水泡の中に

 


 

涙で視界が滲んでいた
 

何処をどう走ったのかすら

まるで覚えていない
 

見渡す限りの闇の中

一筋の光も見出せない
 

闇は

心の中のようにも思えて


深く 

深く

引き込まれていくようで

 

 

もう
 

戻れない

 

 

 嫌いだった
 
 世間体ばかりを気にする父親と

 そんな父親の操り人形のような母親

 怒鳴り散らす事しか脳の無い兄も


 皆、皆、嫌いだった


 俺の十四歳の誕生日

 でも家に居たのは俺だけだった
 

 三人は父親の上司の開催する

 パーティへと出払っていた

 

 俺は自室でランプの明かりで炙った

 硬い古パンを齧っていた
 

 それは

 特に珍しい事ではなくて
 

 本当に

 よくあるような

 普段通りの

 静かで孤独な夜だった



 質素な食事の後は

 穴の空いた毛布に包まって

 ひたすらに

 家族の帰りを待っていた

 
 皆、嫌いな家族だったけど

 孤独でいるよりは

 一緒に居る方が良かった

 
 でも

 その晩

 
 俺の家族が家の門を叩く事は無かった

 
 その次の日も

 

 その次の日も

 門は硬く閉ざされたままだった

 

 

 十日ほどして

 ようやく待ち焦がれた

 家族が門をくぐった

 

 でも 

 それは人の原形を留めてはいなかった

 門をくぐったのは

 

 食い千切られた父の右腕と

 乾いた血で染まった母の脚

 そして

 首と半身が無い兄の身体……

 
 話によると

 パーティの帰りに馬車ごと

 獣の群れに襲われたそうだ


 冷たく変色した体

 食い千切られた肢体

 乾いた血の匂い……

 
 俺の中で

 何かが爆発する

 

 目の前が真っ暗になって

 何も考えられなくなって

 ただ

 ひたすらに

 

 
 何かを求めて

 家を飛び出した

 

 

 どのくらい走ったのだろう

 気がつくと辺りは深い森の中で

 梟の声すらしない静かな森の中で

 聞こえるのは風の音と

 木の葉の擦れる音と
 
 かすかな水音……


 

 父さん 

 母さん

 兄さん……


 覚束無い足取りで水音に近付く

 
 涙と暗闇で

 視界は殆ど見えない

 それでも 

 水音に引き込まれるように

 近付いた

 
 それは

 すぐに見つかった


 その水は

 淡く光っていて

 月の光を一身に受けた


 鏡のような 泉

 

 神秘的で

 白銀の光をたたえて

 その光が

 俺を包んで

 
 引き寄せる

 

 俺も……

 俺も皆のそばに……

 この泉に身を投げれば

 

 また逢える……? 

 

 躊躇いは無かった

 目をしっかりと開いたまま

 俺は冷たい水の中へ

 身を沈めた

  

 一面の銀色

 
 水泡が

 軌跡を描いて

 俺を包み込む

 
 優しく

 冷たく

 全身の熱を奪ってゆく


 涙をこぼし続ける

 瞳だけが 

 暖かかった 

 

 悲しい歌が聞こえる

 歌詞の意味はよく分からない

 でも

 物悲しいメロディ

 
 そして

 悲嘆さの中に

 甘い熱を含んだ 

 伸びやかなテノール……

 
 声はすぐ耳元で聞こえた

 全身が疼くような

 甘い声

 
 濡れた瞳を開くと

 世界は

 朱に染まっていた

 

 夜明けが来ていた

 俺は

 泉の辺で

 夢を見ていたのか



 いや

 濡れた服
 
 濡れた髪

 全身から匂い立つ

 水の香り

 
 夢ではない

 銀色の泉は

 朱に染まって

  暖かく豊に

 その水をたたえていた

 
 歌が聞こえる

 泉の中から



 そして

 俺は見つけた


 泉の中に

 半身を浸した

 人の姿

 不思議と恐怖は感じない

 
 白い肌に

 銀色の髪が揺れて

 きらきら

 光っていた


 その歌声の主は

 ゆっくりと

 俺に視線を合わせると

 静かに

 微笑んだ

 
 今にも

 泣き出しそうな表情で

 

 微笑んでいた