<日本の科学技術と近代科学

日本の科学技術と近代科学

日本の科学技術
近代科学
キリスト教の歴史観

日本の科学技術と近代科学

 人間が自然の仕組みを科学的に認識することは、それぞれの国の文化や歴史の影響を受けたり、文化と歴史に影響を与えたりする。特に、西ヨーロッパにおける17世紀頃の科学革命による近代科学の誕生は、技術と密着して自然現象の謎を解き、新たな科学文明が形成され、技術を介して文化や歴史に影響を与え始めた。このことは、人間生活を楽にしたり医学の進歩で寿命を伸ばしたり人間社会にもたらしたプラス面も大きいが、炭酸ガスの増加による温室効果やオゾン層の破壊等のマイナス面も顕著になってきた。日本の科学技術は、幕末と明治維新の時期に西洋文明の積極的な導入がはかられ、効率的に進歩してきた。しかしながら、自然哲学といわれた科学が技術と一体化され、物質文明や技術革新が進むにつれて地球規模の問題が直面し始めて、その方向に正しい哲学を持ち広い知識と見識が必要な時代を迎えてきた。特に、日本の科学技術と近代科学の関係や西洋と東洋の違い等を踏まえて、科学技術の現在と未来のための歴史と哲学に強い興味を感じる。

 日本は明治時代に近代科学の導入に成功したが、その背景には江戸時代の独自学問の生長や明治政府のすぐれた政策があった。また、昔から中国文化を模倣してきた伝統や日本語化した教育の普及等の影響も大きく、産業革命後の整理された発展段階の科学技術であったことなどタイミング的にも非常に恵まれた近代化であった。江戸時代の日本の学問は、中国の学問からの離陸の時代にあり、儒学から古学へ、医学から古医方へ、算学から和算へ、そして本草学から博物学へと、日本文化の土台の上に独自の学問が開花していった。すなわち、近代日本の学問上で画期的な経験科学の誕生となった。ここで、代表的な人物は、古学の本居宣長、古医方の曲直瀬道三、和算の関孝和、そして「養生訓」や「大和本草」の著者としての貝原益軒等を上げることができる。特に、中国の明代の医者季時珍の「本草綱目」の影響が大きく、博物学から日本独自の自然誌をまとめ上げようとしたわが国の電気学の開祖平賀源内や自然を実際に観察する古医方の[親視実検]の考え方から西洋医学を翻訳した解体新書の杉田玄白等はある意味で科学的になっていった。

 幕末において、産業・交通・通信・軍事等に重要な科学技術の必要性から、1856年に洋学研究教育機関の後の開成所で蕃書調所、1860年に医学研究教育施設の医学所が創設された。これらは明治時代になると、近代科学や科学技術の受容体制としての教育機関で1877年に開設された東京大学になった。また、日本で最初の工学教育機関である工部大学校が1876年に発足し、1876年に札幌農学校が1877年に駒場農学校も開校した。明治政府は、優秀なお雇い外国人教師を各国から迎え入れ、各国の長所を取り入れた教育の実施と各国へ留学生を派遣した。さらに、日本は近代科学の導入においても、取捨選択しながら日本語化した教育を実施して、一般の人々に理解できるようにした。これらの成果は1890年頃からみられ、物理学の長岡半太郎や本多光太郎、医学の北里柴三郎や野口英世、数学や哲学では高木貞治と西田幾太郎などが輩出した。

 しかしながら、近代科学の基礎的な系統的な側面に関係する学問は日本ではあまり育たなかったようである。なぜなら、後のノーベル賞級の発明・発見が日本人に少ないことや、創造的分野で日本の世界的貢献が足りないこと等が指摘されるからである。ここで西欧の科学革命による近代科学の特徴と背景についての興味が湧いてくる。

 自然科学の歴史では西暦紀元前のギリシャ時代の遺産が大きい。ギリシャ時代の世界観や物質観は、仕組みの追求、体系化、論理性、数学的概念に特徴がみられる。アリストテレスの自然学、プトレマイオスの天動説、ピタゴラスの定理、ユーグリッド幾何学、アルキメデスの原理、デモクリトスの原子論、ガレノスの医学の体系化等がその代表であろう。そして、これらの考え方はイスラムの世界に入りアラビア科学に生まれ変わる。そこで、アラビア数字、紙と印刷術、火薬、羅針盤、時計等の新技術が加わる。これらの新技術はいづれもインドや中国が発祥地といわれている。近代科学の誕生はこのようなギリシャ時代からのアラビア科学がヨーロッパへ移入して起ったと考えられる。そして、力学や天文学等の発展が、自然界全体の見方と考え方の変革へ進み、科学は社会に有用であるとする近代的認識を生んだ。そこには戦争技術者としての高級職人の発想がある。すなわち、哲学者の発想である「Why」から、技術者の発想である「How」が重要視されたのである。ルネッサンス期のレオナルド・ダ・ビンチやガリレオ・ガリレイ等はこの高級職人の代表であった。近代科学のやり方は、計画的かつ理想的な多くの実験とその数学的取り扱いに特徴があり、事実や現象或いは標本や資料の徹底的な分析や分解が行なわれる。全体を部分に分け、バラバラにして調べ、部分の和が全体になるという発想のもとに、記述による枚挙が行なわれ、体系化して共通的特徴や原理法則が導かれる。大砲の弾道の研究から力学が発達し、小銃による弾傷の治療から外科が進歩した。羅針盤による航海術の確立は天文学や地理学の発展となり、時計技術の普及は機械論的宇宙観を形成した。技術者の発想による近代科学のやり方は、ケプラーもガリレオもニュートンも皆同じであり、リンネの植物学やメンデルの遺伝の法則にも適用された。特に物理学の発展においては、多くの量的資料のもとに力学が研究されて天文学に応用された。しかし、熱・音・磁気・電気等の分野ではさらに複雑で膨大な経験的・数学的資料の充実を待たなければならなかった。

 また、近代的進歩の概念はキリスト教の歴史観によるところが大きい。この基本的な考え方は、創造された世界全体が向かっていく目標を示したことにあり、遠い将来の出来事に美しい完成を望み、歴史は何ものかに向かって進むという進歩の観念である。キリスト教的な思想を東洋的な思想と比較してみよう。神と人と自然の関係は、東洋的思想では同じ土俵上にあり連続的なつながりを持っており、キリスト教的思想では神と人と自然が同じ土俵上で無く断絶序列の関係にある。また、東洋の神は全能で無く、キリスト教では全能の神になる。自然観についても、東洋では万物流転であり陰陽の変化を認め、キリスト教では不変の世界であり絶対的法則が存在する。このことは、自然界への関心に大きな違いをもたらしたのである。たとえば、天文学においては、西洋が規則性を重視したのに対して、東洋では天からの警告としての異常現象(黒点、彗星、新星等)が重要視されたのである。物理学においても、質量不変の法則やエネルギー不変の法則等、西洋では神の法則を自然界に見つけようとした。ダーウィンの進化論においても、万物流転の東洋では議論されなかったであろう。すなわち、西欧では自然を通して神を知るという自然神学が生まれ、聖書に基づく自然支配思想が強く働いた。

 結局、近代科学は18世紀の産業革命の進展に伴って科学と技術が相互に作用しあいながら試行錯誤を繰り返して発展した。また、近代科学は哲学的な追求を技術的に追求した結果として生まれた産物ともいえる。さらに、キリスト教の影響は全能の神が完全な自然を作り、最初の一撃により自然は自動機械のごとく動き出し、自然の法則は力学の原理と同様とするデカルトの思想が科学から神を排除していった。しかし、今日の自然科学や社会科学の発展は、ナチュラルヒストリー(博物学)の構造が背景にあり、あらゆる自然物を収集して記載・保存・整理し、体系化により原理原則を見つけ、多くの学問との密接な関係を保ちつつ、系統的に追求して進化するとした考え方が原動力になっているようである。博物学では江戸時代に幅広い記載が残されているが、体系化や比較分類学は現代においても日本に不足している。これは日本が明治時代に近代科学の導入に成功した時に欠けていた大切な基礎科学の追求の原点であると考えられる。

 日本の自然科学に対する認識は内的な文化に基づく江戸時代から外来の欧米文化を追従して迎合した明治時代にかけて変化した。この時、日本は江戸時代の自然観から何かを忘れ、近代科学の導入においても基本的な概念を取り残したようである。江戸時代の科学技術は、当時としての高度な知識や技術を持っていたが、からくり人形や錦絵などの遊びや楽しみの手段に用いられ、産業や軍事などへの積極的な利用がみられない。これは鎖国政策の影響も大きいが、人類の種族の維持としての生活手段を注意深くかつ用心深い態度で進めてきたからであろう。明治以来は富国強兵のスローガンのもとに、借り物の科学技術を強兵国家を作るために使って、日本を軍事大国にして太平洋戦争の敗戦を迎えた。戦後は富国国家へ邁進して経済大国となった。それでも国民の生活はのんびり楽しく優雅な環境になっていない。そればかりか、さらに自然環境や生態系の破壊を進めている現在の科学技術の使い方がいつまでも続くわけがない。有限な国土と有限な人口のもとで、自然環境への影響を少なくして、独自の文化を育てた日本の江戸時代の生活は貴重な実験データとしての研究余地がある。これらのことは、いまや有限地球全体の大きな課題でもある。

(文責:yut)

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