が同窓会なる組織を構成していた。 そこには染み付いた独特の校風が発散していた。一年に数回の宿泊旅行や飲み会では、 先輩達の経験談や手柄話を肴に飲むアルコールは格別であった。

 その中で、私達の年代は、企業内教育で多大な恩恵を受けた。 多くの優れた研究者や大学教授が真剣になって貴重な夜間の講義を続けてくれた。 今思うと素晴らしい先生方の指導を受けていたことを知った。幾つかの技術系の学会に加入した。 やがて活発な学会活動に参加するようになった。そこで迂闊な講演をすると、鋭い質問が飛んできた。 勉強会や研究会活動にも参加した。飲み会になると、これからの技術の動向や夢について、大いに語らって話が盛り上った。 その中の幾つかは現実の製品開発の場で実現していった。そこには企業や技術者や研究者の枠を超えた自由な夢の世界が存在した。 ある時、ある特定のテーマについて、企業および研究機関と幾つかの大学とが研究チームを作って、その活動に参加した。 ある地方の大学教授の行動を知って驚いた。専門分野ではあったが、突発的な講義をお願いしたことがある。 準備をしていないので15分程度の時間を頂きたいといって退席した。 約15分後に判り易く理路整然とした2時間程度の見事な講義をして頂いた。 その教授は翌日には上京して政府系の仕事や会議などの予定を消化し、テニス仲間から早朝練習をするとの誘いを受けると、 朝一番の新幹線で戻り、テニスで汗を流した後に予定の講義を幾つが行って、 夕方には米国の大学で客員教授をしているといって旅立って行った。このバイタリティが溢れる教授の行動パターンを聞かされ、 地球規模で科学や技術の最先端をリードしている研究者が存在することに感動し、 同時に私などはどんなに努力しても足元にも及ばないことを知らされたのであった。

 大学の通信教育でも多くの人との出会いがあった。定期的なレポート提出により、 担当教授とは目に見えないコミュニケーションが存在した。不合格の評点を頂戴すると、 次はどのようにして攻略しようかと参考書を収集して猛勉強した。スクーリングによる教室での授業は講師との直接の対話ができ、 受講者とも話し合う機会があった。ここで興味深い出来事は、数日前に講師として教壇に立っていた教授が、 何と隣の席で別な講師の講義を神妙に聞いている。話してみると、教授と言えども日々勉強、新しい情報を入手して、 刺激と論理を磨く努力が不可欠との事であった。 そう言えば、他の大学の教授や高校や中学の教師の多くが通信教育課程の学生として登録していた。 大学で学ぶ課程で幾つか疑問に感じたことがある。試験になると、その問題に対して、学生に同じ解答を要求する科目が多い。 過去の企業内教育では、この世のあらゆる参考書を見ても良く、個性的にそれぞれが異なる論理的な解答を要求する試験を経験していた。 学生や生徒に対して同じ解答を要求する試験は、小学生や中学生や高校生の一部の特定科目に限定すべきではないかと考えられる。 日本の教育は人の個性を大切にしなかったように思う。個性の違う人々がそれぞれに成長しなければ、 社会や文化や文明が進歩しなくなるように思った。個性の違う人々が存在してこそ切磋琢磨が意味を持ち、 科学や技術、経済や社会が発展するのではないかと考える。

 しかし、一方では、国や地域の文化が違えば、言葉が通じているようでも、その言葉の意味する内容に違いが存在することも経験した。 日本人相手の日本語ですら相手に正しく納得してもらえない会話が存在することもある。会話に潜む言葉の意味の前提条件は、 人によって、環境によって、タイミングによって、地域の歴史的背景によって、それぞれに異なることが原因とも思われる。 仕事で東南アジアのある国の工場と技術的仕様や製品の取り扱いに関するルールや取り決めを確認したことがあった。 メールによる英文の取り交わしではあったが、言葉の使い方にかなりの注意を払ったつもりでいた。 相互に慎重な確認をした上で現物に適用した。ところが、こちらが考えていたと異なる運用がなされていたのである。 改めて、こちらからの指示を出したところ、直接に相手の当事者には伝わらない。組織の壁が存在し、 指揮権の存在する上司からでないと、連絡すらできないのであった。他文化の人を動かす苦労を痛感した。

 私にとって、人生での最大の出会いは、何といっても家内であった。不思議な縁に導かれ、時には喧嘩もしたけれど、 家庭生活を支えつつ守り抜いてくれた。素晴らしい子供たちにも恵まれ、娘や息子を素直に育ててくれた。惚気るわけではないが、 人との交際が下手な私には最良の家内であったようだ。不思議な出会いと縁に感謝したい。 しかし、家庭は二人で築き上げていくもの、縁や運に任せて成り行きや自然に放置しては良い家庭は作れない。 一歩一歩と日々の努力が積み重ねられ、その結果が百人百様の家庭を醸し出すのである。 人には人生の運命の道が一本しか用意されていないのである。これは天の掟であり、自然界のルールでもある。 二度と同じ道を辿る事ができなければ、他の人も同じ道を辿る事ができない。どの人生の道を辿るかは自分が決めているのである。 不思議な糸に導かれ、偶然と必然の相互作用の中で人は育てられているようだ。

(文責:yut)

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