私の人生物語その19
国内旅行記(立山黒部アルペンルートと黒部峡谷トロッコ列車)

4. 国内旅行記(立山黒部アルペンルートと黒部峡谷トロッコ列車)

国内旅行記(立山黒部アルペンルートと黒部峡谷トロッコ列車)

 2002年8月9日〜10日の2日間、1泊2日の日程で、立山黒部アルペンルートと黒部峡谷トロッコ列車の旅行に参加した。読売旅行厚木営業所の40周年特別企画によるものであった。平塚からの参加者は私達夫婦2人のみ、9日の朝7時に平塚駅北口のNTTビル前を出発、本厚木駅で17名が乗り込み、総勢19名が28名乗りの中型観光バス(大東観光)で出発した。添乗員は比較的若いひ女性で「渉里さん」という。相模湖ICから中央道に乗り、長野道の豊科ICまで約4時間半、大町温泉街を経て扇沢に到着したのが12時半頃であった。途中のバス内で用意したおにぎりで昼食を済ませた。扇沢から立山駅までの立山黒部アルペンルートは幾つもの多彩な乗り物を乗り継ぎ雲上の楽園へ、この間、観光バスは立山駅へ迂回する。最初の扇沢から黒部ダムまで、関電トロリーバス6.1kmのトンネルを16分で走る電気トロリーバスである。黒部ダムは標高1470mにある日本最大のアーチ式ドーム越流型ダムである。毎秒10ton以上の水量で放出され、その水煙は迫力満点である。

 黒部ダムの建設は、戦後の日本経済復興が本格化する中で、関西地方の深刻な電力不足による大きな社会問題から端を発して行われた。当時の火力発電では変動する電力需要にすばやい電力の出力調整が出来ずに、それを補う大規模な水力発電所の建設が求められたのであった。秘境黒部峡谷は、ここを流れる黒部川が豊かな水量と大きな落差を持ち、水力発電の適地とされながら、その峻険な地形と冬の豪雪など、人を拒絶する厳しい自然条件がダム建設を阻んでいた。昭和31年にこの「世紀の大事業」に挑み、黒部ダム/黒部川第四発電所(通称:くろよんダム)の建設プロジェクトに関西電力は社運を賭け、あらゆる技術と知識と経験を結集し、自然環境保護への配慮を考え、7年の歳月と当時の工費513億円と延べ1000万人の人手により、昭和38年6月に完成した。黒部ダム建設において、その苦闘の様子は、小説や映画(石原裕次郎主演)黒部の太陽)になり、大町トンネル(関電トンネル)の破砕帯による大量の土砂と水の流出等、延べ171名の殉職者の上に築かれた幾多のドキュメントがあった。

 黒部ダムでは、ダム展望台に上り、ダムの全貌とその雄大な壮観を確認した。ダムの上を歩き、黒部湖駅から黒部平まで地下ケーブルカーで昇った。黒部平は標高1828m、晴天の中で黒部湖を見下ろした。さらに、立山ロープウェイにて標高2316mの大観峰へ、立山のパノラマを楽しみ、鹿島槍ヶ岳や針ノ木岳等の北アルプスの山々が目前に広がっていた。大観峰から室堂へは立山トンネルトロリーバス、途中標高3015mの立山山頂(雄山)の真下を通り、室堂ターミナルは標高2450m、残念ながら室堂周辺はガスで視界無し、一時的にガスが切れるので、みくりが池まで歩いてみた。展望台前に全国名水百選の1つ立山玉殿の湧水があり、ミネラルが豊富に含むおいしい水を飲むことができた。室堂から美女平までは高原バス、春先の4〜5月頃ならば雪の大谷と呼ばれる十数mもある雪の壁の中をバスが走る所、途中の弥陀ケ原は広大な湿原高原地帯で様々な高山植物の宝庫である。

 立山には幾つかの昔話が伝わっている。立山開山に一生を捧げたという越中国司の息子佐伯有頼の少年時代、父の白鷹を借りて鷹狩りをし、大熊に出会って白鷹を逃したが、熊の胸に矢を放ちその血痕を追いかけて、室堂の岩屋で胸に矢が突き立った阿弥陀如来に出会った話がある。この途中で「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」の称名念仏を唱えている声が聞こえ、これが滝の音だったというので称名滝という名が付いたという滝が見えた。美女平は女人禁制の立山に登った女の人が一息付いた場所であり、尼さんが社殿を建てる材木を跨ぎ材木が石になったという材木石、男勝りの女の人が神罰に触れて1本の杉の木になったという美女杉などの昔話がある。

 美女平から立山駅へは斜度29度の立山ケーブルカー、立山駅で観光バスが迎えに来ていた。立山駅から北陸道の立山ICを経て、黒部ICで降り、宇奈月温泉へ、宿はホテル桃源であった。宿の露天風呂から想影橋が見える。温泉は無色透明、黒部川約7km上流にある黒薙が源泉とのこと、源泉の温度91℃、3000ton/日の豊富な湯量、リュウマチや神経痛に効果があるという。24時間入浴可とのこと、、翌朝の2時頃に再度入浴し、朝起きて入浴と3度も風呂に入った。

 翌日、宇奈月駅から黒部峡谷を走るトロッコ電車へ乗車、途中駅の鐘釣まで約1時間、黒部川の清流を見ながらの峡谷めぐりであった。黒部峡谷鉄道は、大正12年(1923年)に宇奈月と猫又間の軌道敷設工事に着手して、発電所建設工事を可能にした。昭和2年(1927年)に柳河原発電所が運転を開始し、さらに黒部川の上流へ発電所建設の可能性に挑んでいった。軌道が欅平まで開通したのは昭和12年(1937年)であった。この間、昭和11年(1936年)に黒部川第二発電所が運転を開始し、同年9月には黒部川第三発電所の建設に着手した。しかし、欅平から仙人谷ダムまでの約6kmはさらに急勾配と両岸の絶壁が立ちはだかり、軌道の延長を断念し、山中にトンネルと竪抗を掘って進んだ。この時、トンネルの途中に岩盤温度160℃の高熱地帯があり、難工事を経て、多くの困難を克服し、黒部川第三発電所は昭和15年(1940年)に運転を開始したのであった。そして、この電源開発計画は、黒部ダム建設の世紀の大工事による黒部川第四発電所(通称:くろよんダム)の建設へと続いたのである。したがって、この黒部軌道は電源開発の建設資材や作業員輸送に重点が置かれ、当初便乗するお客様は「生命の保障をしません」との裏書きキップを購入して乗車した時期もあった。その後、昭和28年(1953年)に地方鉄道法の免許を受け、昭和46年(1971年)に黒部峡谷鉄道を発足させて今日に至っている。

 トロッコ電車は朱塗りの鉄橋「新山彦橋」を渡り、幾つかのトンネルを抜け、西洋の城を模倣した新柳河原発電所のある柳橋へ、途中に天然の岩が仏に似ているという仏石の姿を見て、宇奈月温泉の源泉である黒薙へ着いた。黒薙川に架けられた後曳橋は、狭く深い峡谷に入山者が谷の縁に立つと、あまりの深さに後ろへ引き下がったという。出平は昭和60年(1985年)に完成した出し平ダムがあり、対岸に聳える岩山は出六峰と呼ばれる景勝地である。猫又には黒部川第二発電所があり、その下流の岸壁は猫に追いかけられたネズミが登れずに引き返したとされるネズミ返しの岸壁がある。この岸壁はネズミを追いかけた猫も又引き返したとされ、猫又と呼ばれるようになった。下車駅の鐘釣にはお寺の鐘の形をした鐘釣山があり、黒部川の川原は天然の温泉が湧出していた。今回はここで引き返したが、終点の欅平には猿飛峡や人喰岩等があるという。宇奈月駅へ戻り、観光バスに乗り、黒部アルペン村で昼食、昼食は前日に注文していた富山名物の鱒すし、土産物を求めながら、越中おわらの胡弓の音を聞いた。帰路は黒部ICで北陸道に乗り、上信越道から長野道を経由し、中央道の相模湖ICで降りた。

(文責:yut)

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