〈ヂル・ザ・ヴァギナ・ファック〉、【超SEX祭り】(at手刀/2008年12月10日)のライブを報告する。この日、三曲の獄中歌が披露された(※1)。持ち時間が30分であるから一曲10分の計算となる。
場内の幕が上がると、黒い着流しに足袋姿の犬吠埼ヂルと猿之恋太郎が暗黒の中から浮かび上がる。Duoの為、中央にヂル、向かって右側前面に恋太郎のドラム・セットが組まれている。ヂルの立位置には、唇と股間に向かってマイクが2つ向けられている。
死の世界の始まりは、猟奇的なドメスティック・バイオレンスに苦しむ家族の歌である。ヂルは鋼鉄のように重いリフで会場を凍結し、時には蜘蛛の糸のような単音がその間を縫う。恋太郎は粉々に砕け散った硝子の破片、若しくは瓦礫が瓦解するようなフレーズを撒き散らす。途中、各所から届いたドメスティック・バイオレンスの被害者の「お便り」をヂルが読みあげ、披露する(※2)。いずれも苦痛と困難が快楽と狂喜に反転している。右膝を床につけてギターを奏で、歌う。
二曲目は半魚人が繁殖し、人と交わる妄想的歌詞である。途中、ヂルはギターをスタンドに置き、膝を屈め両手を前に翳して舞台を練り歩き、その歩みを客席中央まで到達させる。ステージを見詰めるヂルに、恋太郎はギターのシールド(※3)の先端を投げつける。「オーイェス」「グェーグェー」、掛け声を出して二者はシールドを引き合う。応酬は突如終わりを告げ、ヂルは再び膝を屈め四足に転換してステージを巡る。両手を脇に大きく広げて惨事に対する讃歌を、再び謳い上げる。
ヂルはMCで次の二点を言及した。まずは通常のバンド名〈第十三号雑居房〉が、今回に限り〈ヂル・ザ・ヴァギナ・ファック〉ユニットとして改称した経緯についてである。男性はヴァギナ・ファック、女性はペニス・ファックを標榜すべきだと提案するが、その由縁については敢えて解説を加えないところにヂルが持つ惨忍性が窺える。そして下半身に位置するマイクについて、その意義を端的に述べる。ヂルの下半身はイタリアとのクォーターで、その名を〈ピッコリーノ〉という。右に曲っているらしい(※4)。その下半身が白濁する粘着性生成物を発する代わりに、何故、声帯を振るわせ歌を発するのか、若しくは口吻を残すのかについては論じない。ここにもヂルの不敵な笑いが込められている。
地獄からの巡礼は最終局面を迎える。恋太郎は、やがてヂルが語り始める快楽に対して金の雪を舞わせるようにシンバルを擦り、場を形成する。壁を見詰めていたヂルが客席に振り向くと、両手に曝し首を携えている。若い男と女である。マネキンの切り口には血が滴るように赤く塗られている。ヂルは静かに、地主の妻がそこで雇われている若い男と姦淫を果した妖気漂う朗読をする。曝し首を処刑台に置いて背を向けると、ヂルは右手に黒木刀を持つ。腰を屈め、戻し、肩を一度振る。ゆっくりと刃を抜き、男女の頭を切り付ける。床に転がった両首の髪を鷲掴みにして持ち上げ、正面を向いて客席に曝し、屈みながら床に転がす。重力に逆らうように立ち上がり、伸ばした両手を脇に広げていく。リフを千切るように鳴らし、その音の肉片に癒着する血が辺りに飛び散るような旋律を奏でると、幕が下りヂルは呟く、「ヴァギナ、ファック…」。戦慄の季節は終わりを告げる。
全ての歌詞は魔界的邪悪に満ち、サバス的秘教性を持ち、駆け巡る血潮のような物語性を強調する。ここには憎しみや妬みといった絶望、惨忍であっても残虐な暴力は存在しない。背徳、裏切りも感じられない。即ち、マルキ・ド・サドが持つ人間の欲望の果てを曝す思考とも、ザッヘル・マゾッホが持つ全てを右派の如く甘受しながらも嘲笑する姿、オノレ・ドーミエのような諷刺画、ギュスターヴ・クールベのようなリアリズム、共に時勢に対する転覆を目論む発想、全て破壊し尽すダダ、未開の眼を揺り起こすシュールレアリスムのどれでもない。不埒、快楽、地獄という悲観的様相を楽観的表情に裏返すのではなく、全く別の価値に転換する思想があるのだ。そこにはジャック・ヴァッシェのような、光を失うことによって結晶した氷河のような硬質さが通低している。今回の三曲をダンテの『神曲』、即ち「地獄」「煉獄」「天獄」に置き換えることも出来るということを考慮に入れると、このような解釈が空論ではないことが理解出来るであろう。
暗黒舞踏とは、肉体を揺るがすことに全てを委ねている訳では決してない。土方巽は文章を、大野一雄は発言を多く遺してきた/残している。ヂルの舞は静謐であり、大袈裟な舞踏的な動きはしない。ヂルを、言葉を発せずに舞う前者二者と比較するとすれば、舞わずに語り、寸劇し、ギターを操り、僅かの動作の中に【舞踏】を発現していることになる。歌の詩の韻が巧く踏まれ、それを発音することが、この事実を深く物語っている。【舞踏】を語り/寸劇/演奏に転換する。
ヂルが持つ価値の転換から、私達は【舞踏】の本質を見失ってはならない。
(宮田徹也/日本近代美術思想史研究) |