国内旅行記(九州縦断旅行:スペシャル九州4日間)
−湯布院・高千穂峡・日南海岸・桜島・知覧−

6. 国内旅行記(九州縦断旅行:−湯布院・高千穂峡・日南海岸・桜島・知覧−)

国内旅行記(九州縦断旅行:スペシャル九州4日間)
−湯布院・高千穂峡・日南海岸・桜島・知覧−

 今年の家族旅行は九州縦断、2003年6月8日〜11日の3泊4日の日程で、福岡空港から、湯布院・阿蘇・高千穂峡・宮崎・日南海岸・桜島・指宿・知覧を経て、鹿児島空港まで、日本近畿ツーリスト主催の旅行ツアーに参加した。我が家の家族全員と息子の家族を含め総勢7人での大旅行であった。朝6時過ぎ、自宅を自家用車で息子家族の住む辻堂の社宅へ、そこで息子のワゴン車へ乗り換え、湾岸道路を経由して羽田空港へ向かった。ワゴン車を駐車場へ預け、空港ロビーの喫茶店でコーヒーを飲み、時間調整をする。孫の二人は初めての飛行機に大喜び、全日空247便9:40羽田発に乗り福岡へ、飛行機が離陸する瞬間、外を見ていた孫息子はばあちゃんに抱かれながら固まってしまった。途中左手に富士山の山頂が顔を出していた。近畿ツーリストの添乗員は安彦さん、西鉄の観光バスに乗り、湯布院へ、バスガイドは森若さん。湯布院は九州の清里とのこと、むしろ雰囲気は長野の小布施に似ていた。散策すると、美術館や資料館が多く、2つの山頂を持つ由布岳、近くに金鱗湖があり、自然に恵まれた環境にある。くじゅう花公園ではラベンタダーが咲き始め、黄色やピンクや白や紫の花が咲き乱れていた。バスは阿蘇の外輪山を巡り、最初の宿泊地内牧温泉の阿蘇ホテルに到着した。ホテルが用意した孫二人のための子供用ユカタに感激し、早速温泉へ直行した。

 2日目は阿蘇から神話の国である宮崎へ、阿蘇パノラマラインでは右手に神様が米を積み上げて造ったという伝説の山米塚が見えた。頂上のくぼみは神様が貧しい人々に米を恵んだ名残りだという。草千里で途中休憩、阿蘇の火口跡にできたという広大な草原に牛や馬が放牧されていた。阿蘇山ロープウェイは点検のため停止しており、マイクロバスで山頂へ、阿蘇は世界最大級の複式火山、そのカルデラの中に中岳、高岳、根子岳、杵島岳、烏帽子岳の5つの山があり、これらを総称して阿蘇山と呼ばれる。現在、活動しているのは中岳のみ、その火口は深く、噴煙を上げていた。

 次に向かったのは名水の里白水村の白川水源、阿蘇の南郷谷一帯は名水の故郷、毎分60トンもの湧水量を誇り、水温は1年を通じて14℃と一定である。ここでペットボトルに水を汲み、高千穂峡へ向かった。間もなく天候が崩れ、九州は梅雨入り、昼食は神話の郷・千穂の家・神楽宿で蘇食、蘇食の蘇は蘇えるの蘇、薬膳の意味を含む、一種の精進料理であった。昼食後に雨の高千穂峡を散策、阿蘇山の溶岩が数億年かけて侵食され、五ケ瀬川上流に、深いV字型の渓谷、奇岩や柱状節理の断崖、真名井の滝など、絶景が新緑と溶け込んでいた。

 天岩戸神社は天照大神の古社、神話の中で天照大神が身を隠した天岩戸(洞窟)が御神体という。天岩戸は岩戸川対岸にあり、立ち入り禁止、撮影禁止の神域とされていた。神社内には隠れた天照大神を誘い出すために神々が集まって相談したとされる天安川原の場所があり、神秘的な雰囲気があった。観光バスは延岡から日向へ、途中で海産物店に立ち寄り、宮崎観光ホテルで2泊目となる。ホテル前は大淀川、外は雨、外出を取り止め、夕食はホテル内で家族バイキングに変更した。孫2人を含め7人が飲み放題・食べ放題で2万円、楽しい夜の一刻を過ごした。

 ホテル内温泉の朝風呂に入り、3日目は宮崎から鹿児島へのコースとなる。青島は海幸彦と山幸彦の神話の舞台となった場所、湘南の江ノ島を小さくした感じ、彦火火出見(山幸彦)命、豊玉姫(山幸彦の妻)命、塩箇大神を祭神にした青島神社があった。途中には鬼の洗濯板と呼ばれる波状岩が姿を見せていた。次の鵜戸神宮に着く頃、孫の二人はバスの中で熟睡、外は雨、神武天皇の父神を祀っているという鵜戸神宮には年寄2人と息子の3人で参拝した。断崖絶壁の洞窟の中に神社があり、安産や縁結び、夫婦和合の神とされ、断崖にある亀岩のくぼみに運玉が入ると願い事がかなうという。3人で挑戦したが惜しくもわすがに外れてしまった。

 早めの昼食は志布志の食堂で頂き、午後から雨が止み、バスガイドによる江戸時代の薩摩藩の歴史談話を聞きながら、観光バスは鹿児島の桜島を目指した。薩摩の国は日本の他の地方とかなり異なるという。歴史的には日本の中央政権に5回以上の大規模戦争を挑み、独立王国薩摩の外交感覚を持っていたようだ。日本書紀には中央から討伐軍が派遣されとの記述がある。奈良時代には隼人が国司の陽胡を殺し、太宰府でも手の施しようがなく、中央から中納言大友旅人を総司令官とする政府軍が派遣された。豊臣秀吉の島津征伐があり、関ヶ原で負けた島津氏が決戦を覚悟で伏見にいる家康と折衝した。幕末から維新にかけての倒幕と新政府樹立は薩摩藩なくしてはありえなかった。そして、西郷隆盛の西南戦争があった。島津氏の先祖は源頼朝が常盤御前の生ませた隠し子だという。薩摩隼人の祖先は奈良時代の日本人と種族が異なっていたようだ。隼人の統治に中国からの帰化人を官吏にして派遣し、島津氏の祖先は中国の劉漢霊帝の血が流れているという説もある。島津氏の祖島津忠久は惟宗忠久であり、惟宗氏の前身は渡来系の氏族秦氏である。秦氏は大和朝廷内で蘇我氏の財務長官、その昔朝鮮半島を経由し、秦の始皇帝の血が流れているともされる。薩摩藩は歴史的に集団的な組織力が強かったようだ。

 桜島展望所からの桜島は上半分に雲が懸り、噴煙は見えなかった。眼下の錦江湾は巨大なカルデラの跡、大隅半島と薩摩半島の海岸線を外輪山とする複式火山である。海水が入り込み、世界一のカルデラの座は阿蘇に譲ったとのことである。また、桜島は島だったが、大正3(1914)年の大爆発で大隅半島と陸続きになった。桜島港から鹿児島港へはフェリー、観光バスごと船に乗る様子に孫の二人は大喜び、フェリー内でかけうどんを求めるとさつま揚げが入っていた。途中で屋久杉民芸品店の工場を見学後、指宿温泉へ向かった。今回の旅行最後の宿泊は指宿ロイヤルホテル、早速公営の砂むし会館「砂楽」で名物砂すむ温泉を体験、海岸の砂と海水が暖かかった。

 最終日は薩摩半島最南端(九州の最南端は大隅半島の佐多岬)の長崎鼻からスタートした。長崎鼻はカルデラが陥没する時に残った場所だという。天候は快晴になり、海の色はゴバルトブルー、ここからの開聞岳は素晴らしい眺めであった。開聞岳は薩摩富士とも呼ばれ、戦時中に特攻隊が出撃すると、必ず開聞岳を旋回し、花を落としたたという。その花が南側に根付き、現在は特攻花と呼ばれている。観光バスは池田湖の湖畔で買物休憩、池田湖は九州最大のカルデラ湖である。そして、武家屋敷と特攻隊の基地があった知覧へ向かった。知覧は薩摩の小京都、江戸時代の薩摩藩は113の武家集落の外城を持ち、武士団を分散させ、二重鎖国によって藩内を統治していた。知覧はその外城の1つ、その武家屋敷群は島津家の分家である佐多氏16代(1651−1719年)〜18代(1732−1772年)の頃に造られたのではないかとされている。ほとんどの屋敷の庭園はイヌマキの生垣を中心にした枯山水式であった。石垣で屋敷が区切られ、入口には必ず屏風岩があり、石垣と生垣からなる景観が素晴らしかった。琉球庭園にも通じているという。特攻隊の基地があったという知覧特攻平和会館の近くで、早めの昼食を取り、かるかん工場と焼酎工場を試食・試飲を兼ねてそれぞれを見学した。帰路は鹿児島空港を全日空628便16:00発で羽田へ飛び立った。

(文責:yut)

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