私の人生物語その12
余生を楽しむ

11. 私の人生物語・その12
余生を楽しむ

 人生は健康第一である。心身が丈夫でなければ、何もできない。 次に経済力、生活に必要なモノの確保は不可欠だ。 そして、この世の中に存在するための力、意志力、志(こころざし)を持つこと、何かを求め、目的を持ち、行動し、常に意識を持って、挑戦し実行する。

 私達の時代、日本の企業で働くサラリーマンは、満60歳になると、定年を迎え、退職する。このようなルールが、一般的であった。 最近は、このルールが崩れ、定年が延長され、65歳あるいは70歳までも、同じ企業内で働くことができる。 また、定年後も体力の維持と生活のために、年金に加え、一定の収入を得る手段が不可欠になった。 この背景には、日本人の平均寿命が伸び、年金生活者が増え、少子高齢化による年金財政の急速な悪化がある。

 日本の年金制度は、世代間扶養方式であり、現役サラリーマンの保険料が年金生活者を支えている。 この年金は、一定の年齢に達した場合に支給され、老齢給付と呼ばれている。 この他に、年金には、一定の条件下で、保険料を納付した人の権利として、被保険者が死亡した場合の遺族給付、被保険者に障害が発生した場合の障害給付がある。 また、日本の年金制度は3階建、1階は国民年金と呼ばれる基礎年金、2階は厚生年金、3階は企業や個人が任意で加入できる私的年金になっている。 いずれにしても、余生の生活を安定させるためには、年金制度が不可欠である。しかし、年金だけでは生活が厳しく困難である。 そこで、老後のための蓄えを取り崩し、気力と収入力があれば、アルバイトなどで、収入を得る方法をも見つけなければならない。

 経済活動の基本は、付加価値を生み出すことにある。付加価値は、取引相互の満足の度合いであり、貨幣単位で計測される。契約の世界では、win-winの関係構築とも言う。 仕事とは、顧客満足度の追求であり、自己の持つ特技あるいは労力で何らかの付加価値を生み出す。 付加価値は、財およびサービスとも呼ばれる。財は形あるモノ、サービスは形のない人の行為である。 できることならば、多くの人に満足を与える付加価値が望ましい。そして、趣味は自己満足度を求める。

 余生を楽しみつつ、過ごすには、社会との関係を大切にして、社会への貢献を忘れずに、行動することである。行動の規範には、正邪善悪のモラルがある。 正邪は正しいことと邪まなこととの判断基準を主観的な意識や心のあり方に求め、善悪は行為や事柄について、その判断基準を客観的に行う。 善は道義的に正しいこと又は倫理に基づく理想的目標、悪は道義を持たないこと又は動物的本能の欲求を行動基準にする。 宗教的な善悪は、神の存在を仮定して、その教えに従うか叛く(背く)かである。科学的な善悪は、人類が生み出した概念であり、精神文明の肯定か否定かである。 いずれにしても、善悪は、相対的にその境界がなく、論理的に共存の肯定と否定である。

 大事なことは、自分が望まないことを言葉にしないことである。他人を傷つけないことである。 時間を大切にして、より良い社会になるように心がけることである。 このことが社会的な正義と不正を形成する。そして、必要ならば、法の存在が求められる。

 私の場合、趣味の一つは旅行、多くの出会いを求め、国内や海外へ出かけている。 家族旅行、夫婦や友人との旅行、大学の卒業仲間との旅行、飲み仲間との旅行などである。 そこには、人との出会いがあり、見知らぬ地域社会や自然環境との出会いがある。歴史という過去との出会いもある。 この世は、あらゆる出会いの連続でもある。出会いを楽しみ、善なる良好な出会いを求め、出会いから出会いを繰り返す。 1日を無駄にせずに、計画性を持ち、行動する。これが余生を楽しむ秘訣かもしれない。 常に、問題意識と挑戦すべきテーマを持ち、頭を働かせ、継続的に取り組む。そして運動して、身体を動かす。

 現在の私の気力と体力のベースは、高校時代から始めた柔道、一時的なブランクはあったが、今も子供たちを指導しながら、無理をせずに継続してきた。 このためには、この世が平和でなければならない。平和の基本は、善なる共存の肯定にある。世界の平和を維持し、これを持続させる必要がある。 人間の行為のありとあらゆる場面を善なる方向に導き、法的にルール化し、自由と多様性を認めつつ、高度に儀式化された社会を構築することであろう。 この儀式化は、この世での演技でもある。ならば、余生を楽しみながら、後世に残る素晴らしい演技をしたい。変化を求め、あらゆる変化に柔軟な対応をしながら、後世の見本となる生きた演技を残したい。 一人一人の演技がこの世の未来を作っている。一瞬の演技の連続でもある。どのような演技をするのか、多くの人びとの演技にも注目したい。

 人間の欲望には限りがない。これを適度にコントロールして、自然界の掟と調和させなければならない。 事実、人類による環境破壊は、人類滅亡の兆候を示している。地球の環境は無限ではない。資源もエネルギーも、有限なのだ。 人類は限られた環境と社会で、自然界に生かされている。このことを正しく知らなければならない。 そして、自然界の恵みに感謝し、謙虚に自然界と向き合う姿勢と行動が求められている。 そこには、礼なる作法の意味と実践が大切になる。礼の基本は、相手への感謝である。人は一人だけで生きているのではない。必ず何らかの相手がいる。 相手に対する感謝の心がなければならない。戦いの世界にも相手がいる。相手のいない戦いはない。相手がいるから戦いが生まれ、この世を生きることができる。 礼は相手への感謝の心を形に表したものである。戦いにも礼の形がある。形のない戦いは存在しない。すなわち、礼のない戦いも存在しない。礼は人間の行為でもある。

 人間の行為は、すべて何らかの情報にもとづいている。情報は人の行為に結び付いて価値を持つ。 情報には、自ら求めて得る情報、環境や周囲から与えられる情報がある。 私は、ある時から、情報に潜む価値の意味に興味を抱き、情報をライフワークの1つにしてきた。 文字や言葉の持つ意味に、人類の知恵が潜んでいる。同じ言葉でも、その解釈は、人によっても、時と場合によっても異なる。 人間としてこの世に生まれ、もしも情報が何も与えられずに、何の情報も得ることができなければ、人として育つことができない。 人は情報とともに生きている。情報は、人が生きるために、必要不可欠である。情報なくして、人は育たない。

 科学は、情報の集大成であり、自然界の真理を人が理解できる言葉に置き換える。情報に潜む力を正しく知る。 正しい情報を表現する。正しい情報が時空を結び付けている。 そこで、定年後に私がたっどった道、思うようにはならなかったが、少しでも情報を扱う仕事に関わりたいとの思いから、パソコンの講師とゴルフ場でのスポーツカメラマンの仕事に従事する機会を得た。

 パソコンの講師は、週に1回及び月に2回程度、1回当たり2時間あるいは1時間半の講義と実習である。毎回の講義内容を考えてテキストを準備する。これが大変である。 しかし、これが情報の秘密を知り、人を知る場となり、研究する機会にもなっている。

 ゴルフ場でのスポーツカメラマンの仕事は、週に平均3回、午前中の3〜4時間程度、記念の集合写真とスイングの分解写真を撮影する。 これをパソコンで編集して仕上げる。パソコンは、情報を操作する道具である。情報を扱うために、パソコンは欠かせない。

 仕事としてではなく、ボランティアとして、高校や大学の同窓会活動に関わり、ホームページの作成や編集にも携わっている。 柔道仲間のためのホームページも立ち上げた。ホームページはインターネットの世界、情報の自由な発信が可能となる。 そこはバーチャルな空間、情報を介して何でも表現できる。ただし、他人を誹謗中傷する情報発信は好ましくない。

 問題は何が信頼できる情報なのかにある。そこで信頼できる情報を抽出する方法が課題になる。 膨大な情報の山から意味のある情報を見つけ、そこから信頼できる情報を抽出する。 そこはビッグデータとAI(人工知能)の世界である。情報の最小基本単位は0と1、あるいは無と有、二進法ですべてを表現する。そして、意味のある情報に置き換える。

 AI(人工知能)の仕組みは、膨大なデータを収集し、それに統計的推理を施し、ディープラーニング(深層学習)によって処理する。 ディープラーニングとは、人間の脳の仕組みを模した機械学習であり、類似の情報を結び付け、記憶する処理方法でもある。 情報は人の行為に結び付いて意味を持ち価値を生む。人類は声と文字、言葉と文や文章、あるいは絵画や構造物など、それらを対応付けて、情報の持つ意味と価値を構成してきた。 現代はインターネットの時代、一瞬にして情報は世界に発信できる。文字も文章も、画像も動画も、情報は共有化できる。 情報の共有は、コミュニケーション、人と人との意思疎通を可能にする。

 インターネットの世界では、膨大な量の情報が、生まれ、蓄積され、増え続けている。 課題は、信頼できる情報、真実の情報、価値ある情報を、どのように、区別して、取捨選択し、抽出するかにある。 データマイニングとも呼ばれている。特に、その選択の基準が問われている。

 歴史的には、価値ある有意義な情報が後世に残され、大切に扱われているものがある。 例えば、聖書、論語、般若心経など、宗教上の教えがある。数学や科学の書物、文学あるいは音楽や絵画の世界にも、普遍的な人類の宝がある。 人生は価値ある情報の獲得とその活用にある。若い頃は、多くの情報を求め、情報を吸収するのに必死であり、質の良い教育と出会いがそのチャンスであった。 やがて青年になり、成人に達すると、獲得した情報に基づき、その活用が求められた。そして、失敗と反省を繰り返しながら成長する。 そこでも多くの出会いがあった。人生は出会いを求め、多種多様な情報の取捨選択を繰り返しながら、人間としての人格が形成され、人としての徳性を確保する。

 情報は科学の世界を構築してきた。科学は情報の集大成である。科学や物理の真理にも興味は尽きない。多くの未知の世界との出会いがある。 人生の楽しみは出会いの楽しみでもある。多種多様な多くの情報を求める楽しみでもある。

 生きることは、動くことである。動くことで、生きていることができる。常に何かを求め、動き続けなければならない。 しかしながら、年をとると、したいことが増え、体力や気力が衰え、身体も頭脳も思うように動かない。それでも、この世に生命がある限り、活動を止めることができない。

 特に、2020年はコロナウイルスが世界中に蔓延した。個人の行動が制限され、自粛生活が求められた。 移動時と会話にマスクは必須、モノにはむやみに触らない。 三密(密閉、密集、密接)を避け、飲食での5つの小(小人数、小一時間、小声、小皿、小まめ)と心遣いが求められた。

 個人と社会との関係が問われ、新たな時代に突入した。 人との出会いは、リモートオンライン、ズームと呼ばれるオンラインソフトで遠くの人と会話する。沖縄から北海道の人とも同じ画面で情報を共有できる。 リアルな直接の出会いが少なくなった。

それでも、これからも、多くの情報を求めつつ、一期一会の機会を大切にしながら、人として未熟ながらも、余生を楽しみたい。 善なる夢を描き、善なる社会を求め、善なる道を歩みながら、一瞬の判断を誤らずに、行動したい。

(文責:yut)

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