備後國分寺だより
備後國分寺 寺報[平成二十年四月号] 第十九号

 備後國分寺だより

発行所 唐尾山國分寺寺報編集室 年三回発行


 ある福祉施設のための講話
 『 なぜお釈迦様は  
   やさしい心 
  でいられるのか』


 皆さん、今日こうして忙しい合間に、ここへお越し下さって坊さんの話でも聞いてやろうという気持ちを起こされた。誠にありがたいことだと思います。
  
 私は、早いもので國分寺に参りまして丸八年、住職して六年が経ちました。昔は十年ひと昔と言いましたが、今ではどうでしょう五年ひと昔と言っても良いほどに世の中の動きがめまぐるしく速く感じます。

 実は、私がこちらに来ましたときには、大変なところへ来てしまったなぁ、と思いました。と申しますのも、この備後という場所は、仏教界、特に真言宗にとっては特別の場所です。

 平安時代から天皇陛下の師匠になるような立派な高僧が出たり、近世以後も今日まで、たくさんの学徳兼備のお坊さん方が管長さんや門跡さんとして高野山や京都の本山の要職を担ってこられている。他にこんな土地はないのではないでしょうか。皆さんご存知でしたか。

 それで、私の方はお寺の生まれでもなく、色々と紆余曲折あって坊さんになったわけですが、立派な高僧を生む土地に育ったお坊さんたちの中で、実際いろいろと大変なこともあります。

 で、昔坊さんになる前のことですが、何も分からずにチベット仏教の瞑想会に参加したことがありまして、そのとき、チベットのお坊さんから、仏教とは問いから始まるということを教えてもらいました。お経でも、みんなそういう形式になっていますね。お釈迦様に誰かが何かを質問して、お答えになられた記録がお経です。つまり、言うことを聞いているだけではだめだということなのです。

 ですから、私は今でも、分からないことがあると、その都度周りのお寺さん方に色々と質問し教えていただきながら何とかやっているような訳なのです。今日は後ほど沢山の高僧を輩出している備後にお住まいの皆様からも、是非様々問いを発していただければありがたいと思っていますので、よろしくお願いします。

 ところで、今という時代は、どうも優しさというものを喪失した時代とも言えるのではないでしょうか。学校にしろ会社にしろ、いじめというものが、ますます横行しています。差別し、他をのけ者にして、優越感にひたる人があります。大人の世界でも、派遣、請負、非正社員という言葉が、少し前からですが新聞紙上を賑わせているのが現状です。

 下流社会、勝ち組負け組。それでいて、痛みを分かち合いなさいと言っていました。貧乏人からもドシドシ税金を搾り取る、さらに社会弱者の生活保護も削減しようというのですから、国家自体がやさしさをかなぐり捨てたと言っても過言ではないでしょう。

 それなのに景気はいいのだと言われています。好景気が戦後最長になったとも言っていましたね。最近は原油が高騰したり金融問題で少し下火になりかけてはいますけれども。まあ、それでも、大企業の数字だけは良いようです。

 ですが、こんなことで良いのでしょうか。何か階層のようなものができつつあると言われていますね。それこそふた昔前くらいになりますか、一億総中流階級などと言っていたのに、こんな状況は容認できることではないでしょう。勿論他の国なら良いというわけでもありませんが。

 だからまったく国家自体が国民に対してやさしさを失った時代だというのも仕方ないのかもしれません。もちろん元々国家とはそのようなものだということなのかもしれませんが。

 ですが、こうして、ともに生きる私たちはその影響を受けずに、やはり穏やかに暮らしたい、誰もがそう思うはずです。縁あってともに暮らす人とは安らぎの中で同じ時を過ごしたい。なかなかそれも難しいことですが、ではどうすればいいのでしょうか。

 お釈迦様のお話をしましょう。今から二千五百五十年前のインドの話です。コーサラ国のパセーナディ王が統治する領土にサーヴァッティという大きな街があり、その近くのジェータ林にあるアナータピンティカ園にお釈迦様がおられたときのことです。

 そのころサーヴァッティには、アングリマーラという残忍で無慈悲に人や生き物を殺し、その指を輪にして首にかけた凶賊がありました。(パーリ中部経典八六アングリマーラ経より)

 お釈迦様は、托鉢の帰りしなに誰も近づかないそのアングリマーラの居るところへと歩を進めます。街を歩くときは街の誰もが十人二十人と連れだって歩くのに、たった一人でお釈迦様は静かに歩いていきます。

 そのことを知ったアングリマーラは、誰か知らんが一人の沙(しや)門(もん)(出家修行者)が命知らずにもこちらに来るではないか、後ろから追いついて命を奪ってやろうと考えて追いかけます。

 ですが、行けども行けどもお釈迦様に近づくことができません。そして思わず、アングリマーラは立ち止まって「そこの沙門、止まりたまえ」と声を掛けます。するとお釈迦様は歩いているのに、「私は止まっている。そなたこそ止まりたまえ」と言われる。その問答にすっかり頭の混乱したアングリマーラは、沙門の言うことには何か意味があるであろうと考えて問い質します。

 すると、お釈迦様は「私は、いかなる生き物をも害する心が止んでいる。しかるにそなたは生き物を害する心が自制なくとどまっていないのだ」と答えます。その言葉に、はたと自分の行いを悔い改める心がアングリマーラに起こり、お釈迦様の教えに生きることを誓い、すべての武器を捨てたのでした。

 お釈迦様は彼をアナータピンディカ園に連れて帰り出家させ、比(び)丘(く)(僧侶)として遇します。そこへ通報を受けて駆けつけたパセーナディ王が五百頭の騎馬隊を率いてやってきました。王は、「アングリマーラを捕らえるために来ました」と告げました。

 すると、お釈迦様は、「もしもアングリマーラが髪を剃り、黄衣を着けて出家し、殺生を離れ、戒を守り教えを実践するのを見たならばどうなされるであろうか」と問います。すると王は、「彼を礼拝し、座をもって招き、衣や食事を与えるでしょう。しかし彼は凶悪なる殺戮者であり、そんなことはあり得ようはずはない」と言いました。

 そこでお釈迦様は近くに座っていたアングリマーラを指さして、「彼こそがあのアングリマーラである」と言うと、パセーナディ王は驚き、「誰も、何十人もの人が棒によっても剣によっても取り押さえることのできなかった者を、このように何も用いずに心を鎮め、改心させてしまわれるとはなんと不思議なことであるか」と言い残し、お城に帰って行きました。

 そして、ある日アングリマーラが托鉢していると、ある女性が難産で苦しみもがいていました。なんとかしてあげたいと思い、お釈迦様にお尋ねすると、お釈迦様は、「ご婦人よ、私は生まれて以来、故意に生き物の命を奪ったことはない。その事実によってあなたは安らかになりますように」と言いなさいと教えます。

 それでは嘘を言うことになるとアングリマーラが言うと、それでは「私は聖なる生まれによって生まれて以来、故意に生き物の命を奪ったことはない。その事実によってあなたは安らかになりますように」と言うように諭され、翌日その通りに、アングリマーラがその婦人の前で言うと、女性も胎児も安らかになったということです。

 また、托鉢に出ていると、石を投げられたり、棒で叩かれたりしたこともありました。そんなとき、お釈迦様は、頭が割れ血を流すアングリマーラに言われました、「そなたは耐えなさい。そなたが地獄で数年、数百年、いや数千年にわたって受けねばならない業の果報を現世において受けているのであるから」と。

 そして、アングリマーラは一生懸命修行し、最高の悟りを得て、阿羅漢となり解脱したということです。

 本来なら捕らえられ、罪を認め処刑されねばならなかったところを助けられたのですから、それは本気になって修行に励んだのでしょう。それによって悟りを得られた。石を投げられたり棒で叩かれるといったアングリマーラが受けた報いは当然のことでありました。

 このように、どんなに獰猛で凶悪でたくさんの人や生き物を殺した者であっても、お釈迦様は怖れの心も怒りの心も持つことなく、やさしい心で接しられ、教え諭されました。こうして更正させ、悟りにまで導いてあげたのです。

 普通の宗教だったら、洞窟にでも幽閉して閉じこめてネズミにでも変えてしまう神通力を現したと言いたいところですが、そうは言わないところこそが仏教なのです。教誡の奇跡こそが最高の奇跡であると仏教では言います。

 お釈迦様だから出来たことなのかもしれませんが、お釈迦様には、初めからそのすべてのことがおそらく分かっておられたのでしょう。つまり、アングリマーラは悟れるということが。そして、そうして悪行をはたらかねば、お釈迦様に出会い、教えを受け、悟りを得ることもなかったのだということが。

 勿論だからといって、犠牲になった人たち生き物たちが亡くなって当然であるというわけではありません。しかしそれも因縁として仏教では説明しなければならないことなのです。今生での因縁ばかりか前世での、いやもっと何回も前からの過去世の因縁のなせる果報なのであると。

 そう考えなければ説明のしようがないのです。その時のあなたが悪いわけではない。何回も前の過去世の悪業がこの時に報いて結果した、しかしそれによって生まれ変わったところは、おそらく悪業が消えた、より良いところに生まれ変われるのではないかと、このように考えるのでありましょう。

 すべては因縁で成り立っています。すべてのことに因縁ありとも言います。ローマは一日にしてならずとも言いますね。すべて原因と様々な条件によって結果があり、その結果がまた原因となる。

 お釈迦様は神通力で、その人の過去そして未来が見えてしまわれると言われています。アングリマーラに会う前から既にそのことが、だから分かっていた。それで、わざわざアングリマーラの居るところへ歩いていき、改心させて、僧院に連れて帰り、修行させたのでしょう。

 その人の因縁を過去も未来も見えてしまわれたら、おそらくその人に対しての怒りやら怖れやら欲やらといったものはすべて無くなってしまい、やさしい慈しみの心で接しられるようになるのではないかと思います。だからいつもお釈迦様はやさしい慈愛の心でいられるのでしょう。しかし、もちろんそれは、私たち凡人には、そう簡単なことではありません。

 ですが、何か怒りの心で接してこられたり、言いがかりをつけられたりしても、どんな悪口を言われても、つっけんどんに何か言われても、馬鹿にされても、のけ者にされても、意地悪されても。そう言ったり、したりするその人の因縁を見るように心がけるだけで、そうそう腹を立てることも出来なくなって、そうですかね、と冷静に笑っていられるようになるのではないでしょうか。そしてやさしくなれる。

 たとえば、夫婦げんかというのも、夫婦だから腹が立つこともありますが、同じことを他人から言われたら大変なことになるのに、別にたいしたことなく受け流したりも致します。それは、ああまたかと、その相手のことをよく分かっているから、そうですかと、そういう気持ちになるわけです。

 だから、他人であったとしても、その人の過去のすべての色々なことがそう言わせているのだと思えば、何かそう言うのが理解できるといいますか、しかたないか、かわいそうにという気持ちにもなってくるのではないでしょうか。

 それから、何事もこの因縁ということから物事を見ていきますと、とてもしっかり生きられます。何か意味のあることだと思えます。いい加減な気持ちで何事も出来なくなる。一つのちょっとした仕事でも大切なことであると思える。

 なぜなら、過去の様々な一切のことの積み重ねで今があるからです。今していることも、思うことも、考えることも、これまでの過去のすべての集積したもののほとばしりとしてあるという気持ちにもなってきます。

 ですから、こうして今話を聞いていただいているのも大変な因縁の積み重ねがなしているとも言うことが出来ます。様々な皆さんの事情もあったでしょうが、こうして皆さんが一堂に出会っているというのは本当は大変なことです。みんなそれぞれにたくさんの過去の因縁の積み重ねのもとに生きていて、それがここに一つに出会っているということになるからです。

 だから、ありがたい、一期一会とも言います。「私たち人間とは何か」と問われれば、因縁なんですね。「これが私」と言えるようなものは何もない、因縁が私であるとそのように考えます。だから簡単に変われない。

 そして、冒頭に話をした国というものも因縁で説明できます。過去の様々なものごととの関係によって、そして今ある様々な条件の下で成り立っています。ですから、簡単ではない。私たちが一朝一夕に方向を変えることも出来ない。

 因縁とは、縁起の法とも言いますが、仏教は縁起の法であるとも言います。仏教とは因縁を説くものとも言います。ですから、大切なのです。この因縁ということを常に意識して、誰に対してもやさしく、過去がみんな結実した今を大切に、また様々なことをこの因縁ということから考えて、やさしい心でお過ごしいただきたいと思います。(全)


大覚寺の研究一

 大覚寺は昨年、中興後宇多法皇(ごうだほうおう)の入山七百年を迎え、十月二十四日から二十六日にかけて記念大法会が行われた。國分寺からもこの大法会に三十八名もの檀信徒が参詣した。これを機会に、國分寺の本山である大覚寺とはいかなるお寺なのか、ここにまとめておきたいと思う。

 大覚寺というのは、それは真言宗のたくさんある派の中の一つに過ぎないと思っている人がほとんどであろう。がしかし、未だに皇室から見た序列では、大覚寺は特別の位置にあるお寺であるという。

 代々皇室から住職を出していた門跡寺院もかくあれど、もちろん天台宗にも、さらには明治以降皇室と関係した本願寺もあるが、それら大きなところは沢山あるけれども、その中でも別格に置かれているのが大覚寺である。

 一つのエピソードを紹介しよう。坂口博翁大覚寺派前宗務総長著「空海のデザインと嵯峨天皇」(13p)によれば、平成十四年京都御所に参殿した折の話として、その時、門跡の名代として行っていたにもかかわらず、京都御所の所長は、並み居る門跡や宮司の中で一番に大覚寺の使いである坂口宗務総長を陛下に紹介され、陛下と親しく言葉を交わされたという。

 そして、その著作の中で「門跡寺院の僧侶がいかに丁重に処遇されているかを知り驚愕した。中でも大覚寺門跡は特別扱いであった」と述べられている。

 その大覚寺はいうまでもなく、旧嵯峨御所大本山大覚寺で、真言宗大覚寺派の大本山である。しかし大覚寺は、元からお寺だったのではない。

 今から一二〇〇年前、大同四年(八〇九)に即位した嵯(さ)峨(が)天(てん)皇(のう)は、都より離れた北野の地をこよなく愛され、壇林皇后との成婚の新室として嵯峨院を建立された。これが大覚寺の前身・嵯峨離宮である。

 嵯峨野は、その昔から野の花が咲き競う大宮人の行楽地であり、月を愛で、花を賞し、皇族貴族の遊猟を楽しむ場所であった。

 嵯峨の地名は、唐(中国)の文化を憧憬していた嵯峨天皇が、唐の都・長安の北方にある景勝の地、嵯峨山になぞられたものである。

 その後弘法大師とのやり取りを見ても、嵯峨天皇は、漢詩文にすぐれ、それらは勅撰漢詩集「凌雲集」などに採用され、書道の三筆にも列せられた。まさに、平安前期を代表する文化人として高い素養を備えた方であって、また当時としての国際性を併せ持っておられたと言える。

 嵯峨天皇は、平安建都の完成者とも、今日にいたる皇室という伝統を築いたとも言われている。前時代の律令体制を修正し補足した格式を中心に政治を執られ、中国の新しい文化を伝えた入唐求法の僧侶たちにも深く帰依された。特に弘法大師空海は恩寵を賜り、弘仁七年に高野山開創の勅許を与えられ、同十四年には東寺を下賜された。

 弘法大師は、留学僧として二十年間の滞在期間をあえて二年ほどで帰国して国禁を犯したがために、九州で足止めされて京の都に入れなかった。が、それを許したのも嵯峨天皇であった。また、その請来した経典類を評価し、真言宗という新しい教えを一宗として認めたのも嵯峨天皇であった。

 さらには、弘法大師に命じて、国民の幸福と平和を祈る大祈祷を五十三回も行わせている。これらのことを思うとき、この嵯峨天皇というお方に、真言宗徒として、誠に大きなご恩を感じるのである。

 弘仁九年(八一八)春の大飢餓に際して、天皇は、「朕の不徳、百姓何ぞつみあらん」と言われ、嵯峨天皇、壇林皇后とも衣服、常膳を省減し、人民への賑給を尽くすとともに、弘法大師の導きで、国民の不幸を救済せんことを願われ、一字三礼されて般若心経を親写されて仏天に供養された。

 その間皇后は、薬師三尊像を金泥で浄写され、弘法大師は、持仏堂五覚院の五大明王像の宝前で祈願された。

 そのときの『宸筆般若心経』は、現在も勅封として大覚寺心経殿に伝えられている。この精神は後々までも引き継がれ、天変地異のあった天皇は自ら般若心経を書写して大覚寺に奉納することが恒例となった。後光厳、後花園、後奈良天皇などの宸翰が大覚寺に残されている。

 嵯峨天皇は、皇位を淳和天皇に譲位されてのち、嵯峨野に二十年間住まい、寝殿などの増築や中国の洞庭湖に模して東西二百メートルもある大沢池をつくり、池泉舟遊式庭園が造園された。その北側には、藤原公(きん)任(とう)の歌「滝の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなお聞こえけれ」で有名な名(な)古(こ)曽(そ)の滝が造られている。百済からの渡来人が造ったと言われており、水落石の石組みが今に残る。

 弘法大師を敬慕していた嵯峨天皇は、大師が死期の近いことを申し述べると、ご自分の喪礼のことを大師にお願いしたかったと仰せられた。すると大師は、崩御の折には陛下の願いの如く相計りますと応えられたという。

 嵯峨天皇は、弘法大師入定後七年目に五十七歳で崩御されるが、その棺は、赤い衣の八人の者が天下り嵯峨野の木の上から雲の中へと持ち去られた。そして、高野山の大塔の後ろに飛来すると、大師が奥の院禅定窟からお出ましになり弟子らと共にお棺を荼毘にふし葬ったという伝説が残っている。

 離宮嵯峨院は、嵯峨天皇崩御の三十年後、貞観十八年(八七六)、嵯峨天皇の長女で、淳和帝(じゆんなてい)の皇后であった正子が、政争によって廃太子となっていた第二皇子の恒(つね)貞(さだし)親(しん)王(のう)を初代の住職恒寂法親王(ごうじやくほつしんのう)として、嵯峨帝と淳和帝の威徳をしのび、寺院に改め、初めての門跡寺院・大覚寺として再出発することになったのである。

 当時、田地が三十六町あったと記録されている。因みに恒寂法親王は、丈六の阿弥陀像(立ち上がったときに四メートル八十センチのご像)を造ったと言われるが、当時から、大覚寺の中心は、嵯峨天皇の『宸筆般若心経』であった。つづく   (全)


 四国遍路行記E
最御埼寺から神峰寺
(平成二年三月から五月)


 弘法大師は四国での修行の後、唐に行く。本格的に真言密教を学ぶために。はっきりと目的を定めて意中の人、青龍寺の恵果阿闍梨(けいかあじやり)と出会い、悉く密教を授かって帰国する。その後四国をお参りして歩いたときに、御蔵洞(みくろど)での求(ぐ)聞持法(もんじほう)の成就を思い出されて、この地に虚空藏菩薩を本尊に造ったお寺が二十四番最御埼寺(ほつみさきじ)だ。

 岬をぐるっと回って坂道を上り、石段を上がって最御埼寺に参る。山門を入り手前に大師堂、奥に本堂が位置する。境内は岩場でなだらかに傾斜していた。読経を済ませると、すでに夕方に差し掛かっていたが、先を急ぐ。

 国道に降りて、国道五五号線を高知に向け歩く。二十五番津照寺(しんしようじ)は六キロとある。だんだんと暗くなってくる。六キロなどすぐだ、と思って歩くので、とても長く感じた。

 室津港を左に見て突き当たりを右に曲がると津照寺の石段が見えた。石段手前のベンチを今日の寝床にすると決めた。翌朝、夜露で寝袋が濡れていた。石段を上がり、本堂にお参りする。

 本尊は延命地蔵菩薩。本堂は鉄筋の現代風の建物ではあったが、護摩を焚いた残り香が匂ってくるような拝み込んだ雰囲気と本尊様の存在感を感じた。本堂から太平洋が一望できる。さすがは海上安全を祈願するお寺に相応しい眺めであった。

 二十六番金剛頂寺は、国道に戻って五キロの地点にある。大きな駐車場から石段を上がるとコンクリートの打ちっ放しの大きな本堂が見えてきた。屋根は本瓦がのっている。堂々とした造りだ。ゆっくりとお経を唱える。

 また国道へ戻り歩く。二十七番神峰(こうのみね)寺までは二十九キロもある。途中昼すぎ頃食堂に入った。網のケースからおかずを出してご飯と汁を取って食べる昔ながらの食堂だった。自分の家で食べたようなお袋の味。ゆっくり食べて、トイレを済ませてお勘定。

 代金を小銭で支払うと、そのお金を受け取られてから、そのうち二百円だったか「はい、お接待です」と言われて返して寄越した。何とも申し訳ない思いがしたが、「ありがとうございます」と言って頂戴した。こういう事の繰り返しだと、食堂に入るのにも気が引ける。だからついついお店でおにぎりやパンを買って済ませることが多くなってしまう。

 神峰寺を目指して歩くものの夕刻が迫ってきた。まだ神峰寺のある安田町の隣町田野町あたりで、今日のお宿はどうしたものかと考えていると、駅を過ぎて町並みがとぎれた辺りに国道からすぐ右上に小さな神社があった。

 細い階段を上がると猫の額ほどの境内に出た。小さな社があって、無人であった。水道もある。丁度先に仕入れておいたお弁当の用意もある。手と顔を洗い、腹ごしらえをして、静かに中に入って寝袋を開いた。

 昔は、よく僧侶が神社で修行をしたという。神仏習合と言い、だから今でも日本人は神仏を一緒に参る習慣がある。神亀二年(七二五)大分県の宇佐八幡宮に僧侶が住み、社僧(しやそう)として神前で読経するのが習慣化して神仏習合が始まった。

 以来江戸時代まで続けられてきた。一千年にも及ぶこのような伝統に基づいて、私たち日本人の信仰は形成されたのであった。だから、古い四国遍路の札所には神社も含まれていたと言われている。

 翌朝は、五時頃起きた。誰かお参りに来ても、外で迎えられるように、目を覚ますとすぐさま荷物もろとも外に出た。薄暗い中で顔を洗い、衣を着込む。寝袋を畳み、荷造りをしてすぐにでも歩き出せる用意をしてから、神前で般若心経一巻。一宿の御礼に心をこめて唱えさせていただいた。

 海岸沿いに国道を歩き、山側に開けたところができたと思うと、大きな鳥居が目に入った。神峰神社の一番鳥居だろう。そちらに向いた道にはいる。

 そして、それから、ひたすら蛇腹折りの登り道。筍の季節だったのか、竹藪の前に軽トラが止まっていた。ふと後ろを振り返ると、太平洋が青々ときれいな色を湛えている。

 さまざまな石の記念碑が見えだすと、神峰寺の山門があり、納経所があった。本堂は、そこから、また上に百五十段もの石段を上がる。その前に、石段下から噴き出す清水をいただく。神峰の名水だ。汗を吹き出しつつ、石段を上がる。本堂は、新しい木の香りが匂い立つようだった。本尊十一面観音。大師堂には、大きな等身大のお大師様がおられた。

 この翌年歩いたときには、神峰寺で夕刻を迎えた。ご住職に、「ひさしでもお貸し願いたいのですが」と申し出ると、こころよく、納経所の畳で寝るように言われた。

 お言葉に甘え、畳に寝袋を開き、寝かしてもらった。翌朝起き出すと、なんとご住職がお盆に朝食をのせて持ってきて下さった。誠に申し訳ない思いで頂戴した。

 実は、数年前地元神辺のお寺さんがたとのバスによる団参で神峰寺に参拝した折、ご住職にお会いした。私は、その時とっさに思いつき十年以上前の一宿一飯の御礼を申し述べた。すると「ああ、そうかい、元気でな」と、まことに素っ気なく言われてしまった。神峰寺では、そんなことは日常茶飯事のことなのか、それとも、そんな礼を言われるためにしていることではないよということであったのか。それにしても、私にとっては誠にありがたいお寺である。         (全)


 塔婆とは何か?
塔婆にまつわる四方山話


 幅三寸ほどの細長い板になった塔婆を、みんな塔婆と言い習わして、何か法事をした印のように思っている。正確にはと言うか、正式には卒都婆(そとわ)という。卒都婆とは、仏塔を意味するインドの言葉・ストゥーパが中国で音訳された言葉である。

 ストゥーパは、もともとインドのマディヤプラデーシ州都ボパールから六十七キロの所にある有名なサンチーの仏塔のように、土饅頭型に土やレンガを盛り上げたものであった。

 そして、その仏塔の頂上には、方形の玉垣と台座があり中央に傘のような心柱が取り付けられている(左上写真参照)。心柱は天と地を繋ぐ宇宙軸であり、仏教では菩提樹を表し、台座はお釈迦様が悟りを得られた金剛座を意味すると言われている。それは日本の仏塔にも九輪や水煙、露盤となって継承されている。サンチー第一塔は、高さ十六.五メートル、直径三十六.六メートル。

 因みにサンチーの仏塔には、現在お釈迦様の高弟サーリプッタ(般若心経に登場する舎利子のこと)とモッガーラーナ(お盆のお経に登場する目連のこと)の遺骨が納められている。

 これは、英国統治時代を経て、戦後、一九五二年十一月ネルー首相の時に、歴史的な式典を催して納骨された曰く因縁のものだと聞いた。

 その時、私のインドの師ダルマパル・マハーテーラ(大長老)は、若き日にその祝典に立ち会い、ネルー首相と親しく言葉を交わした。その時の写真が当時の新聞に大きく掲載されていたのをカルカッタで見せていただいたことがある。加えて、その歴史的な意義、仏教徒にとってどれだけ重要なものかを説く文章を執筆され、そこに署名入りで掲載されていた。

 そしてお釈迦様の生誕二五〇〇年に当たる一九五六年、その年のブッダ・ジャヤンティ(お釈迦様の誕生と成道と涅槃を祝う式典)は、ネルー首相によって国を挙げて盛大に開催され、以来その日はインドの祝日とされた。しかし誠に残念なことに、後にその仏教徒の祝日はカレンダーから削除され今日に至っているのだが。

 さて、本題に戻ろう。かくして、このサンチーの仏塔に代表される、もともと土饅頭型であった仏塔は、後に様々な形に変形する。たとえば、お釈迦様が初めて説法された聖地サールナートのシンボル、ダメーク・ストゥーパは、今日では上にレンガを積み重ねて、大きな円形の二重の土壇となり、周りに様々な造形が彫刻されて、上が少し尖った姿になっている。高さ四十二メートル、直径二十八メートル。

 そしてインドから中国に至ると、四角や六角、八角の屋根がつき、それが五層から十三層など幾重にも重なり細長い塔となる。日本に来ると五重塔、七重塔という姿に変形する。

 また、真言宗寺院に見られる多宝塔は、屋根は二重ではあるけれども、その間に特徴的な丸いドーム型の胴があり、おそらくこれは、五輪をイメージしたものなのであろう。チベットの仏塔もこのような五輪を意識した形をしている。

 五輪とは、宇宙の真理を身体とする毘廬舎那如来(びるしやなによらい)(大日如来)をあらわしており、上から、宝珠・半円・三角・円・方形を重ねたものである。この五輪を石で刻んだ五輪塔は、日本では今日、先祖墓であるとか、僧侶の墓として、よく目にすることができる。

 そして、この五輪塔を板で拵えたものが塔婆と言われるものである。だから上の部分が五輪に似せて刻まれている。では、この塔婆をなぜ法事の際に建立するかと言えば、塔を建立することが仏教を広め、その教えにまみえた人々を幸福に導くシンボルとして功徳あるものだからである。

 昔、お釈迦様入滅後二〇〇年頃に登場するマウリア王朝のアショーカ王は、それまで八カ所に納められていたお釈迦様のご遺骨を一度集めて八万四千に分け、そしてそれらをインド全国に仏塔を建立して祀り、その近くには岩や石柱に仏教の教えを刻んだと言われる。

 冒頭に述べたサンチーには、お釈迦様は一度も訪れなかったが、アショーカ王が大ストゥーパを造り、この地で生まれた王子マヒンダが出家したため、僧院を建てた。そうして、沢山の仏塔をインド全国に建立することによって、それまでガンジス河中流域の一部の地域にしか広まっていなかった仏教がインド全域に広まったのであった。

 その故事に習って塔婆という、細長い板に梵字や精霊の戒名を記した簡易な仏塔を建立し、仏教を伝え広めて人々を幸せにする功徳を、今は亡き精霊に、また先祖に差し上げる、回向するために塔婆は建立されるのである。(全)


《断食に学ぶ》
常識を疑う発想



 昨年の九月頃、咳が出て喉が腫れ、風邪の兆候から喘息を引き起こし、数日一日中咳が止まらないほどのしんどい思いをした。これまでなら医者に行って薬をもらい栄養を補給して養生するところであったが、一昨年からのこの繰り返しに何かもどかしい思いがあった。

 明日にはやはり医者に行かねばと思っていた晩、夕飯の食膳を前になぜかこの食事も薬も摂らなければ良くなるのではないかという思いを抱いた。別にその食事の内容が悪いのではない。ただ断食することによって治るのでないかという漠然としたインスピレーションに過ぎなかった。

 だが実際、次の朝には嘘のように喉が楽になっていた。その日も食べず、三日目の朝にはすっかり体も楽になって時折咳が出る程度まで回復した。熱っぽかった体も回復し喉の腫れも引いていた。

 実は、かつて高野山で四度加行(しどけぎよう)中に、百日間の修行の最後の一週間を前に、やはり同じような症状に見舞われて、それでも以前から決めていた一週間の断食を行った。体力が持つかと心配されたものの、そこまでの段階でも朝昼の二食にしていたが、全く食べなくなってからの方が体が楽になり、喉の腫れや咳も収まり、結局難なく一週間を乗り切った。

 その時、人間は食べなくては生きられないものの、この食事による食べ物の消化吸収に大変なエネルギーを消費しているのだということが分かった。だから断食中、ものすごく精神がとぎすまされていった。横になって目を閉じていると周りで何が起こっているかが知らず知らずのうちに分かり、人の足音にその人の顔が思い浮かぶということもあった。食べないでいると食べることに普段使われているエネルギーが精神面に向かい、不思議なことがいろいろと起こるようだ。

 勿論、そんなことを思い出してこの度断食したのではなかった。実は、一昨年、ここ神辺の文化会館で、楽健法という足踏みマッサージ法の創始者で、またプロの役者として芝居をなさっている奈良県櫻井市東光寺のご住職山内宥厳先生の一人芝居「がらんどうはうたう」を拝見した。

 その内容が、私には正に聴衆の心の中にジリジリと迫り訴えかける説法そのものと思われた。公演後ご挨拶させてもらい、その後、ご自身も喘息を患われた経験から、食を細くするようになどといくつかのアドバイスを頂いていたのだった。

 そんな言葉が心のどこかにあったお陰で、断食に踏み切れたわけではあるけれども、この度の経験は、病気というのは薬と栄養を摂って養生するものという思い込みや常識の逆を行うことであった。しかし考えてみれば、本来仏教とは世間の常識の逆を語るものであったということに改めて気づかされた。

 私たちは誰もが健康で長生きをしたいのであって、その為に健康食品を食べたり、栄養のある食材を集めたり、大変な努力を払うけれども、お釈迦様は、すべては無常だと言われる。みんな誰しも病気にもなるし、いずれ死が訪れるものだと。

 また楽(らく)をして楽しく暮らしたいと思う私たちに向かって、人生は苦だと言う。楽しい思いをしている時間としんどい思い、つらい思い、退屈な思い、思い通りにならずに苦しんでいる時間を比較したら、やっぱり苦ばかりではないかと。

 いい車に乗り、立派な家に暮らし、上等な服にアクセサリー、何もかにも欲しくなる私たちに向かって、本当は自分の物なんかないよと、みんないずれ失ってしまうのだし、自分と思っている自分自身だって思い通りにならないではないか、つまり無我だよと、だから執着しなさんなと言う。

 勿論だからと言って、簡単にお釈迦様のように悟れるものではない。しかし、困ったときは思い込みや常識だと思っていることと逆のことをしてみると意外とうまくいくこともあるのかもしれない。

 何でも人の言うこと、テレビで言うことを鵜呑みにし、世間の物の見方や考えに流され、何でもいいと言われたことをしがちではあるけれども、すべての常識を疑ってかかる事も大切なことなのであろう。考えてみれば、常識とは普通の人々の考えに過ぎないのだから。

 それにしても改めて断食して思うことは、食べるということがいかに人間にとっての楽しみであり、欲を伴うものかということ。食べられるということが今の時代当たり前のように思ってはいるけれども、いかにありがたいことであるかと思えた。    (全)


いざというとき困らないための仏事豆知識A

『通夜』
 亡くなられたのが朝早くであれば、その日の晩、ですが普通は次の日の晩にお通夜が執り行われます。亡くなってから二十四時間経過しなければ埋葬または火葬することができないからです。

 今日では、通夜の前に納棺するので、その際に、湯灌が行われ、女性であれば、薄化粧を施します。その後死装束をつけお棺に安置されます。簡略化される場合もあるようですが、昔は、白い経帷子(きょうかたびら)を左前に着せ、頭巾に手甲、脚絆、白足袋に草履。頭陀袋には六文銭を入れて首にかけ、両手は合掌し数珠をかけます。杖も入れてあげました。

 三十年以上前ですが、祖母が亡くなったとき、まさにこのように厳粛に死装束を着せていた様子を思い出します。

 また、この装いは、四国巡礼の服装持ち物そのものでもあるのですが、これは四国遍路が、死装束で歩き、結願して、新たに生まれ変わる再生の儀礼であることを表しています。

 お棺は、頭を北、または西に向けて置かれ、上には守り刀が置かれます。北枕は、ご存じの通りお釈迦様が亡くなられたときに北に頭を向け顔を西に向けておられたことからなされる習わしです。

 ところで、北枕で普段寝ることは、縁起でもないと敬遠されがちではありますが、本来身体生理上とても健康的な寝方であり、以前禅宗のお寺に座禅に行ったときには和尚さんはじめ全員が北枕で寝ていました。

 その間、葬儀の日程も含め、近隣縁故者に連絡をしたり、火葬埋葬許可証をもらうために、死亡診断書を添えて死亡届を役所に提出したり、葬儀社との打ち合わせなどで、通夜はあわただしい中で迎えることになります。

 通夜は文字通り夜を徹して故人を見守り、さまざま生前の思い出などを語りつつ近親者だけで故人を偲ぶのが習慣でした。近年では、通夜も会館を使用したり、葬儀に参列できない人たちが出席したりして盛大に行われ、逆に時間は短縮される傾向にあります。しかし通夜には灯明線香を一晩中灯しておくのが習わしです。ですから、どなたかが起きて番をしているようにして順番に休まれるようにしたらよいでしょう。

 通夜式も葬儀式も、祭壇は今日では葬儀屋さんがすべて用意してくれますが、祭壇の中央に白木の位牌、その前に仏様と故人のためにお霊供膳を二膳お供えします。

 仏様から見て、手前に箸、左に山盛りの御飯、その右に精進のお汁、お汁の前に生の野菜をもちいた酢の物、その左に煮物。高野豆腐や椎茸その他野菜を盛りつけます。そして中央の器には煮豆を用います。

 それからお茶湯をやはり二つ。それに塔婆や置き布、供具と言ってお米の粉を湯でといたり蒸したりして団子を二つ三つ拵えたり、または先の尖った大きな団子を一つ供えます。 (全)


〈おたより〉
 
『仁王門』 

 松並木の参道を進むと、眼前に山門が現れる。鄙には稀な堂々とした山門である。

 寺伝によると、仁王門建立は元文五年(一七四一)とあるから本堂再建から五十年ばかり後で、築二百六十年ということになる。

 山門には一対の仁王が安置されている。仁王は伽藍や仏の守護のために寺門の両脇に安置される力士像で、二王、金剛力士とも呼ばれる。向かって左側は口を開いた阿形像で右手には金剛杵を持ち、左手を大きく開いている。

 もう一方は口を閉じた吽形像で、右手を大きく前に突きだし、左手に金剛杵を持っている。(今は金剛杵がなくなっている)どちらも筋骨隆々とした朱色の半裸像で、眼光鋭く忿怒の表情は今にも動き出しそうな迫力がある。

 仁王像と言えば、鎌倉期に再建された東大寺の南大門に安置されている運慶、快慶作と伝えられている金剛力士像がよく知られている。通常の仁王の配置とは左右が逆で、南大門に向かって左が阿形像、右が吽形像で、二体が向き合うのも他に例を見ない。國分寺の仁王像の配置も、東大寺の南大門の仁王像の配置に倣ったものと思われる。

 像を囲む格子には大小の草履が奉納されている。仁王は健康の象徴で脚や旅の守護神とも言われている所以であろう。
 門額の「國分寺」は、清巌第五十三世大覚寺門跡の書である。 (B)                      


お釈迦様の言葉(Voice of Buddha)−十八


『不放逸を喜び、放逸を恐るる托鉢僧は、
 み細なものでも粗大なものでも
 すべての心のわずらいを
 焼き尽くしながら歩む。』(法句経三一)


 昔、網代傘に脚絆、草鞋を履いて、浅草の浅草寺と銀座の数寄屋橋の二カ所で週に三度ほど、托鉢していたことがあります。

 ときバブルの絶頂期。二時間ほどで、小さな鉢が一杯になりました。近くに誰か通れば入れてくれるだろうか、入れてくれれば自然と頭が下がり、また想い出に浸ったり、先のことを心配したり。暑いの寒いのと思いが生じました。

 それでも、何とか正面に視線をとどめ、一つ一つの呼吸に心を落ち着かせながら静かに立ち禅をしていますと、自ずと多くの方が入れて下さり、気がつくと鉢の中が一杯になっているということもありました。

 心の中に生じてくる様々な心のわずらいのすべてを焼き尽くし、何も思わない考えない、ただ鉢を持って立っている自分の、その時その時の瞬間に生きられたら、それこそ真の托鉢僧と言えるのでしょう。

 過去のこと未来のことに思いわずらい、余計な妄想の中に生きる私たちではありますが、今のことに心とどめる不放逸こそが喜ばしいこと、つまり真に幸せに向かう道だということを教えてくれています。   (全)

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平成二十年度 國分寺年中行事
│ 月例御影供並びに護摩供      毎月二十一日
│ 土加持法会               四月六日
│ 正御影供並びにお砂踏み      四月二十一日
│ 四国八十八カ所巡拝(土佐)      五月八・九日
│ 万灯供養施餓鬼会           八月二十一日
│ 高野山参拝               十月九・十日
│ 四国八十八カ所巡拝(土佐伊予)   十一月六・七日
│ 除夜の鐘                十二月三十一日
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 ◎ 座禅会    毎月第一土曜日午後三時〜五時
 ◎ 仏教懇話会  毎月第二金曜日午後三時〜四時
 ◎ 理趣経講読会 毎月第二金曜日午後二時〜三時
 ◎ 御詠歌講習会 毎月第四土曜日午後三時〜四時
中国四十九薬師霊場第十二番札所
真言宗大覚寺派 唐尾山國分寺
〒720-2117広島県福山市神辺町下御領一四五四
電話〇八四ー九六六ー二三八四
FAX〇八四−九六五−〇六五二
郵便振替口座01330-1-42745(名義國分寺) ご利用下さい
● 國分寺ホームページ ブログ・住職のひとりごと
http://www7a.biglobe.ne.jp/~zen9you/ より

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