備後國分寺だより
備後國分寺 寺報[平成二十年盆月号] 第二十号

 備後國分寺だより

発行所 唐尾山國分寺寺報編集室 年三回発行


NHKスペシャル
『死と再生の四十九日』を見て

 NHKスペシャル『チベット死者の書ー輪廻転生の死後の世界を見せる初のドラマ・死と再生の四十九日』を見た。一九九四年に制作された特別番組のビデオ版である。脚本には宗教学者で、かつてチベット仏教の修行を積まれた中沢新一氏が担当している。カナダ、フランスとの共同制作でもある。

 八世紀にインドからチベットに仏教を伝えた密教行者パドマサンバヴァは修行の末書き記した膨大な経典をヒマラヤ山中に埋めてしまった。それらを埋蔵経と言い、それは世の中に必要なとき出現すると言われていた。その一つに、チベット死者の書と呼ばれる『バルド・トドゥル』という、人の死から再生までの四十九日間のありようを記した経典がある。

 第一次世界大戦の最中、英国の人類学者エヴァンス・ヴェンツがインド・ダージリンのバザールで偶然この『バルド・トドゥル』を発見して英訳。死はすべての終わりとする当時の科学観に疑問を感じていた心理学者C.G.ユングは、それを読んで、根本的な洞察を得たという。

 そして第二次世界大戦後は、アメリカで勃興したベトナム戦争に反対する若者たちにバイブルとして受け入れられた。現代では、臨死体験の研究やホスピスなどの臨床現場でのあり方、人の死をどうとらえ考えるのかを考察する上で、この死者の書の価値が見直されているといえる。

 番組では、一人の中年男性が亡くなるところへ老僧と少年僧が訪問するシーンから物語が始まる。

 亡くなろうとする人を前に泣き叫ぶ家族親族に向かって、「泣くことは何の役にも立たない、死にゆく者の意識を混乱させるだけだ」と老僧がたしなめる。そして、頭を北に右肩を下に横向きに身体を寝かせる。そして亡くなると、死者に向かって、「死のバルド(バルドとは途中ということで、中有のこと)」を語る。

 老僧は、「よくお聞きなさい。間もなく呼吸が止まる。すると目の前にまぶしい光が現れる。その光と溶け合うのだ」と語りかける。

 チベット仏教では、死後に現れるこの光を生と死を超越した根源の光と捉え、命の本質、命の流れである心の本質でもあるとも考え、その光と出会うことはまさに悟りのチャンスであるとする。

 しかし、教えを学んだり実践していなかったこの死者は、その光を避けてしまい、そのチャンスは潰えてしまう。

 そして死後五時間ほどで、意識と身体の分離が始まる。まさに臨死体験の報告のごとくに、死者の心は身体から離れ、部屋の中をフワフワと飛び回る。ベッドには自分の遺体が横たわる。誰に話しかけても聞こえていない。

 老僧は、「この世に執着を持ってはいけない。この世に留まることは不可能なのだ。現れる光を怖がってはいけない。光も色も音もそなたの意識の投影に過ぎない」と語る。
 
 死後四日目から二十日までを「心の本体のバルド」という。

 この間には、死者の心から発する光が様々な仏の姿として現れるという。群青色をした大日如来はじめ様々な優しい寂静尊、恐ろしい姿の忿怒尊などが現れる。それらの光は厳しい修行によっても見ることがあり、その光や仏の姿のその奥にある心の本質に至るために修行はなされる。それと同じ光を死後体験することになるが、ふつうの人々は、その光ではなく、解脱を邪魔する、ほの白い魅惑的な光が現れて幻惑されてしまう。

 二十日目に死者の部屋にやってきた老僧は、『バルド・トドゥル』を読経する。そして「今日は地獄の神ヤマ王がやってきます」と宣言する。

 そして死後二十一日目から四十九日までが、「再生のバルド」となる。

 死者の意識は、それまでの解脱のチャンスを逃してなお、晴れやかに、世界を自由に飛び回り、全能の身体が備わったような気分になる。しかし突然途方もないむなしさや寂しさに襲われて、再び生まれ変わりたいという気持ちを抱く。

 ふたたび死者の部屋を訪れた老僧は「観音菩薩の方へ向かいなさい、六つの輪廻に落ちることなく」と叫ぶが、死者の心にははっきりととどかない。

 四十九日目、死者の心には、畜生や餓鬼、人間界などの六道の世界がイメージされる。そこで悪趣と言われる私たち人間界よりも下の世界に行こうとする死者に向かって、「そこに入ってはいけない、少なくとも人間に生まれ変わって何度も何度も悟りを目指して生きていくのだ」と叫ぶ。

 私たちは、たった一人として、たった一度の命を生きているのではない。何千何万回もの輪廻を繰り返し、再生を重ねていく。だからこそ、すべての命が、前世をさかのぼれば、父母であり兄弟であったかもしれないと考えられる。そう考えてこそ、命そのものが限りなく切なく愛おしい、壮大な優しさである慈悲の心が生まれる。

 死者が人間界に再生したことを知った老僧は、最後に、「死のむこうにある心の本質を知ることができたら、その生には意味があった。それができなければ無意味なことを積み重ねたに過ぎない」と語る。

 つまり、私たちの生きる目的はその心の本質を知ること、つまりは悟りの心を学び、そこへ近づくことだということになる。

 そして、「誕生の時、おまえは泣き、全世界は喜びに沸く。死の時、全世界は泣き、おまえは喜びに溢れる。かく生きるのだ」と少年僧に諭す。

 私たちも、死を迎えるとき、何の怖れも不安も抱くことなく、人生に納得し、喜んで死を迎えられるよう生きたいものである。

 このNHK制作のドラマは、チベット仏教に則った内容になっているとはいえ、仏教徒として学ぶこと多く、多くの日本人が見るべき内容を含んでいると言えよう。

 実は、今年二月に開かれた、大覚寺派中国教区教学研修会に、講師として招かれた高木、元・元高野山大学学長に、このことを質問した。つまり、私ども真言宗では、あまりここで問題となる輪廻や再生のことを説くことなく、逆に即身成仏と言い、誰しもが死後すぐに成仏するかの如く説かれるが、いかがなものかと。

 すると先生は、「人の生き死にに、チベットも日本もありません。チベットの仏教は同じインド密教を継承する教えであり、そこで説かれる人の生死が私たちの教えと異なることはあり得ない。私たちもみな輪廻の中を生き死後再生することに変わりはありません。」このようにお答えになったと記憶している。

 現代の日本にも、通夜葬式の後、四十九日の法要までの間、七日参りの風習がある。そのお勤めは、ここに紹介した内容との違いこそあれ、とても意味深い死者を来世に導く機会となっているのであろう。       (全)


大覚寺の研究二

 恒寂法親王(ごうじやくほつしんのう)歿後、仁和寺を開く宇多法皇がたびたび大覚寺に参詣し、詩宴を開いた。その弟子であった寛空(かんぐう)が大覚寺第二世となり、その後、三世定昭が興福寺一条院の出であったが為に、二九〇年ばかり一条院が大覚寺を兼務することになり、藤原姓の住職が続く。

 鎌倉時代、文永五年(一二六八)後嵯峨天皇が落飾して、素覚と名乗り大覚寺に住職され、後嵯峨天皇の子亀山帝がその後に続き、門跡寺院として復活。

 そして、さらにその子である後宇多上皇が徳治二年(一三〇七)に寵愛していた妃・遊義門院を亡くされた哀しみから仁和寺で出家。金剛性と号して、大覚寺に遷られ法皇となり、大覚寺で、四年間にわたって仙洞御所として院政を執られたので、大覚寺は「嵯峨御所」と呼ばれるようになった。

 この頃、承久三年(一二二一)承久の乱と言われる後鳥羽上皇を中心とする公家勢力が幕府打倒の兵を挙げるという事件があったため、皇室の結束を弱めるために幕府が皇位継承に干渉するようになる。幕府は、皇統や所領の継承を二分する調停を行い、亀山・後宇多の皇統は、後嵯峨、亀山、後宇多の三人の天皇が大覚寺に門跡として住したことにより大覚寺統(南朝)と称された。そして以後、後嵯峨天皇第二皇子の後深草帝の持明院統(北朝)と争うこととなる。

 持明院とは、京都上京区にある藤原道長の曾孫、基頼が建てた邸内の持仏堂のことで、後深草天皇が、譲位後御所としたことから後深草天皇の系統を持明院統という。

 その後、両統迭立(てつりつ)の和談が調い、後宇多帝の第二皇子後醍醐天皇が即位すると、後醍醐天皇は、天皇親政の理想を掲げ、討幕運動を起こし、足利尊氏、新田義貞が参戦して、一三三三年に幕府を滅ぼし、天皇親政の建武の新政を実現する。

 治世の権を息子に譲った後宇多法皇は大覚寺の再興に尽力され、元享元年(一三二一)ごろから「大覚寺伽藍古図」に見るような、現在地を南端として、北は山裾に至る広大な地に、金堂、御影堂、心経堂、講堂、さらに沢山の子院が取り囲む大伽藍を造営された。

 後宇多法皇は、八歳で皇位につき、二度の蒙古来襲に遭遇し、父亀山上皇と敵国降伏の祈願を行ったと言われ、幼くして霊感強く仏教に帰依されていた。誠に信心深く、特に真言密教の奥義を究めたと言われる。

 仁和寺の禅助から伝授された密教の教えに関する聖教類など密教史上きわめて貴重な多数の書き物、加えて法皇自らが筆を執って書写されたものが多く残されている。法皇撰による宸翰(しんかん)「弘法大師伝」、「御手印遺告(ごていんゆいごう)」など、国宝として大覚寺に収蔵されている。

 こうした大伽藍の造営に見られるように、大覚寺とまた真言密教に寄せる並々ならぬ信仰から後宇多法皇は大覚寺中興としてたたえられている。しかし、誠に残念ながら、後宇多法皇逝去後わずか十二年にして、延元元年(建武三年・一三三六)足利尊氏によって火を放たれ、ほとんどの堂舎を失ってしまった。

 建武の新政は、武士かたの論功行賞などに対する不満から反乱が起こり、三年で崩壊。後醍醐天皇は吉野に行宮(あんぐう)を営み、足利尊氏は持明院統の光明天皇を仰いで室町幕府を開いた。その後六〇年あまり南朝北朝に皇統が別れていたが、元中九年(明徳三年・一三九二)には大覚寺の「剣爾の間(けんじのま)」で南北講和が行なわれた。

 南朝の後亀山天皇は、北朝の後小松天皇に三種の神器を譲って大覚寺に入った。しかし、和議の条件が果たされなかったため、応栄十七年(一四一〇)、後亀山上皇の吉野出奔以後、南朝の再興運動が起こり、大覚寺もこの運動に深く関わっていく。

 大覚寺はその後、後宇多帝、亀山帝など天皇を父に持つ門跡が続いた後、足利義満の子であった義昭が住職の時、兄将軍義教に対する謀反を起こしたとされている。これは、世に大覚寺門主義昭の乱と言われた。そしてその後、大覚寺は南朝再興と将軍職継承問題も絡めた政争の中に翻弄される。

 ところで、このころ十四世紀半ば頃から、疫病が蔓延したりすると、嵯峨天皇宸筆紺紙金字の『宸翰般若心経』が大覚寺から借り出されて、人々がこの般若心経を飲んだと言われる。宸筆心経の欠損が甚だしいのはそのためと言われ、十五世紀後半からは拝見だけされるようになったという。

 戦国時代に入り、応仁二年(一四六八)九月、応仁の乱により、ほとんどの堂宇を焼失。その後摂関家からの門主が続き、天正十七年(一五八九)、皇族から空性を門跡に迎えて、衰退した大覚寺の再建にとりかかり、寛永年間(一六二四〜四四)には、ほぼ寺観が整えられた。

 空性の後、後水尾上皇の弟尊性の頃から、茶の湯、文芸など華やかな文化サロンとして高貴な人々の交流の場となっていたことが、保存されている当時の皇族公家の書状から伺われる。

 そして、その後四代近衛家から門主が出て、江戸末期、天保八年(一八三七)に、有栖川宮家の慈性法親王が二十歳で門跡になると、その四年後に嵯峨天皇一千年忌を催し、その翌年には、東大寺別当を兼務。さらには、勅命によって江戸寛永寺に住まい、日光にある輪王寺の門主となって天台宗の座主をも兼ねることになる。

 これは実の弟輪王寺門主公紹の急逝によるものではあったが、真言宗の僧が天台宗の管長になるという誠に異例の人事であって、慈性法親王に強いカリスマ性があり、将来倒幕の旗頭とあることを怖れた幕府の策謀であったと言われている。

 慈性は大覚寺最後の宮門跡であり、大覚寺の興隆を第一に、心経殿の再興を願っていた。江戸へ下向する日、勅使門・唐門から出た慈性は名残惜しそうに何度も振り返ったと言われ、「おなごりの門」と別名されている。

 十年ほどで帰山すると言い残された慈性ではあったが、結局、隠居願いが聞き届けられたのは、二十年あまりの歳月が過ぎていた。そして、輪王寺から帰る準備中、明治になる前年、上野の森で亡くなられた。暗殺に違いないとも噂された。   つづく (全)


大法輪平成十九年十二月号
特集・真理への道
ブッダの名句・名言 掲載


(ダンマパダ、スッタニパータなど初期仏典偈文を解説したものです)

貪りを離れる

「この世の中を見よ。王者の車のように美麗である。愚者はそこに耽溺するが、心ある人はそれに執着しない。(ダンマパダ 171)」

 お釈迦様が出家してお悟りになる前のこと、マガダ国のラージャガハを托鉢するお釈迦様の常人らしからぬ態度風貌に目をとめたビンビサーラ王は、わざわざお釈迦様の住まいするところに赴き、「汝の欲する俸禄を与えよう。由緒ある汝は、かの象軍を先頭とする精鋭なる軍に参加するがよい」と仕官を勧めたのでした。これに対し、お釈迦様は「私が出家したのは欲望を求めるためではなく、諸々の欲望のわざわいを見つくし、欲望を離れることこそ安楽であると思うが故に、その道に精進しようと私は思う」と答えられました。

 世俗の欲得の中に暮らす人々とは違う別の生き方を求め、それが欲望を離れる道であると示されました。何の束縛もない最上の幸福を目標に、貪りを離れる実践道こそが仏教なのだと言えましょう。

「利益を欲して学ぶのではない。利益がなかったとしても、怒ることがない。妄執のために他人に逆らうことがなく、美味に耽溺することもない。(スッタニパータ 854)」

 何かになるためであったり、実利のためであったり。私たちの普段していることは、自分の利益のためにしていることばかりなのかもしれません。何をしても見返りを欲し、ねぎらいや賞賛を求めていたり。

 自分の考えや見識にこだわり諍いを起こしたり他に逆らうのも、美味しいものに夢中になり不健全な生活をするのも自分の存在や自分の感覚に執着し、自己の利益に翻弄されているに過ぎません。

 この偈文はどのような戒律をたもつ人が安らかな人と言われるのか問われ、お釈迦様がお答えになった経典の一句です。世俗の名聞利養を超越して、それらを手放すことに喜びを感じる、より徳の高い幸せを求めるべきことを教えています。

「子女ある者は子女について憂い、また牛ある者は牛について憂う。実に人間の執着するよりどころは憂いである。執着するよりどころのない人は、憂うることがない。(スッタニパータ 34)」

 一人インドを旅したとき、駅でトイレに行ったり、列車に乗っているときでも、たいした物が入っていない自分の荷物に常に注意を払っていました。また指定した自分の寝台を他の人が占領したりはしまいかと憂いていました。

 物があったり、自分の場を確保することで、私たちは満足や安心を獲得します。ですが、実際にはそれらに縛られ、心の多くの部分をそうした自分の執着するものを守ることに費やされているのかもしれません。

 幸せをもたらす子供の誕生も、その瞬間から心配や憂いのもとになります。私たちが執着するものは憂いそのものであり、執着がないほど憂いることがないのだとおぼえておきたいものです。

「人々はわがものであると執着した物のために憂う。(自己の)所有したものは常住ではないからである。この世のものはただ変滅すべきものである、と見て、在家にとどまっていてはならない。(スッタニパータ 805)」

 誰もが我が子の誕生を祝い、かわいく思います。しかしかわいい盛りはつかの間で、すぐに口答えをし、言うことを聞かなくなるものです。それでも、身に危険はないか、けがをしたり事故にあったりはしまいかと、わがものとして執着するがゆえに憂い悲しむことになります。

 しかし、すべてのものは無常なるが故に、いずれはともに死がおとずれ別れていかねばならないのだと賢明にこの世の理を知って、わがものという観念を追い払うべきであると教えられています。普通に暮らす人々と同じように無常なるものに執着していては、いつまでも心の安寧は得られないということを、この偈文は教えてくれています。

「善い友だちと交われ。人里はなれ奥まった騒音の少ないところに坐臥せよ。飲食に量を知る者であれ。(スッタニパータ 338)」

 人間とは誠に弱いものです。見たり聞いたり嗅いだり味わったり触れたりという五欲になじみ、心楽しいもの心地良いものになびきやすいのです。また、他の影響を受けやすいので、なるべく正しい行いをする善い人々と交わることが大切です。

 若い頃、高野山で百日間の修行をしたときには、ともに励む修行僧らと専門道場で寝食を共にしました。そして、新聞、テレビ、電話などに煩わされない環境の中、食事は精進料理で、途中から夕飯を止めて二食にし、また最後には八日間の断食も経験しました。

 食を制限することは、食べ物を消化吸収するために使われる体のエネルギーが精神面に向かい、落ち着いた心の状態を長期間維持することに繋がりました。自分の心を見つめ、貪りを離れるためには、しかるべき相応しい環境の中で励むべきことを教えています。

「現世を望まず、来世をも望まず、欲求がなくて、とらわれのない人、かれをわれは婆羅門とよぶ。(ダンマパダ 410)」

 貪りの正反対の心が布施の心です。好ましい物は何でも自分に引き寄せる貪りに対して、布施の心は自分のものを他と分かち合い、他者に何かしてあげたいと思う心です。

 他に施し布施の実践をすることで、貪りの心を弱めることができます。が、特に貪りの強い人には、自他の身体に対する愛著を滅するために不浄観が勧められています。

 不浄観は、自他の身体を垢や臭気にまみれた不浄なるものと観じたり、段階的に死体が腐乱し朽ちていく様子を観察し、すべての生き物が不浄なるものと観念して貪りの心を滅していくのです。

 不浄観を徹底的に修すると、現世で生死の苦界から解脱したいという心が起こり、欲もなく、悪事をすることもなくなり、来世へ赴く輪廻の因となる生きたいという執着も無くなると言われています。

 ここでの婆羅門とは、バラモン教の司祭者のことではなく、理想の修行者を意味しています。この偈文は、真の仏道修行者とはそのような人を言うのであると教えています。

怒りを離れる

「実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。(ダンマパダ 5)」

 一九九二年十二月、インド北東部のイスラム教の聖地アヨッディアで、過激なヒンドゥー至上主義者たちがモスクに乱入し、建物を破壊する事件が起こりました。そもそもそのモスクは、一五二八年にラーマ生誕の地にあったヒンドゥー寺院を破壊しその上に建てたものだとヒンドゥー教徒は主張したのでした。

 この事件が引き金となり、インド全土でヒンドゥー教徒とイスラム教徒との衝突が繰り返され、多くの犠牲者がでました。お互いが怨みをもって怨みに報いた結果でした。

 世界中で宗教の名を借りたテロ事件が後を絶たない昨今、お釈迦様が示されたこの言葉を私たちは、宗教を超えた人類普遍の真理として受け入れたいものだと思います。  

「われわれは怨みをもつ者たちの間にあって怨みを抱かず、よく心安らかに生きよう。われわれは怨みある者たちの間にあって、怨みを抱かずに生活しよう。(ダンマパダ 197)」

 インドのコルカタにある仏教寺院に併設する小学校では、仏教徒やヒンドゥー教徒に混じってイスラム教徒の子供たちも沢山学んでいます。ヒンドゥー・イスラムの宗教対立が頻発する時勢であっても、寺院の中では、お釈迦様の仏像の前でヒンドゥー教の子供たちもイスラム教の子供たちもともに礼拝し、休憩時間には一緒に境内を駆け回り、笑い声が絶えることはありませんでした。

 一人の人間として何の怨みつらみがなくとも、ひとたび何々教徒などと色分けすることで多くの過ちが繰り返されてしまいます。一人一人を同じ一つの生命として見ることができたなら、何の不快感も生ずることなく反発することもなく、穏やかに過ごすことができることでしょう。

「怒らないことによって、怒りにうちかて。善いことによって、悪いことにうちかて。与えることによって、物惜しみにうちかて。真実によって、虚言にうちかて。(ダンマパダ 223)」

 人の言うこと、することに文句を重ね、自分こそよくあれと他に譲ることもない、つい自分かわいさのあまり嘘をつき悪事を重ねる。これら怒り、物惜しみ、悪事をなした後悔などは、私たちを不幸に陥れる強敵と言ってもいいものです。

 ただ、怒らないようにしようと思っても、そう簡単なことではありません。そこで、怒る心の反対の心である優しい慈しみの心を育て、怒らない心をつくることで、怒りにうち勝つことを教えています。物惜しみする心には、人や他の生き物たちのために物を与えることでうち勝ち、善いことをして悪事に勝ち、真実を述べることで嘘偽りにうち勝つことを教えているのです。

「他人が怒ったのを知ったら、自分(の心)を静かにして(自分が怒ることがないようにするべきである)。そうすれば、自分も他人も大きな危険から身を守ることになる。(ウダーナヴァルガ 20・10)」

 誰かから怒鳴られたり、憤然と何事かを言われたりしたとき、ついその怒りに反発して大きな声で言い返したり、激しく動揺したりしがちなものです。

 それに対して、また言われた側も怒鳴り返す、怒りの応酬を繰り返すことになります。怒りの心をぶちまけることで、まずは、その人自身が大きな苦しみを味わい、それだけで終わらず、周りをも巻き込んでみんなを不快な不穏な気分に陥れます。

 何を言われても、何をされても、それに反応した自らの怒りの心を素早く察知して、次の瞬間には冷静に他のことに心を移すよう心がけねばなりません。そうして、一瞬でも現れた怒りの心が無くなれば、相手の怒りも終息に向かい大きな危険から身を守ることになるのです。

「心が静まり、身がととのえられ、正しく生活し、正しく知って解脱している人に、どうして怒りがあろうか。はっきりと知っている人に、怒りは存在しない」 (ウダーナヴァルガ 20・17)」

 気に入らないことに出くわしたとき、とっさに心静まらない中で、物事の前後関係さえわきまえずに思考し、妄想して、荒々しい言葉を発する怒り。顔は紅潮し、体はこわばり震えます。

 怒りは、物事の因果道理を理解しないがために生じる心です。この世に現れたすべての物事には原因があり、それは様々な条件により結果します。その結果がまた原因となり、次の結果を生じさせていきます。すべてのものがこの因縁の世界の中で存在していることをはっきりと知るならば、怒りの心が現れることがないと、この偈文は教えています。

 ちょっとしたことから怒りの心が生じないために、日頃から常に自らの心を観察する習慣を身につけ、物事の原因と結果をできるだけきちんと冷静に理解するよう心がけることが大切なのです。

「怒りを断てば安らかに寝ることができる。怒りを断てば悲しむことがない。
    (相応部経典T 8・1)」

  怒りの正反対の心が慈しみの心です。好ましくないものを嫌い、拒絶する怒りに対して、慈しみの心は、他を受け入れ共感する心です。

 特に怒りっぽい人のためには、この慈しみの心を育てる四無量心を修行するよう勧められています。
 生きとし生けるものを友として観じ、それらが苦しんでいるときには救ってあげよう、喜んでいるときにはともに喜ぼう、誰に対してもわけへだてなく好き嫌いなく冷静に対しようとする心を育てることで、怒りの心を滅していくことができます。

 そうして誰にも敵対する相手としてではなく、親しみが感じられるようになれば、何を見ても聞いても文句を言い怒りの心が生じていた人でも心穏やかになり、人が困っていれば物惜しみせずに手助けし、人の幸せに嫉妬することもなく、過去になされたことに後悔することもなくなることでしょう。

 そうなれば、安らかに寝ることができ、悲しむこともないと、この偈文は教えています。                                                       (全)


 四国遍路行記F 
 大日寺から雪渓寺
(平成二年三月から五月)

 神峰寺の山門を後に、海を見ながら坂道を下る。水平線がとてもきれいだった。すると一台のワンボックスカーが止まり、白装束のお遍路さんが降りてくる。何事かと思うと、私に「お接待します」と言って、白い紙に包んだ物を下さった。丁重に御礼を言ってお送りし、歩き出す。また、水平線を見つつ歩く。ありがたくて、無性に申し訳なくて涙が溢れた。

 二十八番大日寺までは、三十九キロ。またひたすら、海沿いの国道を歩く。大日寺のある野市町までたどりつき、あと少しというとき、目の前にトラックが止まった。中から奥さんが顔を出し声を掛けて下さった。大日寺まで乗せてあげる、と言う。小雨が降り出したこともあり、ご厚意に甘える。

 少しずつ雨が強くなる。トラックの助手席に座ると、今日のお宿はあるの?と問うので、いや予定がありません、と言うと、知り合いの宿を世話してあげよう、ということになった。

 大日寺の下の道で降ろされ、坂道を上り、お参りする。山門の石段を登ると境内が現れ正面に本堂、左側手前に大師堂。本尊大日如来は行基菩薩が刻んだと伝えられる。雨に降られながら急いで経を上げた。

 大日寺でお参りする間、トラックは下の道で待っていてくださって、ありがたいことに丸米旅館という宿へ連れて行って下さった。新しくはないが、とても小ぎれいな気持ちよい宿だった。

 この日国道を歩きながら考えることは、今日の宿のこと、人にどう見られているか。また将来のことや両親のこと。それに、しんどいので車のお接待を誰かしてくれないかとか、腹が空いたとか、いろいろだ。

 しかし、いろいろ考えているときには何一つ叶うことはなく。そんなことを何も考えずに、ただ足の先を見て歩いていると、突然声を掛けられ、車をお接待されたりする。結局自分の思い通りになることなど、一つもない。ただ歩き、拝んでいれば、他のことがついてくるというにすぎない。そんなことを夜日記にしたためた。

 翌朝、丸米旅館で、久しぶりに心地よい朝を迎えた。衣を着て、脚絆を巻き、草鞋を履く。颯爽と土佐國分寺を目指して歩き出す。土佐くろしお鉄道の小さな電車の駅のわきをすり抜けて田んぼ道に出る。小川が横を流れる道沿いに北西に歩くと左奥にひとつのこんもりした森があらわれた。そこが二十九番札所國分寺だった。

 摩尼山(まにざん)國分寺と号し、開基は行基菩薩。その後室町時代は細川頼之、戦国時代は長曽我部、そして江戸時代は山内家によって保護され、法燈は守られてきたらしい。現在の宗旨は真言宗智山派となっている。

 仁王門は楼門。この梵鐘、ならびに境内正面の金堂はともに重要文化財。仁王門は、一六五五(明暦元)年に、土佐藩主山内忠義から寄進されたもの。金堂は優雅な姿の柿葺き、寄棟造りの天平様式を伝えている。兵火や火災のために一時廃寺同然になっていたが、長曽我部元親が再建したと伝えられている。

 本尊は千手観音。その横手に大師堂がある。弘法大師は四十二歳のときに、この寺において節分に拝む星供(ほしく)の秘法を勤修したと伝えられ、以来星供の道場として皇室や藩主のための星供の祈祷が明治まで続けられてきた。そのため、この大師像は星供大師とよばれるという。さすがに國分寺、境内の苔が目にまぶしい。

 國分寺を出て、国道に入り、高知の街にはいる。参道に出たと思ったら、お寺の前に来ていた。三十番札所善楽寺。この寺は土佐一の宮土佐神社の別当寺であった。だから山門は神社に向かって位置し、その参道の脇に善楽寺がある。

 他の神宮寺同様に明治後の経営に困窮し、戦後一時他の寺に本尊を預けていた。三十番札所の本家争いの末に元々の札所であった善楽寺が三十番札所として復活した。おそらく江戸時代には土佐神社そのものが四国遍路の札所であったのであろう。土佐神社には、鐘楼堂や放生池が現存している。本尊阿弥陀如来。

 お寺を出て参道に入り山門に向かって歩く。市内に入り、高知駅前を南に下るとはりまや橋。それからお城を右手に見て、大きく遍路道を外れて、井口町にある護国寺に向かった。護国寺は、臨済宗妙心寺派の禅寺で、前年に信玄師と「接心」という一週間の坐禅会にうかがったお寺だ。この時もその時八十歳になろうかという和尚が一人庫裡に座っておられた。

 歓待され、里芋を煮たとかで早速ご馳走になった。夕方には、差定どおり坐禅をして、晩には造り酒屋のご子息なので生家から送られてくる銘酒「満寿一(ますいち)」をご馳走になった。当時私の関心事であった、寺に入るということや妻帯のことなど、あれやこれやお話をさせていただいた。

 和尚は妻帯もせずに過ごしては来たが、いつも心の中に大きなウェートを占めていたと言われたのを記憶している。妻帯しなさいともするなとも言われず、淡々と御自分にも葛藤が継続してあったことを話してくださった。翌朝は五時過ぎまで寝かしてくださり、朝の勤行と坐禅を一緒にさせていただいた。玄米御飯を頂戴して九時過ぎに、また歩き出す。

 小高い山の上にある三十一番竹林寺に向かう。入り江から見る水と松並木が美しかった。途中、五台山公園から牧野植物園に道を間違えるものの竹林寺仁王門から石段を登る。二層の仁王門をくぐると桜並木の参道が続き、さらに石段を上っていく。右手に本堂、左手に大師堂がある。聖武天皇が行基に命じて中国の五台山に似た土地を探させて寺を建てたのがはじまりという。

 本堂は、単層入母屋造り、柿葺きで文明年間(一四六九‐八六)に再建され、十九体の仏像とともに国の重要文化財に指定されている。本尊は文殊菩薩。ただし本堂内は薄暗く何も見えない。残念だが、お姿を想像して理趣経を上げる。山門を後にして、なだらかな坂を下る。

 三十二番禅師峰寺へは、入り江を渡りハウス栽培農家の間を進む。細い石段を登って、にわかに視界が開けたところに山門がある。この門の仁王は、鎌倉時代の仏師定明の作で、国の重要文化財に指定されている。境内に出ると、土佐の海や桂浜が一望できた。

 境内にはさまざまな形の岩石がおかれていた。本尊は十一面観音。海上安全に霊験があるといわれ、船魂観音として漁民の信仰を集める。本堂、大師堂ともに大きなお堂ではないが、弘法大師はここを観音菩薩の浄土、補陀洛山に見立てたといわれ、それが八葉山の山号の由来といわれる。

 禅師峰寺の石段を下り、また来たハウス農家の間の道を戻る。左に土佐湾を眺め、入り江を渡る。昔は渡し船に乗ったそうだが、今では橋が架かっている。桂浜の看板も目に入る。近いようだが七キロ半ほどの道のりがなぜか長く感じる。車道のお陰で舗装道路をぐるりと回って三十三番雪渓寺に到着。

 門を入ると、正面に本堂が見える。臨済宗のお寺のためか横に長く坐禅堂といった雰囲気を漂わせている。延命十句観音経の額が正面横に掛けられていた。わずか十句で観音様への信仰を説くお経だ。江戸時代の傑僧白隠禅師が重視し霊験記を著したため、今日でも臨済宗ではこの延命十句観音経を勤行などでもよく読誦する。

 本尊薬師如来は鎌倉時代にここを訪れたという運慶の作。脇士の月光菩薩、日光菩薩及び弟子の湛慶作の毘沙門天、吉祥天女、他に海覚作の十二神将十体があり国の重要文化財。雪渓寺は、鎌倉時代の仏像の宝庫といわれている。

 大師堂は、沢山の千社札や心経が貼り付けられ、痛々しい。丁寧に心経を唱え、また歩き出す。来たときには気がつかなかったが、門前には数件の遍路宿が軒を連ねていた。へんろ道保存会の小さな道しるべにならって歩く。             (全)


いざというとき困らないための仏事豆知識B

『通夜式』

 檀那寺の住職が来訪する頃には会場にそれぞれ参集し着席します。祭壇に向かって右側に親族、左側に友人知人会社関係者が座ることが多いようです。それぞれ故人と関係の深い人から順に並ぶとよいでしょう。

 通夜式にも正面に十三仏の掛け軸などを掛け、死後初七日までの本尊である不動明王を拝します。定刻になると導師は礼拝し、読経を始めます。この間導師の合図で焼香をいたします。喪主より順に席次に従い焼香しますが、故人の安楽を願い本尊様へ香を供養するのです。

 焼香する場合には、祭壇正面の焼香台に進み、まず仏前に合掌礼拝し、会葬者の多い場合には一度、普通は三度お香を香炭にくべます。そして再度合掌礼拝し、静かに席に戻ります。自宅で行う場合などは回し焼香しますが、その場合も作法は変わりません。

 導師の読経の後、仏前勤行次第をともに読誦します。故人と一緒にお唱えしているという気持ちで大きな声でお唱え下さい。

 このあと導師より、人の死に関する話など法話をいたします。

『人は身体と心が一つになり誕生し、身体の寿命を終えても、心は消滅することなく、四十九日の間私たちと同じ空間にいます。

 故人が生前になした善行の功徳や通夜葬儀七日参り四十九日の法要など遺族の施した功徳を持って来世に旅立ちます。仏教では六道に輪廻すると言われ、死ぬ瞬間の心によって、来世が決まると言われます。

 お釈迦様のように悟っていない私たちは最期に何かしら求める心が生じ、その心のエネルギーが来世をもたらすのです。六道とは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天で、人の道を外れるようなことなく、こうして仏教にまみえ天寿を終えた人は人間界以上の世界に転生することでしょう。

 しかし人間界にも様々な世界があることですから、より良いところへ生まれ変わり、また仏教にまみえ、心の修行を続けて下さることを願い、戒を授け名を改めて様々な作法を伝授し、来世にお送りするのが翌日の葬儀式での引導作法ということになります。

 ですから、葬儀式では、どうぞより良いところに生まれかわりお幸せに、少しでも早く仏様のようなきれいな心を獲得してくださいという意味から、合掌し成仏して下さいと、私たちは念じるのです。

 と同時に、身近な人の死に際して、日頃慌ただしい中で忘れがちな自分自身の人生について、故人のように立派に死ぬためにはいかにあるべきかなどと思いをいたす機会にして欲しいと思います』

 だいたいこのような内容のお話しをします。このあと喪主から参列者に向けて挨拶があり、一般弔問客が帰ると、軽い食事や飲み物など、通夜ぶるまいがなされ、通夜を終えます。が、出来ればそのあとも、親族は線香を絶やすことなく、一晩中故人を見守ってあげて欲しいものです。     (全)


〈おたより〉

 『嫁いらずの行基伝説』 

 備後國分寺では、この度、かつて國分寺創建に関わりのあった行基菩薩の石像造立を発願した。多くの有縁の人々の写経奉納により造立し、創建当時の國分寺の意義についてあらためて思いをいたす機縁となることを願っての発願である。

 行基菩薩と言えば、奈良時代の高僧で、全国を行脚して寺院の建立や社会事業に尽くされた日本初の大僧正として知られ、今なお畏敬されている。

 ところで、隣の井原市大江町梶草に、「嫁いらず観音」とか「樋之尻の観音様」と呼ばれている観音院がある。昔から近郷の善男善女に厚く信仰され、春秋の彼岸の中日の縁日には、西日本各地からの参詣者で樋之尻山はうずまる。このあたりの人なら誰でもお参りしたことのある観音様で、私らも子供の頃、十銭玉を握りしめて、御領から観音様までの道を走って参った思い出がある。

 この樋之尻山観音院には、その縁起に付随する「行基菩薩伝説」がある。子供の頃親からよく聞かされたものである。
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 奈良時代、大江の梶草というところに「張池」という深い淵があり、その淵に悪魔や大蛇が住み着いて村人をたいそう困らせていた。その頃、行基様がこの地へお出でになり、村人は行基様に悪魔と大蛇を鎮めてもらうようお願いした。

 行基様はたいへん心配され、「妖怪悪蛇を退治し、諸悪を除きたまえ」と観音様にお祈りされた。すると、観音様は三十三身の仏に姿を変えられ、千手観音は、「大悲の弓」に「智恵の矢」をつがえて射かけ、十一面観音は「大悲の利剣」をふるって悪魔と大蛇を退治された。        そして、行基様は、悪魔を張池の底にしずめ、その上に大岩をおいて葬られ、大蛇の方は、「仏体眞如の善神ならん」と、その頭を柩におさめて池の西の丘に大岩を交互に積み重ねて懇ろに葬り、大蛇が仏になるよう祈られた。

 それから行基様は、白樺の木に十一面観音像を刻み、樋之尻山の岩陰(奥の院)に祀られた。後に村人は、樋之尻山に三十三体の観音様の像を建て、今に見る一大観音霊場となったという。
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 今でも、大蛇を封じ込めたその岩は、「柩岩」とか「神籠岩」とか言われ、丘の頂きに静かに眠っている。一見石棺のようにも見えるが、昔の人々の素朴な想像につながるにふさわしい存在である。

 時代が下ってその後、いつの頃からか「樋之尻の観音様」は、安楽往生を願う「嫁いらず観音」として、今も人々の崇敬を集めている。               (B)


お釈迦様の言葉(Voice of Buddha)−十九


『生きとし生ける者は安楽を欲す。
もし暴力をもってこれに危害を加えなば、
自己の安楽を求むるも、
死後に安楽を得ず。』
(法句経一三一)

 誰もが暴力を怖れ、命を愛おしむことにかわりはありません。自分もそうなのだから他のものも同様だと思って、暴力はもちろん、殺すなどもっての他であるとするのが仏教の教えです。それはたとえ自分の命であっても同じ事です。自分の命は授かった命に過ぎません。

 もしも他に暴力をもって接し、危害を加え、たとえその時自分は安楽を得たとしても、死後来世にはどうなるか分からないよというのが、この経の意味するところです。

 死んだらそれで終わりとする考え方は、仏教にはありません。来世に赴く心がその結果を必ず受けるのだとするのです。因果応報、善因楽果、悪因苦果は三世にわたる教えです。

 多くの争いごとが進行する世の中ではありますが、誰もがその因果を引き受けることを考えることもなく、現時点のことにしか思いがいたらないのは残念なことです。

 しかし、よくよく考えてみますと、このような境遇に今遭遇しているのも、みな前世から今日に至る様々な因縁のなせる果報であると考えると、単純にどちらを批難したり支持したりすることもできず、言葉を失うのです。

 そして、ただ一心に、生きとし生けるものが幸せでありますように、と念じるばかりなのです。                                                (全)


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平成二十年度 國分寺年中行事
│ 月例御影供並びに護摩供 毎月二十一日午前八時より
│ 万灯供養施餓鬼会      八月二十一日
│  高野山参拝         十月九・十日
│ 四国八十八カ所巡拝(土佐伊予) 十一月六・七日
│ 除夜の鐘 十二月三十一日
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 ◎ 座禅会    毎月第一土曜日午後三時〜五時
 ◎ 仏教懇話会  毎月第二金曜日午後三時〜四時
 ◎ 理趣経講読会 毎月第二金曜日午後二時〜三時
 ◎ 御詠歌講習会 毎月第四土曜日午後三時〜四時
中国四十九薬師霊場第十二番札所
真言宗大覚寺派 唐尾山國分寺
〒720-2117広島県福山市神辺町下御領一四五四
電話〇八四ー九六六ー二三八四
FAX〇八四−九六五−〇六五二
編集執筆 横山全雄
郵便振替口座01330-1-42745(名義國分寺) ご利用下さい
● 國分寺ホームページ ブログ・住職のひとりごと
http://www7a.biglobe.ne.jp/~zen9you/ より

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