刷り込み   15歳がきっかけ?

 「刷り込み」という言葉があります。ご存知のように、動物は生まれて最初に見たものを親と思ってしまう。そこで、人間に育てられた動物は、人間を親と思っている・・・というものです。人間と鳥との感動的な話も映画やテレビなどに良く見られます。

 人間も、この「刷り込み」によって考え方やその後の人生に大きく影響される事も間々あることと考えています(洗脳とは異質のものと思います)。

 私がクラシック音楽に興味をもったきっかけは15才の4月でした。私は2月生まれですので実際はほぼ14才と同じです。昭和25年(1950年)のことです。第二次世界大戦が終わって5年目とは云えまだまだ貧しい時代でした。私には6才上の大学生の兄がいまして、兄が時々友人からレコードを借りてきて、リストのハンガリー狂詩曲2番(ストコフスキー指揮のフィラデルフィア管弦楽団・・・当時はこの曲はこの演奏しか無い状況でした)などを鳴らしていて脇で聞いていた程度のことはありました。当然SPレコードで、手巻き式の蓄音機で鳴らします。レコード針も鉄製でまだ潤沢に入手できないので一々磨いて使いました。SPレコードは、12インチ盤の場合(クラシックは殆どが12吋盤)は、片面ごとに針を取り替えます。10吋盤は3面に一本です。

昭和25年4月に、鹿児島に史上初めてオーケストラが来て演奏会を行うと云うことで私は友人に勧められ、その友人と共に出掛ける事にしました(入場料は¥100−・・・学生料金・・・うどん一杯10円位)。私の兄は夜の部のチケットを買っていましたが、私は、当日になって昼の部をやっと入手しました。

 今のような立派なホールなどありません。戦前に建てられた「鹿児島市中央公民館」(今もあります)で、今のようなスロープ式の床ではなくて、ウイーンのムジーク・フェライン・ザール(ウイーン樂友協会大ホール・・・ウイーン・フィルの本拠地)と同じく平らな床です。そこに5人掛けの木製のベンチを並べて座ります(今の公園のベンチよりお粗末)。勿論指定席などはありません。従って4時間も前から並びます。ステージは、オーケストラを収容するほどの広さがありませんので、客席をつぶして、前にせり出して作ってあり、天井からの照明もその分追加してせり出しています。ステージには「日本交響楽団大演奏会」と大きく書かれた看板がぶら下がっています。

昔のプログラムの構成は、大曲(メインの曲)を先に持ってきます(今は小品を先に演奏し、メインは最後です)。オーケストラの楽員の配置も左の前列に第一ヴァイオリン、右の前列に第二ヴァイオリンという配置でした(最近はまたこの配置で演奏する指揮者もいます。ステレオ録音の開発がオーケストラの配置に変化をもたらしたようです)。

 従って、指揮者の山田和男(のち一雄に改名)が登場するやいきなり「英雄交響曲」の冒頭が始まりました。当時はプログラムもありません。曲目は事前に発表されています。強烈な和音が二発。指揮者は自分で「ゲッ」と云うほど激しい動きをします。(山田氏は特に激しい指揮で知られており、同じ「英雄」の「葬送行進曲」の演奏中に指揮台から落ちたことがあります)

 私は指揮を見るのも初めてで、最初はその動きを見てオカシサを抑えるのに苦労しました。しかし、会場の雰囲気に段々呑み込まれました。私のそれまでの14年間の生涯で初めて味わう静寂でした「恐らく針一本落ちても聞こえるだろう!」と思うほどの静寂さの中に音楽だけが流れます。「世の中にはこんな空間があるんだ!」と強烈な印象を受けました。休憩の後はベートーヴェンの「二つのロマンス」(ヴァイオリンとオーケストラの)が演奏されました。その演奏中に間に合わせに設置してあった照明の電球がチェロ奏者の前に落下して大きな音で割れるというハプニングが起こりましたが、客席も演奏者も何事も無かったように整然と演奏が続けられました。今なら「キャッ!」とかなんとか叫ぶ人が一人や二人はいると思いますが、誰一人何の声も発しません。あの真剣な雰囲気に呑まれてしまいました。

このことがきっかけにになり、音楽にのめりこみ、勉強がおろそかになったのは事実です。同席した友人は、東大法科から大蔵省に入り、エリート・コースを進みましたので、私は冗談に「お前は俺に貧乏をさせた張本人だ。責任をとれ!」などと今も云っています(笑)。

 それから音楽関係の書物を読み漁り、また友人がレコードを貸してくれたりして一生懸命に音楽を聴きました。友人が貸してくれたのは、アルトゥル・トスカニーニ指揮のNBC交響楽団の演奏する「運命」でした。何回も何回も聴きました。あの時代に他人にレコードを貸すなどとは考えられない時代でした(高価で貴重品)。その友人は、上智大学から琉球放送に入り、ニュース・キャスターなどを務め、沖縄では誰もが知っている有名人になっていましたが、3年前私は沖縄を訪問し、彼と49年ぶりに再会して、そのときの御礼をのべましたが、その2年後に彼は他界しました。会ってて良かったと思っています。

さて、通常のクラシックの入門には、先ずポピュラーな小品から聴いて段々交響曲などの大曲へ進む・・・というのが当時の習慣でしたが、私は最初からベートーヴェンの交響曲から入ったのもラッキーだったと思います。最近は、いきなりマーラーやブルックナーから聴く若い人達もいますが、まだその頃はマーラーやブルックナーは名前は知っていても曲を聴く事はありませんでした(その時代まだ、世間の関心が世界的にもマーラーやブルックナーに向いていなかったようです。多分SPレコードではダイナミック・レンジ的にも十分な再生が無理だったということも一因かとも思いますが・・・)。

 私が15才から音楽と親しんだことは、その後知り合った人達と共通する部分があることがわかりました。昭和5年生まれの人は、昭和20年(1945年)に音楽と巡り合ったと云っていました。丁度15才です。20年と云えば、終戦の年です。戦争が終わってホッとして誰かが音楽を鳴らしてくれたのだと思います。

 面白いことに、この人はフルトヴェングラーのファンでした。この人のお宅でフルトヴェングラーを聴かされて私は吹き出してしまいました。フルトヴェングラーのテンポが余りに奔放で音楽を辿るのに苦労したからです。私は前記のようにトスカニーニに始まりましたのでトスカニーニの演奏が「刷り込まれて」いたのです。その人は、最初がフルトヴェングラーでしたので「こんなものだ」と思って当たり前に聴いていたと云われます。これも「刷り込み」の一種でしょう。

 もう一つ私が刷り込まれているものにチャイコフスキーの「悲愴交響曲」があります。あの静かな音楽でも、SPレコードで何回も聞かされました。SPレコードはダイナミック・レンジも狭く、また当時の再生装置もお粗末でしたので、全合奏のフォルティシモになるとフッと音が逆に小さくなるのです。そのイメージは今も刷り込まれていて、「悲愴」のその部分になると一瞬小さくなる!と錯覚します。「そんなことは無いんだ」とその都度思い直しますが、なかなか消えない思いです。

 私が日本一のオーディオと何回も紹介している鹿児島のK・Tさんは、音楽に目覚めたのは14歳で(中学2年)音楽の時間に45回転EP盤による「ラビアン・ローズ」(ばら色の人生)を聴かされたそうです。蓄音機の音しか知らなかったところに電蓄(電気蓄音機)の生々しい音を聞かされて大変なショックで「こんな音楽があるんだ」と感じたのが発端で、その後、ジャズに向かい、カウント・ベイシーの大ファンになり、「私は、カウント・ベイシーを聴く為にこのオーディオをセットした」と今でも云われます。もっとも現在はクラシックのコレクションも相当にありますが・・。(音楽の時間に「ラビアン・ローズ」を聞かせた先生は立派ですね。教育は大事です)

英才教育として、2〜3才頃から始める楽器のレッスンや語学などは、早いほど効果があります。特に幼少時にレッスンを受けないと「絶対音感」は身に付かないと云われます。私の知り合いのKさんは(グレード・アップの実際例に紹介)、ご本人はヴィオラを奏されます(本業は医師)、奥さんはヴァイオリンです。二人の娘さんは共にヴァイオリンですが、この娘さんは「絶対音感」の持ち主です。プレーヤーの調子が悪くて回転が少し遅かった時に「お父さん、音程が二度低いよ」と云われ、私はビックリしました。絶対音感のある人に初めて会ったからです。

 しかし、鑑賞などの場合は、そんなに早くから聴かす必要はありませんが(環境は大事です)、今までの例のように15才前後が一つの「きっかけ」になることは事実のようです。音楽鑑賞に熱心な多くの方々は、何かのきっかけで音楽に関心を持つようになっています。昔は、今ほど巷に音楽が溢れていませんでしたので、巡り合ったきっかけは相当に インパクトが強かったと思います。お子さんをお持ちの方は、15才をメドに何かのきっかけを与えるような、また家庭環境を作られるようにされると良いと思いますが如何でしょうか。「刷り込み」は早い時期が有効のようです。

 

文章のつれずれに奈良の国宝建造物の写真を挿入してみました。お楽しみ下さい。上から順番に(国宝・法隆寺・五重塔・最古の木造建築物の一つ)(国宝・薬師寺・三重塔・730年創建)(国宝・室生寺・五重塔)(国宝・東大寺・大仏殿)(撮影・私)