深夜特急(Midnight Express)

/ アルフレッド・ノイズ(Alfred Noyes)
/ 鈴木 清太郎 訳

 


 



          

 それは赤いバックラム装幀の痛んだ古本。モーティマーが十二歳の時に父親の書斎 にある本棚の上段で見つけたものだった。広いだけが取りえの屋敷が闇に沈む時、彼 は寝室に持ち込み、蝋燭の灯で読むのだった。それは言い付けに背くことだったが、 彼はいつもそのことだけを考えていた。寝室は他から離れた小部屋だったので、家中 の者が闇に寝静まっている時、こっそり持ってきた燃えさしの蝋燭の灯りで辺りの暗 闇を押し止めることが出来た。年長者たちが眠りにつくのに反し、幼いモーティマー の神経や脳細胞は生き生きと目覚めるのだった。
  階下の廊下にある祖父の掛け時計の時を刻む音、心臓の鼓動、離れた海岸から伝 わってくる間延びしたリズミカルな波の音。彼の心はいやがうえにも神秘に包み込ま れるのだった。そして読み進みながらもその耳は、森の獣が木の枝の折れる音にビク つくように、壁にぶつかる火蛾の柔らかな羽音も敏感に感じ取っていた。
  物語の筋はまるで分からなかったが、その古ぼけた本には不思議な魔力があった。 題名は「深夜特急」。五十ページ目に一枚の挿絵があったが、彼は眺めることが出来 なかった。怖かったのである。
  その絵が何故怖いのか、幼いモーティマーには分からなかった。想像力はあるが神 経質な子供ではなかった。それでも五十ページ目は飛ばしてしまう。六歳の頃階段の 上の暗い角にさしかかると駆け出してしまったのと同じであり、また「老水夫行」に 登場する大人が淋しい道にさしかかると、一旦辺りを見回してから歩き出して二度と 振り返らないことと同じであった。
  その絵には見たところ何も恐ろしいものはなかった。闇がモチーフになっている。 薄暗いランプのついた人気のない夜の鉄道のプラットホーム。それが辺鄙な田舎の淋 しい乗り換え駅を暗示していた。ホームには一人の人影。ほとんどランプの真下にあ たるところにいる黒い影は、彼方に黒い口をあけるトンネルに顔を向けていた。何故 かそのトンネルは幼い心には恐怖の落とし穴を想像させた。
  男は耳をすましているように見えた。その姿は何か恐ろしい悲劇を待ち受けて身を 固くしているようだ。この悪夢の光景についての文章は、少年の読んで理解する限り では本のどこにもなかった。彼は本の魅力には逆らえなかったし、また淋しい夜の静 けさの中ではまともに絵を見ることも出来なかった。
  彼はそのページを二つの長いピンで止めてしまった。そうすれば思わずその個所を 開くこともなくなる。それから物語を読み通してみようと決心した。しかし、いつも 五十ページ目に差しかかる前に眠ってしまうのだった。読んだ個所もうろ覚えにな る。次の夜はまた始めから読むはめになった。そしてまた五十ページ目がこないうち に寝入ってしまうのだった。
  成人したモーティマーは本のことも挿絵のこともすっかり忘れてしまった。だが人 生半ばを迎えて、暗い森にまっすぐ足を踏み入れたダンテと同じ奇妙な危機感にとら われていた頃、彼はたまたま深夜の乗換駅で汽車を待つはめになった。そして駅の時 計が十二時を打ち出した途端、彼は思い出した。長い夢から醒めた者のように思い出 したのである──。
  一つだけ灯る薄暗いランプの下、朧に続く長いホームに見覚えのある黒い人影が 立っていた。その顔は向こうに口を開けている黒いトンネルに向けられていた。三十 八年前の姿そのままに、耳をすませ、緊張し、何事かを待ち受けている。
  だが、少年時代と違い、彼は脅えなかった。歩み寄って長い間彼から隠し背けてい た顔と相対することも出来る。静かに近づいて何か話しかけることも出来る。例え ば、汽車が遅れそうですな、とか。そんなことは成人した男には易しい。だが、足を 踏み出した時、モーティマーの両手は固く握りしめられていた。彼も男と同じように 緊張し、何事かを待ち受ける態度になった。ごく自然に近づいていきながら、彼は遥 かな過去から眠り続けてきた漠たる本能が目覚めるのを覚えた。ランプの下の黒い人 影を通り過ぎようとしながら、いきなり振り返って話しかけようとした。そして顔を 見た──言葉もなかった。言葉を失った。
  それはモーティマーの顔だった──ジッと見返していた──鏡を見るように、青ざ めた彼の顔の目が、彼自身の目を見つめていた。
  まるで自家発電の電池に心臓神経が感電したようだった。恐怖の波が身体を通電し ていった。モーティマーは向きを変えるとよろめきながら喘いだ。ついで闇雲に走り 出した。人気のない改札口を足音を響かせて走り抜けた。駅裏に続いている月光の道 に出た。辺りはまるで人気がなかった。孤独な死の世界から降る月の光は田舎道に溢 れていた。
  足を止めてしばらく耳をすませた。改札口の木の床を鳴らしながらよろめくような 足音が追いかけてくる。モーティマー自身の足音のように反響している。彼は恐怖に 血がのぼった。彼は走った。脅える獣のように汗みどろとなり、果てしなく続く白く 光る道を走った。両側のポプラの木は互いに頷き合っている。
  道の側にまっすぐに流れる運河があり、ポプラ並木の影をどこまでも映していた。 足音が後ろに響いていた。さして早くもないが、その確実な足取りは今にも追いつき そうだった。
  四分の一マイル先の道端に白い小さな家が見えた。灯りの消えた二つの窓と戸口が 人間の顔のようだった。先に辿り着けたら安全にかくまってもらえるだろうか、と彼 は思った。
  その家の小さなポーチに飛び上がった時、弱いが執念深い足音はまだかなり後ろに あった。ノブをガタガタさせてドアを押したが、鍵がかかっていた。ベルもノッカー もなかった。拳が破れて血が出るまで激しく叩いた。永遠の時が経った時返事があっ た。家の中からだるそうな足音が聞こえてくる。ノロノロと階段をきしませながら降 りてくる。ノロノロとドアの鍵が開けられる。
  火のついた蝋燭を持った背の高い人影が戸口に現れた。モーティマーには相手の顔 形がまるで分からなかった。ただ顔を蝋引き布で包んでいるらしいのが分かっただ け。モーティマーはみぞおちに恐怖を覚えた。
  互いに一言も交わさなかった。影の男は中に入れてくれた。モーティマーが入ると 背後で鍵がかかった。また黙って頷くと先に立って歪んだ階段を上がっていく。手に する蝋燭のかすかな灯りが白塗りの壁や天井に巨大でグロテスクな影を映し出した。
  二人は二階の一室に入った。暖炉が燃えており、両脇に安楽椅子があった。小さい 樫のテーブル。その上に暗赤色をしたバックラム装幀の古ぼけた一冊の本があった。 何もかも来客を待ち受けてきたような佇まいである。
  男は安楽椅子を指さすとテーブルの本の脇に燭台を置き(部屋の明かりといえば暖 炉の火だけである)、一言も発せずに部屋を出て行った。モーティマーの背後で鍵の かかる音がした。
  モーティマーは燭台を眺めた。懐かしい感じがする。滴る蝋涙の匂いに古ぼけたエ リザベス朝風の屋敷の一室が思い出された。彼は震える手で本を取り上げた。どんな 物語かまるで覚えていなかったが、例の本であることはすぐに分かった。本の扉のイ ンクの染みにも見覚えがあった。五十ページ目までめくった途端に愕然とした。少年 の頃に刺しておいたピンがあらわれたのである。触ってみる──確かに、昔震える小 さな指で刺したピンだった。
  もう一度最初のページに戻る。モーティマーは今度こそ読み通してどんな物語か確 かめようと決心した。子供の頃には分からなかったことが残らず書かれてあるはず だった。それを探り出すことが出来るかもしれない。
  題名「深夜特急」。冒頭の文章を読み出した時、恐怖に押し包まれた。避けようも ないことだった。
  それは一人の男の物語。彼は少年時代にある本に巡り会った。その本には恐ろしい 挿絵がついていた。大人になった彼はそのことを忘れていたが、ある夜、淋しい鉄道 の駅にいた時、自分がかつての絵そっくりの場面にいることに気がついた。彼はラン プの下に立っている一人の男を見た。そして男の顔を見た時恐怖にかられて逃げ出し た。彼は道の側にある一軒の家に身を隠した。二階に案内されて、一冊の本を目に止 めた。初めから読み出して、ついに終わりまで読んだ──その本の題名は「深夜特 急」。それは一人の男の物語。少年時代に──物語はこうして永遠に繰り返し、永遠 に終わらない。そこから逃れる道はない。
  三度、道の側の家のくだりにさしかかった時、強い疑惑の念が生まれた。恐ろしい 疑惑。もはや避けられなかった──逃げ道がないとしても、少なくとも巻き込まれた この奇妙な循環、恐ろしい輪廻の裏を探り出したかった。
  目新しいものは何もない。全てが常に循環して現れてくる。だが、モーティマーに は一つ一つの意味が分からなかった。それさえ分かればいい。不思議な異形の者が歪んだ階段を案内して上がる──何者なのか? 何のためか?
  物語には逃げ道を暗示する個所があった。かくまってくれた不思議な主人の背丈は 彼と同じくらいだ。するとあの男も──だから顔を隠しているのだろうか?
  そう考えた瞬間、ドアの鍵を外す音が聞こえた。  蝋涙の垂れる燭台の灯りに、部屋に入ってきた不思議な主人の──モーティマーの 背後から近づいてくる──異様に大きな影が白い壁に映った。
  主人は暖炉の側の安楽椅子に彼と向き合って腰を下ろした。両手を上げると、女が ヴェールを脱ぐように無造作な仕草で顔に巻きつけている蝋引き布を取ろうとした。 モーティマーはあらわれる顔が誰のものか分かっていた。分からないのは、それが死 んだ顔か生きている顔かだった。
  なすべきことは一つ。彼は身を踊らせると怪しい男の喉をつかんだ。同時に彼の喉 も同じだけの恐ろしい力でしめつけられた。
  叫び声がもつれあいながらこだました。どちらの声ともつかなかった。やがて二人 の争う声が止んだ時、部屋は恐ろしい静寂を取り戻した──三十八年前に聞いた、祖 父のあの古い掛け時計の時を刻む音や離れた海岸から伝わってくる間延びしたリズミ カルな海の響きさえ聞こえてきそうだった。
  だが、ついにモーティマーは脱出した。どうやら深夜特急に間に合ったようだ。
  それは赤いバックラム装幀の痛んだ古本……。