国内旅行記(瀬戸内しまなみ海道と四国秘境めぐり)

11. 国内旅行記(瀬戸内しまなみ海道と四国秘境めぐり)

国内旅行記(瀬戸内しまなみ海道と四国秘境めぐり)
(2006/07/02−07/04)

 今回は阪急トラピックスの「瀬戸内しまなみ海道と四国秘境めぐり(3日間)」を申し込んだ。同行者は主に家内のフラダンス仲間の総勢6名、四国4県と瀬戸大橋と瀬戸内しまなみ海道を跨ぎ中国2県を巡る旅へ出かけた。初日は、羽田空港から高知龍馬空港へ、高知の桂浜、徳島のかずら橋と大歩危・小歩危、香川の塩江温泉に泊った。2日目には、栗林公園を見学、琴平の金刀比羅宮を参拝、瀬戸大橋を経て、岡山の倉敷で街並みを見学、広島の尾道から瀬戸内しまなみ海道へ、途中の大三島で 大山祇神社を参拝、来島海峡を経て四国愛媛の今治から道後温泉に向った。3日目の最終日は、松山城を遠くに望み、宇和島を経て再び高知へ、宿毛から四万十川の下流で舟下りを楽しんだ。帰りは再び同じ道を逆戻り、途中で内子の街並みを散策、松山空港から羽田空港へ、慌しく駆け足の四国秘境めぐりであった。

 高知龍馬空港は日本で空港名に人名が付与されている唯一の空港である。高知県観光バスにて空港から浦戸湾の浦戸大橋を渡り太平洋に面した砂浜へ、龍頭岬の公園には約13mの坂本龍馬像が建っていた。昼食は土佐闘犬センター近くの食堂「龍馬の店」で鰹のたたきを食した。裏山には浦戸城趾があり、戦国の昔、四国統一の中心となった長宗我部元親の居城があった。長宗我部家は、関が原の戦で西軍、東軍の徳川方に敗れた。高知の土佐藩は徳川方の山内一豊に与えられたが、長宗我部の家臣が一領具足の郷士として激しく抵抗した。江戸後期に貨幣経済が発達し、一時的に郷士株が商人に売買された。坂本龍馬はこの土佐郷士であり、幕末に土佐海援隊を立上げ、薩長連合に尽力し、明治政府の基本政策になる船中八策を草した。

 観光バスは、高知自動車道を経て、大豊ICから祖谷渓のかずら橋へ向った。かずら橋のある祖谷川は吉野川の上流にある支流、近くに温泉もある。かずら橋は長さ約50mの吊り橋、冬場に寒風の中で山から採集したシロクチカズラを火であぶって柔らかくして編み、3年ごとに吊り換えているという。谷底からの高さ約15m、その昔に平家の落人が追っ手から逃れるため切り落としやすいようにカズラで作ったという説もある。吊り橋の下は丸太の間から丸見え、足を滑らせると踏み外す危険がある。通行料は中学生以上500円/人、冬の2〜3月は閉鎖されるようだ。秘境の雰囲気は残っているが、周囲は伊豆の山奥のように感じた。

 大歩危(おおぼけ)小歩危(こぼけ)は吉野川の上流にあり、足場の石の間隔が狭く大股で歩いては危ないので大歩危、足場の石の間隔が広く小股で歩いては危ないので小歩危と呼ばれるようになった。大歩危にある遊覧船の乗り場で下車、岩場を見下ろして記念撮影、白の岩肌と川の碧い色が絶景、渓谷の大きさと美しさを垣間見た。小歩危には駐車場が無く、車窓からの眺めのみとなった。

 吉野川を下り、井川池田ICから徳島自動車道へ、脇町ICで下り、塩江温泉に向う。途中の美馬地方は、その昔、馬の名所、戦国武将たちはここで良馬を求めたという。香川県の塩江温泉は約1200年前の奈良時代に行基が発見し、後に弘法大師が修業をして万人に湯治を勧めたという。四国では道後温泉に次ぐ古い歴史ある温泉、しかしその知名度はあまり知られていない。また、6月には天然の蛍が乱舞するとのこと、今夜の宿は新樺川観光ホテル、夕食後、バスで行基の湯へ出かけた。温泉の泉質は単純硫黄冷鉱泉で弱アルカリ性、すべすべとした肌触りがした。効能は、リュウマチ、神経痛、皮膚病、糖尿病などに効くという。翌朝、ホデルの周囲を少し散歩した。近くの高台に小さな神社があった。ホテルの傍を香東川が流れ、川辺まで降りることができた。周囲は見渡す限り山並みであった。

 ホテルを朝7:45出発、高松に向った。高松に入るとその昔源平合戦の行われた屋島を遠くに見た。今は陸続きだが、昔は島であったという。栗林公園で下車、栗林公園は特別名勝に指定されている。紫雲山を借景として6つの池と13の築山を巧妙に配した日本庭園、総面積は約23万坪、回遊式庭園の南庭と近代的に整備された準洋式の北庭からなる。この公園は約35年前に訪ねたことがある。その時は東門から入り、湖沼と松林が多く、広い植物園のような公園という印象があった。今回は北門から入り、主に西側の庭園を案内された。栗林公園は1625年頃、讃岐領主生駒高俊が南湖一帯を造営したのが始まりとされる。1642年に松平頼重(水戸光圀の兄)に引継がれ、歴代の松平藩主が約100年をかけて修築を重ねて完成した一歩一景の名園である。庭園には、桜・菖蒲・萩・梅・蓮・楓・椿など、多くの植物が配されている。なお、名前の由来となった栗の林は、嘉永3年(1850)、鴨猟の妨げになると切り払われたという。

 次の訪問先は讃岐の金刀比羅宮を参拝、琴平山(象頭山)の中腹にあり、こんぴらさんの名で親しまれている。金刀比羅宮の主たる祭神は大物主神、相殿に崇徳天皇が 祀られている。大物主神は天照大御神の弟、国造りの神様・和魂神として、農業殖産、漁業航海、医薬、技芸など広汎な神徳を持ち、全国の人々の厚い信仰を集めている。海の神様としても親しまれている。参道は比較的に長く、御本宮まで785段の階段を上る。実際は786段の階段があるが、参拝者が「ナヤム」では御利益が薄れるとのことで、途中に1段の下りを設け、785段にしたという。御本宮の高台から讃岐の街並みを一望できた。奥社の厳魂神社までは1368段の階段があるというが、時間が無く、御本宮の参拝で下りてきた。戻りは同じ階段でなく、回廊式の参道を下る。神様に背を向けては失礼であるという。昼食は「にしきや」でさぬきうどんの食べ放題、寿司飯付きで冷やしうどんとぶっかけうどんを大いに食す。うどんの腰が強く、美味であった。

 瀬戸大橋を渡り、岡山の倉敷へ向う。瀬戸大橋と瀬戸内しまなみ海道は今回の旅行のメインテーマの1つ、この日のバス内の席は真ん前、運転手の真後ろの高台、前方が丸見えの特等席であった。瀬戸大橋は、瀬戸内海を跨ぎ、本州と四国を結ぶ長大橋、本州四国連絡橋の1つ、全長9368m、3つの吊り橋と2つの斜張橋と1つのトラス橋の3種類からなる。総事業費が1兆1338億円、上部が4車線の道路(瀬戸中央自動車道)、下部が鉄道(JR四国本四備讃線)の2層構造、1988年4月から併用開始された。吊り橋のケーブルを眺めながら、約40年前に学んだ材料力学の課題でケーブルの曲線を3次方程式に近似して強度計算をしたことを思い出した。現実の橋梁の強度は震度7以上の地震に耐えられ、風速80m/秒の強風にも対応するという。事実、阪神淡路大地震時にも橋本体の損傷はなかったということである。しかし、橋梁は無事でも橋を通行する車や列車の安全は別ということで、一定の基準で通行止めになるようだ。

 岡山の倉敷に着き、美観地区(伝統的建造物群保存地区)と呼ばれる一帯の町並みを散策した。岡山は桃太郎伝説のある吉備の国、倉敷は江戸時代の天領(幕府直轄地)、米や綿花の集散地として賑わっていた。美観地区の町並みに、白壁や蔵など、昔ながらの町家の面影が残されている。大原美術館は休館日、倉敷川の今橋を挟み、大原家の本宅と別宅の建物があった。大原家は倉敷の大地主、明治時代に倉敷紡績を営んでいた。その先祖は元禄時代に倉敷に移り住み、庄屋を務めたことがあるという。特に、潟Nラレ創業者の大原孫三郎は明治・大正・昭和の実業家として、社会福祉事業にも興味を持ち、大原美術館の創始者として活躍した。潟Nラレは、人工皮革クラリーノやコンタクトレンズなど、化学と繊維を中心とする企業グループである。しかし、その若年は放蕩息子であった。倉敷川の周辺を物色、色彩鮮やかな石細工の店、おやつにだんごやどら焼き煎餅などを入手した。時間が無く、井上家などの古い家並みの多くを見学できなかった。

 観光バスは倉敷から山陽自動車道を経て尾道へ、尾道から瀬戸内しまなみ海道を通り再び四国へ入る。途中で本降りの雨に見舞われたが、瀬戸内しまなみ海道に近付くと雨は止み瀬戸内の景色を一望できた。瀬戸内しまなみ海道は、広島県尾道と愛媛県今治の間の6つの島(向島、因島、生口島、大三島、伯方島、大島)を10本の橋で結ぶ海の道、全長約60kmの西瀬戸内自動車道の愛称である。1999年(平成11年)5月に開通した。それぞれ個性的な各橋は自転車歩行者専用道路が併設されていることに特徴がある。最初の橋は尾道と向島を結ぶ双子橋、尾道大橋と新尾道大橋と呼ばれる。尾道大橋は橋長385mの放射形斜張橋、新尾道大橋は橋長546mのハープ形斜張橋である。向島と因島を結ぶ橋は因島大橋、上部が自動車専用道、下部が自転車歩行者道、橋長1270m上下二段構造の吊橋である。因島と生口島を結ぶ生口橋は、やじろべえの原理でバランスをとりケーブルを張って造られる代表的な斜張橋、橋長790mのファン形斜張橋である。

 生口島と大三島を結ぶ架け橋は多々羅大橋、ここが広島県と愛媛県の県境、橋長1480m、主塔(支柱)間の距離890mのファン形斜張橋、姉妹橋であるフランスのノルマンディー橋を超える世界一の斜張橋である。その優雅な姿は巨大なハープやはばたく鳥に形容される。この大三島で寄り道し、大山祇神社に参拝する。ここは、山の神、海の神、戦いの神として歴代の朝廷や武将から尊崇を集めた神社、源氏や平家をはじめ多くの武将が武具を奉納し、武運長久を祈った。このため、国宝や重要文化財の甲冑の多くがこの神社に集まっているという。また、大山祇神社のくすのき群は天然記念物になっている。宝物館や海事博物館があるようだが、見学する時間は無かった。

 再びバスに乗り込み瀬戸内しまなみ海道へ、大三島と伯方島を結ぶ大三島橋を渡る。大三島橋は橋長328mのアーチ橋、白いアーチと海の色と緑の新緑が美しい。伯方島と見近島を結ぶ橋は伯方橋、見近島と大島を結ぶ橋は大島大橋、この2つの橋は結び付いている。伯方橋は橋長324mの桁橋、大島大橋は橋長840mの吊橋、伯方橋は桁橋のためにガイドさんの案内が無ければ気付かない。大島と四国の今治を結ぶ橋は世界初の三連吊橋、来島海峡を跨ぎ、三連吊橋は絵になる独特の美しさがあった。来島海峡第一大橋は橋長960mの吊橋、来島海峡第二大橋は橋長1515mの吊橋、来島海峡第三大橋は橋長1570mの吊橋である。

 四国の今治ICで下り、国道317号の山道で道後温泉へ向う。道後温泉のホテル葛城に到着した頃は夕方の6時半を過ぎていた。7時半から夕食とのこと、ホテル内の風呂で疲れを癒し、夕食後、道後温泉本館の内部を見学することにした。道後温泉は、神経痛、筋肉痛に効能があり、美肌効果が高いという。道後温泉本館はホテルの目の前、三層楼のどっしりとしたこの建物は明治27年に建築され、夏目漱石の「ぼっちゃん」で一躍全国的に有名になった。国の重要文化財にも指定されている現役の公衆浴場である。道後温泉の歴史は古く、3千年も昔に遡り、日本最古の温泉、聖徳太子が訪れた記録も残されている。1階に浴室があり、神の湯と霊の湯に区別されている。入浴料はコースによって異なり、神の湯階下大人400円/人、神の湯2階席大人800円/人、霊の湯2階大人席1200円/人、霊の湯3階個室大人席1500円/人となっている。見学コースは大人250円/人、皇族専用の浴室「又新殿」や3階にある漱石ゆかりの「ぼっちゃんの間」および2階展示室などが観覧できた。商店街を潜り抜けるとからくり時計があり、午後9時まで1時間ごとに作動するというので、最後の時報に合せて急いで見学に出かけた。土産物を物色しつつ、最後に道後ぎやまんの庭を見学した。

 翌日の早朝、再び道後温泉街を1人で散策、道後温泉本館やからくり時計やぼっちゃん列車などをデジカメに収める。近くには子規記念博物館や道後公園や湯神社など、名所旧跡が多くあったがすべてを巡ることはできなかった。一旦、ホテルに戻り、朝6時からの道後温泉本館の1番風呂を目指す。毎朝6時になると、道後温泉本館の最上階「振鷺閣」から太鼓が刻を告げて開館する。「振鷺閣」の刻太鼓の様子を見学後、道後温泉の神の湯に入る。神の湯の男湯は2室あり、東浴室の壁画は鶴の画、西浴室の壁画は神話の画が描かれていた。

 最終日、ホテル出発は朝7時40分、なんとも忙しい旅行である。向うは高知の四万十川、夕方6時に松山空港フライトの飛行機へ乗るために松山まで同じ道を戻ってくるという。遠くに松山城を見ながら、松山自動車道を経て宇和島方面へ、途中で山の急斜面に伊予のみかん農園が多く見られた。適度な潮風で甘いみかんが作られる。また、四国は弘法大師が歩んだ霊場、四国八十八ケ所の札所が多くある。宇和島から国道56号へ、宇和島の真珠会館でトイレ休憩し、宿毛を経由して四万十川下流の中村へ向った。四万十川は日本最後の清流、海水と淡水が交差する汽水域が約9kmもあり、天然青海苔の宝庫、日本最大級川魚体長2m以上のアカメが棲むという。遊覧船の乗船場「アカメ館」で下車、屋形船に乗り、昼食を味わいながら、河口付近までの川下りを楽しむ。途中、投網漁や柴漬漁など、伝統漁法の様子を実演して頂いた。上流には幾つかの沈下橋がある。沈下橋とは洪水時に沈んでも水の抵抗を少なくするために橋の欄干が無く丸みを帯びた橋とのことである。

 観光バスは再び逆戻り、途中、宇和島の真珠会館に再度立ち寄る。リアス式海岸を持つ宇和海は真珠の養殖地という。遠くの山頂に戦国武将の藤堂高虎が築城した宇和島城が見えた。最後に木蝋と白壁の町、内子の町並みを訪ねた。内子は江戸後期から明治時代に、和紙と木蝋で栄えた門前町、その町並みの一部は国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。特に、大村家、本芳我家、上芳我家は国の重要文化財に指定されている。内子の家の造形美は、懸魚、海鼠壁、鏝絵、虫籠窓、鬼瓦、鳥衾、?、出格子、床几、蔀戸などにある。和蝋燭、桐下駄、和傘などの伝統工芸も残されているようだ。

 松山空港には飛行機のフライト約50分前に到着した。無事にJAL1470便に搭乗でき、羽田に午後7時半には到着した。そのまま京急に乗り、横浜を経由して、平塚で勤務先から帰宅途中の娘と合流し夕食、タクシーで無事に帰宅した。

(文責:yut)

戻る