怨歌 後篇

(「妄想日記」より転載)


 



          

XXXX年XX月XX日の行状

          

 JR赤羽駅西口を出て左、西南の方角へ向かうと、行き止まりとなった狭隘な谷間の地に行き着く。そこは絶情谷と呼ばれ、人ひとり住まず草木も生えることのない死に絶えた土地として知られている。
 そこには人生に於いて全ての望みを失った者のみが訪れ、そして魂の最後の平安を得るという。

 この地で・・・、オレは彼女と会うことになっていた。おそらくもうすぐ終わりを告げるだろう人生で、最期に出会う、忘れじの女。いまや復讐の念のみで生き長らえる、過去から来た亡霊。
 荒れ果て乾ききった絶壁が周囲に聳え昼なお暗い奈落の底で、しばし瞑目して再会の時を待つ。
 ふいに空気の中にそれまでない湿った匂いを嗅ぎ、顔を上げた。
 風が湿り気を帯びてきている。細く砕け散った涙の滴が入り交じったかのような、粘液質の重い空気が、手足に絡みつき、自由を奪う。
 澱んだ湿気の中へ忍び込むように、暝く澄んだ唄が聞こえてきた。

 るるいらら、るるいらら、るるいららるらららら〜

 姿は、まだ見えない。
 声だけが高く、細く、切れ切れに、だが絶えることなく谺する。断崖に跳ね返っては増幅し、聴覚ばかりか五感までをも掻きむしる。
 束の間方向感覚を喪失し、軽い眩暈を振り払おうと丹田に意識を集中した。
 声が近い。
 気が付くとそれは、すぐ耳元にまで近付いていた。

 おーん、おーん。

 美しかったその声は、いつの間にかひび割れ嗄れた啜り泣きに変わっている。
 気配を察する間もなく背後をとられていた。動くことすらままならず身をすくめる。
 声が途切れた後、長い沈黙が続いた。
 それは決して長すぎるということはない。十余年の空白が横たわっているのだ。
 そのままどれくらの時間が経過しただろうか、忘れもしない懐かしい声が静かに語り始めた。
「そのまま振り向かずにお聞きください。
 こうしてお会いできる時をお待ち申し上げておりました。」
 言葉は耳の奥へと風のように滑り込む。その声には何の感情もこもっていない。
 だが、喉から一音ずつ絞り出される言葉には、紛れもない鬼気が宿っていた。
「忘れもしない別離の日。長の座を継いだあの日から、喜びも悲しみも全てが終わり、新しい地獄の日々が始まりました。
 それは人の世の外に咲く、毒の花園。独り、深い虚無の淵にてたゆたいながら、ゆっくりゆっくりとわたしは堕ちていきました。
 一人目の殺しは、16の春。あれは桜散る雨の日の夕べ。
 二人目の殺しは、真夏の砂浜。流れ去る亡骸が波間に浮かぶ。
 三人目も、四人目も、あとは同じこと。一人殺すたびに少しずつわたしも死んでいく・・・。
 無感動な殺戮と、くすぶりつづける情念との間で引き裂かれながら、ときおりこっそりと、人の棲む世を懐かしんでみたものです。
 けれども、それは儚い夢。言葉にするには重過ぎる。やり直すには汚れすぎている。
 死・・・それだけが、唯一の希望!」
 そこまでが限界だった。高まる空気の緊張に耐え切れず、前方へと跳躍した。
 空中で長套を脱ぎ、遮蔽幕として背後の空間へと投げ上げる。
 ケチな手だ。これでどこまで防げるだろう? だが予想に反して追撃はなかった。彼女の姿を求め、振り返る。
 地に落ちた長套を挟んで対峙した。
 久しぶりに出会う彼女だが、その顔を目にすることはできなかった。
 着物の襟から覗く細い首筋、そして尖った頤、豊かな薔薇色に染まっていた頬、筋のとおった鼻梁、秀でた額に至るまで、貌の全ては薄汚れた包帯に覆われ、どんな表情を浮かべているかもわからない。
 ただ、澄んだ瞳だけが昔と変わらぬ光を湛えてオレをじっと見つめている。
 なぜか痛々しいものを覚え、気が付くと思わず目を背けていた。
 そんなオレの様子に彼女は拗ねるように身をくねらせ言った。
「どうしてわたしを見てくれないのですか。やっと遭えたというのにあなたの心はそれている。長い別離の間にわたしのことを忘れてしまったというのですか。
「そうだわ。こんなもので顔を覆っているから判らないのね」
 たおやかな指先を包帯の端にかけ、ゆっくりと解きほぐしていく。
 数年ぶりに目にしようとするその顔に、正直、ときめくような想いを抑えきれなかった。
 少しずつ白い布の下から露わになっていく彼女の貌に、だが往年の面影はなかった。
 白かった肌は剥がれ落ち醜い引き攣りにとってかわられ、赤黒く隆起したケロイドが縦横に走っている。
 無惨に焼け爛れた醜い顔の残骸。変わらぬ艶やかな黒髪も凄惨さを増す助けにしかなっていない。
 長い髪を後ろに払い痛々しい貌を剥き出しにして、独白するかのように淡々と語っていく。
「灼いたのよ。とてもとても濃い硫酸で、わたしは顔を灼いたのよ。
 ひとり修羅の世界に残り、終わってしまった人生に弄ばれながら、女としての自分ばかりか一個の人間としての存在を捨て去るほか、わたしには生きていく術が無かった。顔を灼き、心を捨てて、わたしは偽りの生を生きてきた。それが自らに残された唯一の道だと信じて・・・。
 けれども不思議なことに、どんなに心を凍らせてもどんなに人を殺めても、捨てたはずの想い出がいつのまにか頬から額から膿のようにジクジクと沁み出して、拭っても拭っても落ちやしない。
 可笑しいわね。これも性というものなのかしら」
 そうして彼女はべったりと血膿の貼り付いた包帯を眺めて、ケラケラと声をたてて嗤った。

 彼女の心はすでに常軌を逸しているようだ。全てはオレの所為なのか。あのとき、オレか彼女か、どちらか一人が死ぬべきだったのだろうか。
 そんな想いをよそに、彼女はオレのことなどどうでもいいかのように、頬のあたりに爪を立てて引っ掻いている。疵付いた顔の肌に痒みを覚えたのか、あまりに強く掻きむしるあまり、ついに血が滲み出してきた。爪の先に、剥がれた皮膚の欠片がこびりついている。
 暫く執拗に頬のあたりを掻き毟っていたが、声もなく見つめるオレの様子に手を止めた。
「なんだか無性に痒いのよ。掻いても掻いてもこの痒みおさまらずに、ただ人としての心だけがぼろぼろと剥がれ落ちていく。
 いまやわたしは何者でもありません。生きているのか死んでいるのか、痛みと痒みに耐えかねて、戯れに命を絶っても、魂魄残りて幽鬼となるのみ。
 だからわたしは天使にはなりません。悪魔にもなりません。この地上にて、醜くなってしまったわたしが、最後に飲むのは毒の花。お似合いでしょう。
 さあ、どんな蜜を味あわせてくれるのかしら? あなたの華の蜜を吸わせてちょうだい」
 殺戮の唄が再びその喉から漏れ出る。

 るるるらららら〜

 声だけをその場に残し、彼女の躯が飛鳥のように襲い掛かった。ナイフのような鉤爪を間一髪でかわし、振り向きざま、防御のために一把みの暗器を投げつける。
 が、すでにそこに彼女の姿は無い。するすると滑るように左へ回りこみ死角へと位置を移している。
 彼女の内功は至高の域に達している。さすがは正当な継承者、はぐれXXXXであるオレに敵う術はない。
 素早く向きを変え、懐から短刀を抜きながらも、オレは死を意識していた。過去と、宿命と、全てのものから逃げてきた。いまここで、置き去りにしてきた運命と向き合うのもいいだろう。
 低く体を屈めた臥虎の型で、弧を描きながら周囲を移動していく彼女。獲物を狙う獰猛な獣のようだ。
 対してオレは体を半身に捻った蔵龍の型で、顎に見立てた短刀を構え、上段から相手の様子を窺う。攻めの一撃に応じて返し技を狙う受身のスタイルだが、恐らく彼女のスピードにはついていけまい。
 一撃を放つ瞬間を計るように、ジグザグに地を這う四つん這いのステップで接近してくる。
 それに合わせ、胴を蛇体のように左右へとくねらせてカウンターのタイミングをとる。
 勝負は一瞬にして決まる。願うことなら楽に死にたいものだが、彼女がそれを許すかどうか?
 仕掛けてきた。
 何の前触れも無く、地から弾けた躯が喉笛目掛けて跳ね上がってくる。
 跳躍に応じて、刃を合わせた。そう思った瞬間、手応えの無さに前へとのめる。
 合わせたはずの刀身は空を切っっていた。
 虚像だ。濃縮された気のみを放ち、相手の目に虚像を見せる技。
 単純な手だが、優れた内功の持ち主が使えば強力な効果を発する。まんまとひっかかった。
 そして、彼女の姿はすでに視界にない。
 オレの負けだ。
 背後から襲う殺気に身を委ねた。これでやっと楽になれる。
 脱力した体が、無意識に凶気へと反応した。逆手に持ち替えた刀が脇腹越しに差し出される。
 狙いも糞もない。死角からの攻撃に対して躰が反応しただけだ。
 何の意味もない、ただの反射運動。そのはずだった。
 突き刺さる刃。躰の奥深くを抉る肉の手ごたえ。
 背後をとったとはいえ、彼女は無防備に、あまりに無防備に身を投じてきた。
 継承者ならば決して犯さないミス。

 予想もしなかった展開に、思わず凶器を手放した。
 鍔元まで短刀を、深々と胸に埋めて、彼女は大地へ崩おれる。
 オレにはどうしていいか判らない。薄ら馬鹿のようにそのまま立ち尽くした。
 命の滴とともに、最後の言葉が流れ出す。

「あなたが去ったあの日から、わたしの命はかりそめの命。
 死・・・それだけが、唯一の希望」

 それきり、彼女はもう何も喋らなかった。

 事切れた軆を抱いて頬を擦り寄せる。
 少しずつ冷えていくその貌に舌を這わせながら、滲み出る血と膿とを舐めとっていく。
 醜かった彼女の顔は死によって安らぎを与えられ、皮膚の仮面から解き放たれた、より骨に近い真実の貌が覗いている。
 それはとても美しい、手からすりぬけていく砂粒のような命の残骸・・・。


 一族の血は死に絶えた。このオレをひとり残し、最後の血の一滴までも流し尽くして横たわる。
 ここは見知らぬ土地だ。異なる色の血を持つ民がしめしろす国。
 この異郷の地にてひとり、一体いつまで生きなければならないのだろうか。


 もう何も聞こえない。もう何も感じない。

 るるいらら、るるいらら、るるいららるらららら〜

 細く、高く、唄う声だけがいまも耳に谺している。




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