国内旅行記(山陽山陰旅行:モニターツアー4日間)
−萩・津和野・宮島と出雲大社・天橋立大周遊−

15. 国内旅行記(山陽山陰旅行:−萩・津和野・宮島と出雲大社・天橋立大周遊−)

国内旅行記(山陽山陰旅行:モニターツアー4日間)
−萩・津和野・宮島と出雲大社・天橋立大周遊(2007/06/10−06/13)−

 阪急トラピックスの「萩・津和野・宮島と出雲大社・天橋立大周遊モニターツアー4日間」に参加した。同行者はいつもの友人夫妻、羽田空港9:55(JAL1605便)にて広島空港へ向かう。コースは、第一日目は宮島から錦帯橋へ萩温泉郷で宿泊、二日目は萩焼窯元を見学後、萩の武家屋敷を散策、松蔭神社の松下村塾、津和野で殿町を散策、浜田を経て出雲大社へ、宍道湖を眺めつつ、玉造温泉にて宿泊、三日目に出雲の勾玉見学のために伝承館へ、車窓から松江城を眺め、大根島の由志園を見学、足立美術館にて美術品と日本庭園を満喫、鳥取砂丘から浦富海岸で山陰松島を遊覧、城崎温泉宿泊、最終日は、出石散策後、天橋立で股覗き、姫路城を見学後、大阪伊丹空港19:30(JAL134便)に乗った。

1.安芸の宮島から錦帯橋を見学して萩温泉郷へ
 広島空港に昼の少し前に到着、現地の添乗員の中井由利子さんが出迎えていた。時間が無く、昼食は空港内のコンビニで弁当やおにぎりを調達した。今回の旅行はかなりの強行軍、早速、観光バスに乗り込み、最初の目的地である安芸の宮島にある厳島神社へ向かった。バスガイドはトモテツ観光の村上晴美さん。豊富な知識と経験で、私達の四日間の案内を担当した。

 途中、山陽自動車道から広島市内の原爆ドームが見えた。広島は人類最初の原子爆弾の被災地、昭和20年8月6日の午前8時過ぎに投下された原子爆弾は上空約600mで核分裂爆発した。そのエネルギーは約60兆ジュール強、爆心地の風速は440m/秒で台風の約1000倍のエネルギーに相当する。爆風と3000℃以上の高温高熱、そして強烈な放射線が一瞬にして多くの人命を奪った。爆心地の人々は一瞬にして体内の水分が蒸発して即死したようだ。その被災状況は極めて悲惨、その年の12月までに約10万人以上が亡くなった。原爆による後遺症の被害状況は現在も続いている。広島が原爆投下の目標都市に選ばれた背景には、広島が軍都であり、陸軍の司令部や多くの重要な軍需工場が存在していたことにあった。

 宮島は広島県廿日市市にある。周囲が僅かに31km弱、厳島神社の背景に標高535mの弥山がある。この島は昔から神の島とされ、人も住まなかったようだ。弥山周辺の原始林は手付かずの自然が残り、奇岩怪石があり、宮島の鹿は野生であるという。安芸の宮島は日本三景の1つ、弥山周辺と厳島神社は平成8年(1996年)に世界遺産に登録された。厳島神社には、市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命が祀られている。日本書紀によると、アマテラスとスサノオの誓約の際、スサノオの剣から生まれたのが宗像三女神(市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命)、海の神、航海の神、水の神として信仰されてきた。福岡県の宗像大社にも祀られている。古事記によると、市杵島姫命は二番目に生まれた水の神、昨年2月に訪ねた大分県の宇佐神宮にも祭られている。

 宮島口から連絡船で約10分、厳島神社の大鳥居を右手に見ながら、宮島桟橋に接岸、下船すると、野生の鹿が出迎えていた。厳島神社まで徒歩で約15分、途中に高さ約10mの石鳥居、朱色の神社が海岸へ突き出していた。回廊の床板は僅かに隙間がある。これは満潮時に海水で床板が押し上げられる力を弱めるという。御社殿の創建は推古天皇即位の年(593年)、現在の規模は仁安3年(1168年)に平清盛が造営した。本殿の正面では古武道の演技大会が開催されていた。朱色の大鳥居は高さ16m、棟の長さ24m、主柱の根元の直径3.64m、明治8年に再建されて8代目という。能舞台もあり、毛利元就が寄進したもの、国の重要文化財に指定されている。近くに、やや小さな五重塔が見えた。歴史的に、多くの武将が参拝しており、奉納した武具や奉物も多く、見学できなかったが、近くの宝物館に展示されているようだ。

 再び山陽自動車道に乗り山口県の岩国市にある錦帯橋へ、山口県はその昔の周防国と長門国からなる。錦帯橋は錦川に架かる木造五連の太鼓橋、延宝元年(1673年)に旧周防国の岩国藩主であった吉川広嘉により現在の原型となる橋が創建された。岩国の城下町を流れる錦川が増水しても流されない橋を架けたい。それが歴代藩主の切なる願いであった。そのためには、橋柱の無い橋を架けるか、橋柱に工夫を凝らすしかない。錦川に小島のような橋台を作り、そこにアーチ型の橋を架ける。しかし、錦帯橋のアーチ形状は3つの円弧で近似するというような単純な構造ではない。鎖を両側から垂らしたカーブ、すなわち懸垂線(カテナリー)構造にその秘密がある。錦帯橋の創建者は児玉九郎右衛門、ヨーロッパではニュートンが大活躍していた時代、その頃ニュートンに勝るとも劣らない大工の棟梁が日本に存在していた。このことが解明されたのは最近のことである。

 この不落の名橋、戦中戦後には手入れができずに、戦後の海上埋め立てに伴う周辺の川砂の大量採取など、昭和25年の台風による激しい暴風雨で錦川が異常増水、六尺樽に水を入れ、橋上からの圧力で橋の流失をくい止めようとしたが、橋台の一部に亀裂が生じて崩壊、第三橋と第四橋を流失した。市民は直ちに再建運動を展開、その時の再建調査で、技術的に錦帯橋の工法は現代力学に合致していて何らの改善の余地が無いと結論付けられ、昭和28年に歴史的な名橋が蘇った。その後、木造橋の宿命である腐食による傷みが進み、平成13〜15年度に50年ぶりとなる平成の架け替えが行われた。この時に橋脚部を除き、現橋の形と構造が忠実に再現され原形を修復した。総工費は約26億円の大事業であった。橋の長さは直線で193.3m、橋面に沿うと210m、橋台の高さ6.6m、幅5m、比較的短い用材で、経間35mを無脚で渡した日本の技術は世界に誇ることができる。錦帯橋の背景にある城山の頂上に岩国城が見えた。また、近くに国の天然記念物の岩国の白蛇観覧所があり、縁起物ということで見学に行った。途中、吉川広嘉の銅像や国の重要文化財に指定されている中級武家屋敷(旧目加田家住宅など)があった。

 初日の宿泊は山口県萩市、山陽自動車道から国道262号線を抜けた。中国地方の高速道路はほとんど車が走っていない。一般道路の国道も信号機が少なく、車渋滞がない。バスガイドの村上さん、前方に車が走っていること事態が珍しいという。東名高速道路とは比較にならない。このため、山陽山陰の観光バスはほぼ予定通りに観光地へ到着できるという。一方、高速道路が出来た事により、車窓からの案内は現物が直接に見れなく、その醍醐味は薄れてきているようだ。中国地方の山並みは低く、関東とは何か景色が違うように感じた。宿泊の「萩グラントホテル」へはほぼ予定の午後6時前に到着した。

2.萩の武家屋敷と松下村塾
 萩は明治維新の原動力となった長州藩の城下町、長州藩は江戸時代に周防国と長門国を領地とした外様大名の毛利氏を藩主とする藩、藩主の毛利氏は、戦国時代末期に広島に本拠地を構え、中国地方全土を領地とする大大名であった。しかし、1600年の関ヶ原の合戦で毛利輝元が西軍の総大将となって敗れた。この時、東軍に内通していた一族の吉川広家の取り成しで粛清や改易を免れ、周防・長門の2国36万石に減封された。萩は三方が山に囲まれ、一方が日本海に面している。交通の便が悪く、徳川幕府はここに築城を命じた。江戸時代末期に公武合体論や尊皇攘夷を主張、藩士の吉田松陰の私塾である松下村塾出身の藩士の多くが尊皇攘夷を掲げて倒幕運動を主導した。

 翌日の早朝、一人で萩港まで歩いてみた。ホテルからの片道が早足で約15分、途中に旧萩藩御船倉があった。路地に入ると、昔の家並みの匂いが漂っていた。萩港は商港、遠くに萩城跡のある指月山が見えた。ホテルに戻り、朝風呂に入り朝食、7:50には観光バスに乗り込んでいた。最初に案内された所は萩焼の店、萩城跡の指月公園の近くにある「城山窯」、茶人の間では「一楽二萩三唐津」と絶賛されている茶陶である。この萩焼は藩主の毛利輝元が朝鮮の名陶工を招聘して藩の御用窯を開かせて朝鮮陶技の伝統を伝えたのが始まり。萩焼の神秘は、釉の亀裂にあり、その滲みが茶慣れによる色艶を変化させる。また、萩焼は毛利家御用窯のため、一般の人は使用禁止にされていた。そこで窯元が高台(萩焼の底)に切れ目を入れて傷物として一般の人に販売したと伝えられている。この店では陶芸家である金子信彦氏の萩焼を紹介していた。しかし、あまりに高価なので、一般品の萩焼の湯呑を一組買い求めた。

 次に萩城の城下町を訪ねた。ここには、高杉晋作、木戸孝允、伊藤博文、田中義一、など幕末から明治にかけて活躍した人々の旧家があった。高杉晋作は、家禄200石の長州藩士、尊王倒幕の志士、吉田松陰に学び、奇兵隊など諸隊を創設し、幕末長州藩を倒幕に方向付けた。柳生新陰流の免許皆伝でもある。初代総理大臣の伊藤博文は「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し、衆目騒然として敢えて正視するもの莫し」と評した。天保10年(1839年)に生まれたが、27歳の時に肺結核で下関にて亡くなった。晋作は風流な人でも知られている。西行法師を敬愛「西へ行く人を慕いて東行く、我が心をば神や知るらん」は24歳の作、東行を雅号としていた。20歳で15歳の井上マサ(雅子)と結婚、下関では愛人おのうと暮らしていた。本妻が長男を連れて下関を訪ねた時は、おのうと別居した。辞世の句は「おもしろきことなき世をおもしろく」と書き力尽きて筆を落とした。枕元の野村望東尼が「すみなすものは心なりけり」と書き継ぎ、晋作は微笑んで息を引き取ったという。

 木戸孝允は別名で桂小五郎、8歳の時に桂家の養子になった。吉田松陰の弟子、維新の元勲政治家、長州閥の巨頭、神道無念流の免許皆伝の剣豪でありながら、志士時代は徹底的に闘争を避け「逃げの小五郎」と呼ばれた。大学の同窓会でお世話になった京都の料亭「幾松」は桂小五郎の隠れ家、新撰組に襲撃された時に隠れた包や柱の刀傷などが生々しく残っていたのを思い出した。伊藤博文は、高杉晋作より2歳年下の遊び仲間、初代、5代、7代、10代と4次の内閣総理大臣を務め、初代枢密院議長などを歴任、明治憲法の起草に関わり、立憲政友会を結成した。

 田中義一は、高杉晋作より25年も若く、昭和初期の第26代内閣総理大臣、陸軍大将でもあった。近くの円政寺は高杉晋作と伊藤博文の幼年の遊び場、幼少の晋作は弱虫、円政寺の天狗の面が怖く、泣いて帰ってきたという。このため、晋作の母親が毎日の如く円政寺の天狗の面を泣かなくなるまで見せに連れ出したという逸話がある。当時は、赤い天狗の面、ひげや頬ひげをぼうぼうとはやし、金色に光る目をピカピカさせていた。当時、円政寺住職は、従兄妹の子の林利助を預かって雑用をさせながら、読書や習字を教えていた。この利助が後の伊藤博文である。

 吉田松陰の松下村塾は松陰神社の境内にある。吉田松陰は、江戸時代末期の長州藩士、思想家、教育者、兵学者、明治維新の事実上の精神的理論者である。幼名は杉虎之助、養子後の通称は吉田寅次郎、松陰は号、天保元年(1830年)に家禄26石の萩藩士の次男として生まれた。叔父の玉木文之進から教育を受け、山鹿流兵学師範の吉田家の養子となる。10歳で藩主毛利敬親の御前で「武教全書」戦法篇を講義、藩校明倫館の兵学教授として出仕した。幼少の頃から本を良く読み、安政元年(1854年)、ペリーが日米和親条約締結の為に再航した際に下田から密航を企てる。しかし、ペリーに拒否され幕府に自首し、長州藩へ檻送され野山獄に幽囚される。翌年に生家預かりの身となるが、家族の薦めで松下村塾にて講義を行う。この時、木戸孝允、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋、吉田稔麿、前原一誠など、維新の指導者となる人材を教えた。安政5年(1858年)、幕府が勅許なく日米修好通商条約を結ぶと松陰は激しくこれを非難、老中の間部詮勝の暗殺を企てた。長州藩は警戒して再び松陰を投獄、安政6年(1859年)、幕府は安政の大獄により長州藩に松陰の江戸送致を命令する。この時、松陰は老中暗殺計画を自供して自らの思想を語り、同年、江戸伝馬町の獄において、享年29歳にて斬首刑に処される。獄中で最後の書簡にある「親思ふこころにまさる親こゝろ けふの音つれ何ときくらん」の石碑があった。松陰が幽囚された杉家旧宅(幽囚室を含む)は神社敷地内にあった。

3.津和野で殿町見学後に出雲大社へ
 観光バスが津和野に入ると、駅前でUターン、細い路地を曲がった。津和野は城下町、山あいに白壁と赤瓦の家並みが続き、西に山城の跡がみえる。約700年前、吉見氏が封地されて以来、坂崎氏、亀井氏と続いた。昔、つわ蕗が生い茂っていたことから、つわ蕗の野「津和野」という地名になった。京都から伝わった神事「鷺舞」は国の重要無形民族文化財、津和野おどりは皆頭巾で顔を隠して踊る念仏おどりの1つ、男が女装、女が男装したのもある。殿町には道沿いに掘割があり、菖蒲が咲き、錦鯉が群れていた。両側は武家屋敷、藩校の養老館跡は民族資料館になっていた。現役の町役場は武家屋敷をそのまま使用していた。津和野には森鴎外や西周の旧宅がある。森鴎外は本名が森林太郎、藩校の養老館で学び、11歳で上京、東大医学部を20歳で卒業後、陸軍の軍医になり、ドイツに5年間留学、衛生学、文学、哲学、美学を研究した。「舞姫」は文豪としての森鴎外作であるが、多方面に亘る膨大な著述が残されている。西周は明治文化の功労者、我が国の哲学の先駆者、西洋哲学を日本に紹介、多くの学術語を残している。「化学」「哲学」「心理学」などは西周の訳語である。なお、津和野藩主であった坂崎出羽守は、大阪夏の陣の時、炎の中から徳川家康の孫千姫を救い出したが、顔に大火傷を負う。このため、姫を嫁にやるという約束を裏切られ、やがて自刃する羽目になった。昼食は津和野の「沙羅の木」の食堂で頂戴した。

 津和野から国道9号に乗り、出雲大社へ向かう。途中の「ゆうひパーク浜田」でトイレ休憩、ここから日本海に沈む夕日の眺めは素晴らしいという。世界遺産への登録見送りになった石見銀山の近くを通過、出雲大社に着いた時は午後4時頃になっていた。出雲の国は我が国で最も早く開けた国の1つ、それだけに神話や伝説も多い。出雲大社の本殿には大国主の命を祭っている。大国主の命が出雲の国を平和裡に天照大御神に譲られたので、その功績によって神々の手で建てられたのが出雲大社であるという。神々の手で建てられた神社は出雲大社のみ、拝殿には巨大な注連縄、本殿は大社造り、日本最古の建築様式、国宝に指定されている。その特徴は、非常に床高であり、切妻造りの妻入り、つまり一般の神社の側面の三角形の屋根の部分が出雲大社の正面、内部は真の御柱を中心に田の字の部屋で古代の住宅様式である。本殿の高さは24m(8丈)、昔は今の倍の48m(16丈)であったようだ。本殿の中心の真の御柱は真径109cm(3尺6寸)、俗にこれは大黒柱と呼ばれる。平成12年には境内から巨木3本を束ねた柱が見つかり古代の壮大な神殿の様が明らかになりつつある。出雲大社の東にある加茂岩倉遺跡など、銅鐸や銅剣や銅矛などが大量に出土している。

 出雲大社は縁結びの神、大国主大神は、古来福の神、平和の神、農耕の神、医薬の神として崇拝されている。毎年旧暦の10月11日〜17日、全国の八百万の神々が出雲大社に集まり、大国主大神を中心にして、政治・国防・縁結びなどを神議する。このために、10月のことを、出雲の国以外では神無月と呼ぶが、出雲地方では神在月と呼ぶ。神々の宿舎は、長屋形式の東十九社と西十九社、それぞれに社があった。出雲大社の祭祀者は出雲国造家、出雲国造家は天照大神の第二子の天穂日命(アメノホヒノミコト)を始祖とする。天照大神の第一子は天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)、その子の瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)は天皇家(皇室)の祖先となる。大国主大神は素戔嗚尊(スサノオノミコト)の神子神である。

 神話によると、日本国土は高天が原から派遣された伊弉諾尊(イザナギノミコト)と伊弉冉尊(イザナミノミコト)が結ばれて生成された。淡路島、四国、隠岐、九州、壱岐、対馬、佐渡が島、本州を生み、山川草木などの自然界のあらゆる神々を生み落とした。そして、最後に火の神を生む時に、伊弉冉尊(女神)が大火傷をして黄泉の国へ去ってしまった。黄泉の国の女神に会いに行った伊弉諾尊は、恐ろしい姿の女神を見て離縁する。そしてこの世に戻り、身体を洗い清め、汚れを落とし、みそぎをし、左目と右目と鼻を洗っている時に生まれたのが天照大神と月読み尊と素戔嗚尊である。伊弉諾尊は天照大神に高天が原を治めさせ、月読み尊に夜の世界を治めさせ、素戔嗚尊に海の世界を治めさせることにした。しかし、素戔嗚尊は海の世界を治めなかった。九州の天の岩戸の伝説は天照大神と素戔嗚尊の物語、素戔嗚尊には八俣の大蛇退治の伝説もある。大国主大神には腹違いの多くの兄弟(ヤソ神)がいる。大国主大神は末子、古代では末子相続が普通、このため異母兄神のヤソ神から数々の迫害を受けた。また、素戔嗚尊からも数々の試練が課せられた。大国主大神について、古事記には、因幡の白兎の話、根の国訪問の話、ヌナカワヒメへの妻問いの神話などがある。また、国作り、国譲り等の神話が古事記と日本書紀に記載されている。また、大国主は色々な女神との間に多くの子供をもうけている。宗像三女神のタギリヒメとの間にも2神がいる。

 一般的な神社の拝礼は2拝2拍手1拝、出雲大社では2拝4拍手1拝が基本、寺院では合掌礼拝と読経が決まりのようである。出雲国は神仏霊場として、20の神社と仏閣を訪ねる巡拝の道があるようだ。出雲大社の本殿に向かって、家内安全と家族の健康とご加護およびこれからも良き縁に巡り合えるようにと願った。帰りに歩いた松並木の参道は厳かな雰囲気に包まれていた。

4.宍道湖と玉造温泉
 宍道湖は周囲約45km、中海を挟み、日本海と結ばれている。日本で7番目に大きい湖、真水と海水が混ざりあった汽水湖、シジミやスズキやシラウオなど豊富な魚介類が取れる。しかし、最近では資源保護のために、代々から許可された人のみが湖に舟を浮かべることができるという。2日目の宿泊は玉造温泉、玉造温泉の「ゆーゆ」でバイキングの夕食、宍道湖の湖畔にある玉造国際ホテルへの到着は午後7時半近くになっていた。部屋からは宍道湖が目の前、すでに夕日は沈んでいたが、湖面がうっすらと赤らんでいた。遠くに松江の夜景が美しく見えた。

 本来の玉造温泉の温泉街は山側にある。奈良時代には開かれていた歴史ある温泉、美人の湯として賑わったと「出雲国風土記」に記されている。熱湯が湧き出す温泉は、神の恵み「神の湯」だとされ、病気を和らげる温泉の効能は神の力が働いているという。オオクニヌシノミコト(大国主大神)と国造りをしたスクナヒコナノミコトが玉造温泉を発見したとも云われている。ここで三種の神器の1つ勾玉が造られたことから、玉造と名付けられたようだ。玉湯川沿いには勾玉を模倣した橋が架かっていた。三種の神器は、天孫降臨の時、天照大神から授けられたとする鏡・剣・玉をいう。日本の歴代天皇が継承してきた三種の宝物である。鏡は八咫鏡(やたのかがみ)、神話では、天照大神が天の岩戸に隠れた際、石凝姥命が作ったという鏡、天照大神が岩戸を細めに開けた時、この鏡で天照大神自身を映し、興味を持たせて外に引き出した。そして再び世は明るくなった。後に鏡は天照大神が瓊瓊杵尊に授けた。剣は天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)、草薙剣(くさなぎのつるぎ)とも称される。神話では須佐之男命が出雲・簸川上(ひのかわかみ)で倒したヤマタノオロチの尾から出てきた。偉大な力を持つ太刀とされ、剣は須佐之男命から天照大神に奉納され、天皇家に天照大神の神体として八咫鏡とともに手渡された。玉は八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)、八坂瓊曲玉とも呼ばれ、大きな赤色の玉で作った勾玉、八尺の緒に繋いだ勾玉ともされる。岩戸隠れの際に玉祖命が作り、八咫鏡とともに榊の木に掛けられた。

 早朝の5時頃、宍道湖から朝日が昇るという。宍道湖は日本海側、日本海側から朝日が昇るということが信じられなかった。良く考えてみると、日本の本州は東西に曲がった形をしている。この地方は東側に海が存在していても不思議ではない。朝日が宍道湖に映るのを見届け、ホテル周辺を散策した。宍道湖には数隻の小舟がシジミ取りのために出港していた。

5.大根島の由志園と足立美術館の日本庭園
 観光3日目、出雲まがたまの里伝承館を見学した。出雲の勾玉の生産所、大きな勾玉、翡翠や水晶やオパールなどの原石もあった。宍道湖の唯一の島、嫁が島を左側に見て、松江に向かった。嫁が島は周囲240mの島、湖に落ちて亡くなった若い嫁の身柄と伴に浮かび上がったという伝説がある。また、松江は小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が一時的に暮らした町、松江藩士の娘セツを伴侶とし、セツ夫人の語る怪談話が名作「怪談」になった。また、小泉八雲は明治の日本と日本人の心を全世界に紹介した。宍道湖大橋を渡り、車窓から松江城を眺め、中海の大根島へ向かった。一時、中海は干拓工事が予定されていた。しかし、環境破壊や生態系への影響が大きいことから、工事は中断された。

 大根島はぼたんと高麗人参の里、周囲が約12km、中海の海底火山層の爆発で出来た島、ミネラルなどの豊富な栄養素を含んだ火山灰が降り積もった。大根島の人々はその土壌を生かして、高麗人参と牡丹を栽培した。出雲風土記によると、この島は、大きな鷲がタコをくわえて飛んできたことから、タコ島と呼ばれていたようだ。江戸時代になり、高麗人参が極秘に栽培され始めた。高麗人参は貴重な産物、万能薬として大変に高価、種を植えて収穫までに6〜7年はかかる。土壌の栄養分を回復するまでに、収穫後の畑は15年〜20年は使えない。この高麗人参が島の産物であることを隠すために大根と偽り出荷していた。このために、この島は大根島と呼ぶようになったという。

 大根島にある「由志園」の日本庭園を見学した。約4万uの広さ、手入れの行き届いた松の緑と回遊式の池泉、山水の庭と敷石や滝、開花時期を調整した牡丹の館、売店では高麗人参のエキスや人参酒などを販売していた。牡丹は島根県の県の花、高麗人参を収穫した土地で栽培しているという。ここで人参酒を買い求めた。

 再び同じ道を戻り、中海大橋を経て、安来市の足立美術館へ向かう。ここの日本庭園は世界が認めた日本一の庭園、窓越しの庭は枯山水を中心に雄大な景色が広がっていた。苔庭や緑と白砂との対比、白砂青松の庭、枯山水の庭、池庭、遠くの山を借景とした見事な調和、生の額絵や生の掛軸など、館内に展示されている名画や美術品と伴に感動を与えてくれた。茶室「寿楽庵」では純金製の茶釜で沸かした湯で抹茶と菓子を賞味した。茶碗は一人ひとり異なる名品であった。また、ここにも一幅の絵画、白砂青松の生の掛軸が日本庭園を映し出していた。ここを出て昼食、店の前には安来節のひょっとこの大きな面が飾ってあった。

6.鳥取砂丘から浦富海岸の山陰松島
 島根県から鳥取県へ、中国山地の最高峰の大山が見えてきた。その山並みは豊満な女神の寝姿に見える。風力発電所の巨大な風車も見てきた。鳥取砂丘の手前に白兎海岸があった。因幡の白兎の話は出雲神話の一つ、古事記によると、白兎は素兎が正しく裸の兎の意、洪水で淤岐島(おきのしま)に流され、因幡国に渡るため、兎が海の上に並んだ鰐鮫(わに:古事記では和邇、鮫という説が有力)の背を欺いて渡った。しかし、欺いたことを漏らし、最後に鰐鮫に皮を剥ぎ取られる。八十神(やそがみ)の教えに従って潮に浴したためにかえって痛み、苦しんでいるのを大国主が救うという話である。

 大国主には多くの兄弟(八十神)がいた。八十神が稲羽(因幡)のヤガミヒメを妻にしようと出掛けた。八十神は大国主に荷物を全部持たせた。気多の岬に着くと、丸裸の兎が伏せっていた。八十神は「体を治すには、海水を浴び、高い山の上で風に当たると良い」と教えた。兎はその通りにすると、海水が乾くにつれて皮がひび割れ、さらに傷がひどくなった。兎が痛みに苦しんでいると、そこに遅れて大国主がやって来た。大国主は何があったのかと問うと、兎は答えた。兎は淤岐島から、こちらに渡ろうと思ったが渡る手段がない。海の鰐鮫に「お前と私とでどちらの仲間が多いか競争しよう。できるだけ仲間を集めて気多の岬まで一列に並び、その上を私が走りながら数えましょう」と言った。鰐鮫は言われた通りに一列に並び、兎がその上を跳び、地面に下りようとする時に「お前たちは騙されたのだよ」と言った。そしたら鰐鮫は兎を捕えて皮を剥いでしまった。先程通りかかった八十神に言われた通りにしたら、すっかり傷だらけになってしまった。大国主は兎に対して、河口へ行って真水で体を洗い、そこに生えている蒲の花粉(蒲の花粉は傷薬に良く使われていた)を取ってその上で寝ると良いと教えた。兎は大国主に教えられた通りにすると、体は元通りに直った。この兎は、後に兎神と呼ばれるようになった。兎は大国主に「ヤガミヒメは八十神ではなくあなたを選ぶでしょう」と言った。淤岐嶋は、隠岐島とする説があるが、現在は白兎海岸の沖約80mの所に、古事記の記述通りの淤岐島がある。この話から、大国主大神は医療の神ともされている。また、「海水で洗え」という八十神の教えは一見悪意に満ちたものに思われるが、この行為は「塩水による消毒」を示唆している。八十神と大国主の教えを併せれば、「消毒後に創傷の保護をする」という医療の基礎を説いているとも考えられる。

 鳥取砂丘に着くと、土産店で長靴に履き替えてから砂丘に行きなさいという。日本海に沿って広がる鳥取砂丘は、きめ細かな砂山が東西約16kmに渡って続き、砂漠のような風景である。放置すると、毎年拡大する傾向にあるという。砂山を背景に記念写真、駱駝が砂丘を歩いていた。この砂丘、中国山地の風化花崗岩が砂となり、千代川を下り、日本海の潮と偏西風の働きで浜に押し上げられて形づくられた。現在の砂山になるまで十万年以上の歳月を要した。その特徴は起伏が大きく、最大で高低差が92mにもなるという。風が描く風紋は自然の芸術、通称「馬の背」と呼ばれる巨大な砂丘に登り、日本海を見渡した。持参したデシカメのメモリーが少なくなり、風景写真を少な目にしていたが、ここの土産店にデシカメ用メモリーが置いてあった。早速、買い求めた。一般に、土産店にフイルムは置いてあるが、デシカメ用メモリーを販売している店はほとんどない。これからの時代は土産店でもデシカメ用メモリーを販売すべきである。

 鳥取砂丘から車で約10分、浦富海岸の遊覧船乗り場に着いた。ここからの島巡り、オプションを申し込んでいた。港を出ると、遠くには鳥取砂丘が見えていた。そして、その海岸線は一転し、変化に富んだリアス式海岸になっていた。山陰の松島、断崖絶壁、洞門と洞窟、所々に石灰質の砂浜、黒松や野生の草木、美しい海岸の絶景を海から眺望した。海水は透明度が高く、透き通るようであった。文豪の島崎藤村も絶賛し「松島は松島、浦富は浦富」という名言を残した。日本三景の1つ仙台の松島は女性的な美しさがある。ここ浦富海岸には、ダイナミックで男性的な美しさがあり、女神が住むという鳥取の海があった。

 今夜の宿、城崎温泉に向かう途中、観光コースを一部変更して、余部鉄橋を見せて頂けるという。余部鉄橋はJR西日本・山陰本線の鎧駅と餘部駅の間にある鉄橋、高さ41.45m、長さ310.59m、11基の橋脚、23連の鉄桁を持つトレッスル橋である。トレッスル橋とは橋脚部に鉄骨によるトラス構造を持った橋梁のこと、トラスとは細長い部材を両端で三角形に繋いだ構造、理想的なトラスは荷重や温度変化に伴う部材のたわみや伸縮がこの接続点部分に集約される。実際の橋では大部分の接続がリベットやボルトなどで固定的に接続され、変動が大きい部分にのみピンが用いられて可動となっている。余部鉄橋は、1909年(明治42年)12月に着工、1912年(明治45年)3月1日に開通した。当時の総工費331,535円であった。朝・昼・夕と光の具合でその姿を変え、天候や四季(特に雪)によっても大きく変貌する。夜行列車が通過する様子はさながら銀河鉄道、轟々と響き渡る通過音には趣さえ感じるという。その余部鉄橋が解体されることになった。解体作業の準備が進められており、今回の観光が最後の見納め、貴重な映像が撮影できた。

7.城崎温泉にて外湯巡り
 城崎温泉は兵庫県、歴史と文学といで湯の町、7つある外湯は日本一綺麗な温泉場であるという。円山川へ流れる支流の大谿川を挟んで温泉街がある。最終日の宿泊先は「ホテルブルーきのさき」、温泉街から少し離れていた。部屋の窓を開けると眼下には円山川が広がっていた。ここの宿泊者は外湯を利用するのが一般的、外湯には「地蔵湯」「さとの湯」「柳湯」「一の湯」「御所の湯」「鴻の湯」「まんだら湯」がある。この日は「一の湯」と「鴻の湯」がお休み、ホテルからは30分毎に、定時巡回のボンネット型クラシックバスの送り迎えがある。夕食後にホテルのフロントで入湯券と定時巡回バスの時刻表を頂き、外湯巡りに出掛けた。巡回バスはホテル発22:00が最終、すべての外湯を回ることが出来ない。最初に城崎温泉駅前にある「さとの湯」に入った。さすがに手入れが行き届き、建物も内部も広くて綺麗な温泉場であった。次の定時巡回バスで「一の湯」まで乗り、少しばかり歩いて「御所の湯」に入った。外観や内部の雰囲気がそれぞれ異なっていた。

 「さとの湯」は駅舎温泉、ふれあいの湯として、露天風呂とサウナやジェットバスなどがあった。「御所の湯」は、美人の湯として、後堀河天皇の姉、安嘉門院が入湯されたという。「地蔵湯」は、衆生救いの湯とされ、泉源から地蔵尊が出たことから名付けられた。「柳湯」は、子授けの湯とされ、中国から移植した柳の木の下から湧き出た。「一の湯」は、開運と招福の湯とされ、江戸時代の医学者が天下一の湯と推奨した。「鴻の湯」は、幸せを招く湯として、コウノトリが足の傷を癒したという。「まんだら湯」は、一生一願の湯と云われ、道智上人が曼陀羅千日祈願で湧き出た湯である。どうもすべての外湯の源泉は同じ、ナトリウムやカルシウムの塩化物、高温泉で神経痛や筋肉痛、慢性消化器病や痔病、疲労回復に効果があるという。

 翌日の早朝、ホテルから大谿橋を渡り、JR山陰本線の踏切で城崎温泉駅を眺め、「地蔵湯」まで歩いてみた。大谿川と円山川の間には木製の水門があった。ホテルに戻ると、円山川の対岸の山並みから朝日が昇り始めた。

8.出石散策と天橋立の股覗き
 最終日は但馬の小京都の出石散策から、出石は城下町である。歴史的に出石は古事記や日本書紀にも登場する古い町、但馬開発の祖神は天日槍が拓いたと伝えられている。室町時代には山名氏の居城があった。応仁の乱は、将軍家の跡目争いに、山名氏が介入したことから始まった。出石藩主の祖、仙石権兵衛秀久は、豊臣秀吉の家来、石川五右衛門を捕えたという豪傑であった。幕末の桂小五郎は一時的に出石に潜伏していた。

 出石藩の家老屋敷を通り、土産屋で出石の皿ソバを試食した。家老屋敷は正面から見ると平屋造り、裏に回ると二階建てであった。また、この屋敷は江戸時代の三大お家騒動のひとつ、仙石事件の中心人物(改革派の仙石左京)が住んでいた。事件の発端は改革派の家老と保守派の家老の勢力争いであった。お家乗っ取りの疑いで幕府の裁きを受け、出石藩は5万8千石から3万石へ減封された。

 出石の町並みはほぼ碁盤の目、出石城の旧三の丸大手門脇に明治初期に造られたという辰鼓楼が時を刻み続けていた。沢庵寺と呼ばれる宗鏡寺まで歩いた。途中に赤い土壁の酒蔵があった。沢庵寺は漬物の沢庵漬けを広めた沢庵和尚が再興し、寺内に沢庵和尚にまつわる品が多くある。しかし、蜂の巣があり、入口を覗いて戻ってきた。出石の町の街道口には寺が多く、高櫓を設け、塀に狭間を穿った寺院が見られる。これはいざ戦いになった時に砦の役割をする。

 天橋立は、日本三景(丹後の天橋立、陸奥の松島、安芸の宮島)の1つ、長さ約3.3kmの砂州(大橋立と小橋立)に約7千本の松林が続き、それを展望する北側の傘松公園が含まれる。砂州は宮津湾を二分し、内海は阿蘇海と呼ばれる。古代からの名所で、百人一首の小式部内侍の歌「大江山いく野の道の遠ければ まだふみもみず天の橋立」にも見られる。丹後国風土記によれば、イザナギが天に昇るためのはしごが、イザナギが寝ている間に倒れて天橋立になったとの記述がある。観光バスを降り、日本三文殊のひとつ智恩寺を参拝した。近くの海辺には智恵の輪の輪灯籠があった。

 天橋立の松が美しい。飛龍観展望で股のぞきをするために、リフト乗り場へ向かった。飛龍観展望は天橋立を南側から眺めることになる。その眺めは龍が天に登る姿に見えるという。本来は北側の傘松公園からの眺望、逆さに見ると天に架かる橋のように見えることから、斜め一文字とも呼ばれ、股のぞきの名称の由来があるようだ。他に東からの眺めを雪舟観、西からの眺めを一字観と呼ばれている。天候には恵まれ、飛龍観展望を満喫したが、時間が無く、急いでリフトで下山、廻旋橋と大天橋を渡り、天橋立の白砂を踏んでみた。股のぞきで見た白砂は龍の足のようであった。昼食に土産店に戻る時、廻旋橋が回転し、船を通していた。

 近年、天橋立は、侵食により縮小・消滅の危機にある。これは、戦後、河川にダムなどが作られ、山地から海への土砂供給量が減少し、天橋立における土砂の堆積と侵食のバランスが崩れたためである。これ以上の侵食を防ぐため、行政では砂州上にそれと直交して小型の堆砂堤を多数設置し、流出する土砂をそこで食い止めようとしている。

9.世界遺産の姫路城を見学
 高速道路の舞鶴若狭自動車道から山陰自動車道を経由して姫路に向かった。目的地は姫路城、兵庫県姫路市(播磨国飾東郡姫路)にある。この城は国の特別史跡、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録され、白漆喰の城壁の美しさから白鷺城(はくろじょう)とも呼ばれる。日本の四大国宝城(姫路城、松本城、彦根城、犬山城)の一つ、築城以来の姿が残されている。

 歴史的に、姫路城の築城は南北朝時代、1333年(元弘3年)赤松則村(円心)、護良親王の命により挙兵、京に兵をすすめる途中、姫山に砦(とりで)を築いた。1346年(正平元年)赤松貞範が姫山に本格的な城を築く。1441年(嘉吉元年)嘉吉の乱で赤松満祐父子が六代将軍足利義教を謀殺して自害、山名持豊が姫路城を治める。1467年(応仁元年)応仁の乱が勃発、赤松政則が姫路城を陥落し、領国を回復ざせて、本丸、鶴見丸を築く。後に一族の小寺氏へ、その重臣の黒田氏が城をあずかる。1580年(天正8年)羽柴秀吉の中国攻略のため、黒田孝高、城を秀吉に献上、この時、秀吉は3層の天守閣を築き、翌年完成する。1585年(天正13年)木下家定が姫路城主となり16年間治める。1600年(慶長5年)関が原の戦の後、池田輝政が姫路城主になる。1601年(慶長6年)池田輝政、城の大改築を始め、9年後に完成。1617年(元和3年)池田光政、鳥取城へ移り、本多忠政が姫路城主に、三の丸、西の丸、そのほかを増築する。1639年(寛永16年)松平忠明が姫路城主となる。1649年(慶安2年)榊原忠次、姫路城主に、その後、松平、本多、榊原各氏が城主になり、1749年(寛延2年)酒井忠恭、前橋から姫路へ、明治維新まで酒井氏が城を治める。1869年(明治2年)酒井忠邦、版籍を奉還し、姫路城は国有に、1931年(昭和6年)姫路城天守閣、国宝に指定される。1951年(昭和26年)新国宝に指定され、1956年(昭和31年)天守閣、国費により8ケ年計画で解体修理着工(昭和の大修理)、1964年(昭和39年)天守閣群の全工事が完了。1993年(平成5年)ユネスコの世界文化遺産に登録される。

 姫路城に関する幾つかの伝説がある。姫路の名は播磨国風土記「日女道丘」からきている。神代の昔、大汝命(おおなむちのみこと)は、その子火明命(ほあかりのみこと)があまりに乱暴者なので、海へ出た際、捨ててしまおうと島に置き去りにして船出した。ところが、船が出てゆくのに気づいた火明命は大変怒り、風波を起こして船を難破させてしまった。その時、船や積み荷などが流れ着いた場所に「船丘」「犬丘」「筥(はこ)丘」「琴丘」など14の丘名が付けられた。その一つ、蚕子(ひめこ)の流れ着いたところが「日女道丘(ひめじおか)」、現在姫路城のある姫山であるとされている。蚕子は古語で「ひめじ」といった。地名「姫路」の呼び名は、江戸時代初期、池田輝政が姫路城を築き、城下町を整備した当時の文献に見られる。

 池田輝政による姫路城築城の時、完成した天守から一人の男が身を投げて自殺した。その男は、城普請にあたった大工の棟梁・桜井源兵衛、輝政に命じられ、9年間、寝る間も惜しんで仕事に打ち込み、やっと姫路城が完成した。しかし、丹精込めて造り上げた天守閣が巽(東南)の方向に少し傾いているように思えてならない。そこで妻を伴って天守に登ると、「お城は立派ですが、惜しいことに少し傾いていますね」と指摘される。「女の目に分かるとすれば、自分が計った寸法が狂っていた」とがくぜんとし、まもなくノミをくわえて飛び下りた。実際に城が東南に傾いていたのは解体修理で確かめられている。その本当の理由は、東と西の石垣が沈んだためであった。

 姫路城主であった榊原政岑は信仰心に厚く心豊かな城主、ゆかた祭を始めたことでも知られる。しかし、日光代参の希望が幕府に聞き入れられなかったことに不満を持ち、酒色におぼれ、吉原通いを始めた。そして「色婦録」にも艶名をうたわれた名妓高尾を落籍、姫路に連れ帰って、城内西屋敷に住まわせた。これらの行状が、当時倹約を推し進めていた幕府に知れ、政岑は糾弾される。やがて政岑は20代の若さで隠居を命じられ、榊原家は越後高田へ転封、高尾も政岑に従って、共に越後高田へと下った。

 城内の上山里丸と呼ばれる広場に「お菊井戸」があった。有名な「播州皿屋敷」に出てくる井戸だといわれている。永正年間の頃、城主小寺則職の執権青山鉄山が城の乗っ取りを計画、これに気づいた忠臣の衣笠元信は、愛妾のお菊を青山家に女中として送り込み、陰謀が暴かれる。しかし、努力もむなしく、青山一家のクーデターは成功、それでもお菊は青山家に残り、龍野に逃れた元信に情報を送っていた。ところが、町坪弾四郎に気づかれ、それを盾に結婚を迫られる。お菊はどうしても首を縦に振らない。腹を立てた弾四郎は家宝の皿10枚のうち1枚を隠し、お菊の不始末として責め殺されて井戸に投げ込まれる。それから毎夜、「1枚、2枚・・」と皿を数えるお菊の悲しげな声が井戸から聞こえるようになった。その後、元信ら忠臣によって鉄山一味は滅ぼされ、お菊は「於菊大明神」として十二所神社の境内にあるお菊神社に祭られている。お菊は真壁家の娘、その墓は平塚にもある。

 木下家定が城主であった時代、姫路に立ち寄った宮本武蔵が名前を隠して足軽奉公をしていた。その頃、城に妖怪が出るといううわさが広まっていた。武蔵は平気で夜の出番を勤めていた。このことが家老の耳に入り、名高い武芸者であることが知られ、木下家の客分にとりたてられた。そして武蔵に妖怪退治の命が下りた。武蔵はある夜、灯ひとつを持って天守閣に登り、3階の階段にさしかかった。この時、すさまじい炎が吹き降り、地震のような音と振動、武蔵が腰の太刀に手をかけると、周囲はまた元の静けさに戻った。4階でもまた同じことがあった。武蔵は、構わず天守を登り、明け方まで番をした。ところが、美しい姫が現れ「われこそは当城の守護神、刑部明神なり。その方が今宵参りしたので、妖怪は恐れて退散した。よって褒美にこの宝剣を取らす。」といって姿を消した。武蔵の前に白木の箱に入った郷義弘の名刀が残されていた。

 羽柴秀吉が姫山に三層の天守を築いていた頃、城の石垣の石がなかなか集まらずに苦労しているという話が広まっていた。城下で焼餅を売っていた貧しい老婆がそれを聞いた。「せめてこれでもお役に立てば」と古くなった石臼を差し出した。これを知った秀吉は大変喜び、石臼を現在の乾小天守北側の石垣に使った。この話がたちまち評判となり、人々が競って石を寄進したので、工事が順調に進んだといわれている。

 姫路城の濠は本丸の麓を基点にして、左回りに大きな螺旋を描いて、内濠、中濠、外濠と三重に囲まれていた。このため、現在でも、大手門への内濠に架かる橋へはかなりの大回りをしなければならない。姫路城は白鷺城とも呼ばれ、美しい白壁の天守群は火縄銃の射撃でも延焼しないという。戦争のための城は険しい山に築かれていたが、姫路城は戦う仕組みと藩の政治を行う機能を考慮した平山城である。入城料を支払い菱の門から、天守閣へ直行するための表道、いの門、ろの門、はの門を潜る。さらに、階段を登り、にの門からほの門へ、渡櫓の腰曲輪は塩や米を蓄えて籠城に備えるための多門長屋、中には井戸もある。本丸から大天守に入る。外観は5層だが、内部は地下1階地上6階の造りになっている。武具掛けや鎧兜、歴代城主の遺品なども展示されていた。この天守閣を支える2本の大柱、東大柱と西大柱、地階から6階の床下まで支えているという。天守閣の最上階から姫路の街並みが一望できた。帰りはお菊井戸の側を抜け、菱の門へ出た。国宝の姫路城を満喫して帰途に着いた。

10.山陽山陰旅行の感想
 今回の山陽山陰旅行は、日本の歴史と文化の原点を駆け足で回ってきたようだ。天候にも恵まれ、日本三景の内、安芸の宮島と丹後の天橋立を見た。神代の昔、伝説の国、出雲大社を参拝できた。明治維新の原動力は萩の小さな隣組の武家屋敷にあった。錦帯橋や姫路城など、日本の建築技術の粋を集めた建造物を見ることが出来た。津和野や出石では武家屋敷の面影を体験した。鳥取砂丘や浦富海岸では、自然の素晴らしさを味わった。萩温泉や玉造温泉や城崎温泉では日本の温泉を満喫した。そして、現地を見て感ずることの大切さを痛感した。最後にモニターツアーのアンケートを提出した。
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(文責:yut)

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