オーディオは泥沼か?

 よくオーディオは泥沼だ!という話を聞きます。一方では、その泥沼を楽しんでいる風潮さえあります(それはそれで個人の勝手で一向に構いません。勝手にやれば?)。そこに付け込むかのように、オーディオ・ショップや雑誌類が次々とロクでもないものを紹介したり売り込んだりします。その手に乗らない為に基本的な考え方を紹介します。ハッキリ申し上げて、オーディオの道は舗装道路なのです(泥沼などありません)。泥沼に足をとられる事もなければ、音に思い悩むこともない。ただ一直線に歩けば良いのです。

 そのためには、進むべき最終目的地をハッキリと定めておく事が重要です。つまり、確かなポリシーを持つことです。

 私の薦めるオーディオ・グレード・アップ法には、終点があります。「これで完了!」という場面が必ずあります。その終点に向かって一直線に進むのです。脇道は一切して欲しく無いのです。ところが、一般のオーディオ・ファンは、「新製品が出た、今度の製品はどうだろう?」と興味を示し、売らんかなのショップにだまされて購入してみる。それを「自分はオーディオのヴェテランだ!」と勘違いしています。ものを余分に買う人は決してヴェテランではありません。余計なものは一切買わないのが本当のヴェテランなのです。まず、このことを強固に認識して頂きたいと思います。

 例えば、私の郷里である鹿児島から東京へ向かうとします。旅費が少ないので鈍行列車にします。最近は、新幹線が出来て、旧JR線が無くなって第三セクターになり、川内〜出水間は別料金になりますが・・。(実に厄介な世の中・・この間が最も景色が良いのに・・九州新幹線は75%がトンネル)

 それでもヒタスラ東京を目指します。目的地はハッキリしている訳ですから・・・。なんとか博多に着きます。急ぐ気持ちは分かりますが慌ててはいけません。博多の街でもゆっくり見物すれば良いのです(音楽を聴くこと)。この辺で、ショップに勧められたからといって余計なものを買い込むことは、列車を長崎行きに乗り換えたようなもので、目的とは反対に長崎へ着いてしまいます。金持ちは「のぞみ」で一気に東京へ着きますが、途中も捨てたものではありません。これを、下関で、山陰線に乗ると(オーディオ・ファンが良くやる間違い)着くのは青森です。途中で京都へ出る方法もありますが、そこに気付いた人はまだましですが、そのまま青森へ着いてしまう人がオーディオ・ファンの大半です。そして東京を見た事も無いくせに東京のこと(オーディオ)を得意気にしゃべるので困ります。(間違いに気付いて京都へ出ても、山陰線を通った分が無駄で、また下関から山陽線を辿らなければならないのです。途中で必要な広島も岡山も大阪までも通っていない訳ですから・・)、やはり、鈍行列車でも例え一駅ずつでも山陽本線、東海道本線と進まなければなりません。間違いなく東京へ着きます。泥沼はありません。車でも、国道3号線、2号線、1号線を真っ直ぐ走れば、間違いなく東京のド真ん中、日本橋の橋のたもとに着きます(歩いても泥沼などありません)。これがオーディオの鉄則です。

 オーディオを泥沼化している張本人は、本当のオーディオ・サウンドを知らないショップ(店頭の商品を見れば分かる)や雑誌の執筆者(自宅での使用システムを見れば分かる)達に他なりません。

 例えば、本物のツィーターを買いたいと思います。ペア約60万円強掛かります。しかし、予算が足らないので、高周波は大事だとこのページでしつこく云うから、やはりツィーターを着けて見よう!と思って、「これもツィーターだから、これで良いだろう」と雑誌で評判のペア20万円強のものを購入します。これが「余計なもの」なのです。決して、東京へは着きません。予算が足らない時は、出来るまで待つ!という強固な意志を持たなければなりません。ここで別なツィーターを買い、また別なものに予算を使う、これが泥沼の原因です。結局本物のツィーターを聞いて「全然違うじゃん!」と初めて気付きます(60万円で済む筈のものが、20万円のものを中古で売りますので、少なくとも10万円以上が余計に掛かったことになります)。多くのユーザーは例外なく、必ず私に「もっと早くに知り合いになりたかった」と云われます(余計な出費をせずに済んだ筈だ・・と)。ショップは商売ですから次々と売らないと成り立たないので、お客さんの利益とは全く関係なく売り続けます。でも、親類でもなければ、兄弟でもない所に義理も何もありません。ショップ側でも同じ気持ちですから平気で売り続けます。買うことはありません。

 オーディオ・ファンとして本当はこっちの方が欲しいけれど「予算が少ないからこれでいいか!」という考えは絶対に持ってはいけないのです。中途半端はあくまで中途半端で本物ではありません。何れ気付いて「トンデモナイものを買ってしまった」となることは必定です。買わない強固な意志が必要です。私は「売らないこともサービスだ」と思っています。その製品が、将来ユーザーにとって「無駄になる!」と分かっている場合は、絶対に売りません。そうすると私に内緒で他店で購入するという人もいます。結局「買わなきゃ良かった」と必ずなります。余計なものまで売りますと、次の段階で困るのは本当は売った方であるべき筈です。ユーザーには1円も無駄金を使わせない!という私の考えからは当然のことです。しかし、一般の販売店は、その時は安く下取ってそれで儲かれば良い!とでも思っているのでしょうか?そうでなければ、安易に次々と売る事はできない筈です。こんな事の繰り返しがオーディオを泥沼化しているのです。泥沼化からの脱却は、本物をシッカリ見据えて「余計なものを買わない」という強固な意志と、自分のオーディオが、将来どのような姿になるのか、それに対して予算をどのように有効に生かすか・・その一点にありますが、実際はそのようなポリシーを持つことすら難しくなっています。それは、ショップや雑誌に頼りすぎているからです。そこから抜け出さない限り立派な泥沼が待ち構えています。但し、オーディオに自己流は通用しません。自分だけ独特の方法で組み立て、悦に入っている自称マニア(オーディオ界の異端児?)は多いようですが、単なる一人善がりで、オーディオには、理論に合致しない独特な方法などは存在しません。ですから、自称マニアに頼るのも大変危険です。此処にも泥沼が待ち構えています。近寄らないに越したことはありません。相手は必死で理屈をこねますが、大体が大笑いに近い理屈が多いのです。

理屈は良い音に先行しない(良い音は理屈だけでは生まれない)が、良い音には必ず理論的裏付けがある。何故この音が良いか、必ず理論的に証明出来ますが、理論だけが先行しても良い音には決してならないということです。理論が先行するならば、某技術雑誌の読者がもっとも良い音を出している筈ですが、執筆者も含め、読者の「カブレ」もドウシヨウモナイ音しか出していません。技術の遊びで音楽の世界に入って来ないで!と云いたいくらいです。遊びは遊びだけにしてよ・・・と。

 技術を理解している事がオーディオを分かっている!と大変な誤解をしていませんか?技術と音楽は全く無縁なのです。音楽の世界でも楽器を演奏できるから音楽に精通していると考えるのは早計の至りで、楽器を弾けることと音楽に精通している事とは全く無関係なのです。そのような事実を踏まえて、色んな意見に振り回されず泥沼に入らないようにして欲しいものです。

 オーディオは、オーディオそのものが楽しみの対象でも無ければ、人に自慢して褒めて貰う為のものでもない、ましてやステイタスでも何でもありません。オーディオは、単に音楽を鑑賞する為の道具に過ぎません。ひたすら音楽が十分に鑑賞できる。その為だけにオーディオはあるのです。そして、オーディオの音質(音楽再生のランク)は鳴らす人の感性と決して無縁ではありません。音楽を深く味わうという心が強ければ強いほどオーディオは応えてくれるものなのです。それは、機器をいじることではありません。音が悪いのは、ユーザーが音楽に対する真剣な感性が不足している面が一方にあります。

つまり、ユーザーがオーディオ機器に気を取られすぎて音楽をないがしろにしている場合が多いのです。

 オーディオは人を見るのです。「オーデイオは鳴らす人の音楽に対する感性を写す鏡」でもあるのです。泥沼にはまっている余裕など無い筈です無駄なお金は使わないには具体例などを交えてお話します。

2005・4・5