
龍源寺「禅の会」
「禅の会」での体験談です。
ブログに書いたことの転載です。
2007年11月3日(土)
2007年10月6日(土)
2007年9月1日(土)
2007年8月5日(土)
2007年7月7日(土)
2007年6月2日(土)
2007年5月5日(土)
2007年4月7日(土)
2007年2月3日(土)
2007年1月6日(土)
(2006年の体験談はこちら)
(2005年の体験談はこちら)
2007年11月3日(土)

ちょっと間が空いてしまいました・・・ゴメンナサイ。
11月の禅の会レポートです。
「文化の日」にあたっているためか、参加者はいつもより少なめ。
最近、毎回必ず出席の、お父さんと息子さんがいらっしゃいます。
やんちゃ盛りの男の子・・・だと思うんだけど、
坐禅はもちろん、法話の時間も、お父さんの横に座って、きちんと聞いています。
ちょっとモゾモゾしてるかな・・・(笑)でも、エライゾ!
こうやって、自分の趣味に子どもを引っ張ってくるお父さんって、イイと思う。
自分を子どもに合わせるんじゃなくて、子どもを自分に合わせちゃう。
子どもってたぶん、大人が考えているよりずっと、禅について、わかっていると思う。
お父さんと一緒に過ごせることも含めて、彼にとって楽しい時間であれば、
これからもここに来てくれるでしょう。
書道の会では、先月に引き続き、筆づかいの基礎を学んでいます。
「何もお手本を見ないで、まずは自分なりに書いてみてください」
と言われて、我流で「父母」「男女」と書く。
うーん、我ながらひどい字だナ・・・。
「字は人なり」と申します。
本当に、自分がそのまんま、出てしまうのです。
特に「父」がめちゃくちゃなバランスになってしまいました。
10歳で亡くした父親のポジションが、私の中で取れないのでしょう。
「男」と「女」では、「女」の方が難しい。
自分の「女」性を、まだうまく認めて位置づけられていないのかも・・・。
基礎となる筆のはこびを、ひとつづつ丁寧に教えていただく。
ゆっくりゆっくりと、筆の先が字のどこを通るのか、見極める。
村上先生が私の下手な字を見て、
「大事に取っておいて、いつも見える場所に貼ればいいですよ」とおっしゃる。
「自分の字なんて、イヤだなあと思うでしょう?
でもね、毎日見ていると、ふと、なんだかいい字かも、と思うこともあるのよ。
いつか、自分の字も、好きだと思うようになりますよ」
こんな下手っぴな自分の字を、自宅に貼るなんて考えられない。
最初はあまり本気で聞いていなかった村上先生のアドバイスだが、
本当に熱心に、何度も何度も私におっしゃる。
(これは見透かされたな・・・)という気になってくる。
『下手な自分の字を、いつかは好きになる』ということは、
『嫌いな自分を、いつかは好きになる日が来るよ』というメッセージ。
自分の嫌いな部分。許せないと思う部分。
自分の書いた字を毎日見ていれば、いつか好きになるように、
そういう部分もいつか、好きになることができるのかしら・・・。
毎日、坐禅をするということ。
毎日、自分を見るということ。
書道と坐禅は、こんなところでも、共通点があったのですね。

2007年10月6日(土)

すっかりと秋めいて、頬を撫でる風がカラリと芳しい。
お庭のお地蔵様も気持ちよさげな、龍源寺10月の禅の会。
今回で・・・第356回、だったかな。
いつものように、受付に座る。
毎回お越しになる方は、もうお顔もわかるので、ニッコリとご挨拶。
坐禅初体験の、大学生とおぼしき八名の団体様もアリ。
ときどき、外国の方もお見えになる。
書きにくそうにカタカナで、参加者名簿にお名前を記される姿が好ましい。
ご丁寧に、我々に向かって手をついてご挨拶される年配の方もあり、
あわてて私もギクシャクと頭を下げる。
「この字はなんという字ですか」
我が頭上にある額縁に入った禅書を指差す殿方あり。
もちろん、私もさっぱりわからないのだが、受付に座っていると禅に詳しい者だと思われてしまうので、
こういう質問をよくされる。
「さあ・・・Yさん、わかりますか?」
「『カン』じゃあないですかねぇ」
「『カン』って、ヒマの『カン(閑)』ですか?」
一同笑・・・『關』あたりですかね。やっぱりよくわかりません。
おだやかな光ふりそそぐ本堂で、背筋を伸ばし坐を組む。
そびえ立つ山をイメージ、天に吊るされたような形ができればベスト。
山を抜ける秋風・・・それは私自身を抜けてゆく風。
見るともなく開いた眼(マナコ)に、清浄なる広き畳が映る。
ああつくづくと、坐禅が気持ちいい。
乾いた空気に線香の一途に立ち上る煙かぐわしい。
書道の会では筆づかいの基本を学ぶ。
一本の線に、心を注ぐ。
寺庭に咲く草花のように、素となり凛としてこの身がありますように。
TVではもうこの世も終わるがごとき厭世の話。
人心は冷たく浅はかで、地球は暑いという。
そんなことはないと思う。
般若心経を書く人は増えている。
坐禅に訪れる人も増えている。
サラリーマン根性の人は減って、考えて仕事をする人は増えている。
若い人は減って、老人は増えてゆく。
若き者より老いたる者こそ、賢者たらねばならぬ。
私はまだまだ若いと言われる歳だけれど、
老いても若さを誇るアンチエイジングな人より、皺々の賢老になりたい。
お手本は今日の龍源寺にたくさんいらっしゃる・・・。
相変わらず、そんな若々しくない夢想に酔う、坐禅と書道日和の一日でした。

2007年9月1日

秋の気配。
でもまだ空気は湿気を帯びて蒸し暑いかな・・・。
9月の禅の会。
9月1日と2日が土日なんて、間延びした夏休み最後の週末を、
ツクツクボーシが名残惜しげに細々とつないでいる。
書道の会では、お彼岸に向けて写経。
何度目かの写経だけれど、その日その日で筆のはこびも変わる。
「字は人なり」と言うけれど、
本当に・・・鏡のようだ。
今日はおだやかに筆がはこぶ。
「無老死亦無老死尽」(老いも死も無く、老いや死がなくなることも無い)
般若心経のメッセージに、限りない母性を感じる。
ここにいま私が、生かされているように、老いて、死んでゆく。
自然と手を合わせたくなる、包み込まれるような快感。
坐禅会は、今日も若い方から年配の方まで大勢そろった。
ご住職、哲明先生は言う。
「集中力を養うために坐禅する、だなんて、
そんなもんじゃないんですよ、禅は」
そう・・・禅は「生き方」ではなく、「生」そのものだ。
ハウツーにあらず。
「生」まるごとの感覚を、つかみとれ!
2007年8月5日
じゃんじゃんという蝉時雨が、息苦しいほどの暑さをさらに密閉する。
白く煙るような日差しの中、汗をびっしょりかいた人びとが、
ひとり、ふたりと禅の会に集まる。
風のない昼下がり。動かない空気。
真夏の樹木は緑いよいよ濃く。
そのひたむきな濃い影を映す水溜りに、一輪の蓮華咲く。

暗いお寺の中はひんやり。
涼を得てほっとする方々のお顔。
ひっきりなしの蝉の声は、私たちが坐る本堂をたっぷりと満たし、
音は遠近感を失う。
いつもなら少し気になる車やバイクの往来も、今日は聞こえない。
夏には坐禅が似合うと思う。
半眼で深く呼吸すると、隙間なくびっしりと埋め尽くされた蝉時雨に、私が溶け込んでゆく。
「坐禅の目的はふたつです。
ひとつめは『無生心』つまり、心には生じるものがない、と知ること。
ふたつめは『無住処』つまり、心には住むところがない、と知ること」
ご住職、哲明先生の法話に、耳を傾ける。
初めてこの龍源寺に来たのは、3年前の8月だった。
3年前、この坐禅会の法話で、「自性本来清浄心」ということばを知った。
その瞬間、たちまちにしてわかったことがある。
それは、「私は善悪を知っている」という自覚だった。
「善い」と知っているのに、なかなか行動できないことを、しよう。
「悪い」と知っていて、今までやめられなかったことを、やめよう。
そして私は徐々に、「悪い」と知っていてやめられなかったことを、やめた。
私が死んだときに見てほしいものを整理し、見てほしくないものを捨てた。
そして、3年が過ぎた。
何か成長したのか・・・もしくは悪くなったのか。
どちらもあるような気がする。
それでいいのだ、と思う。

2007年7月7日(土)

梅雨の合間の、龍源寺 禅の会。
関西生まれの私にはいまだにピンと来ないが、
東京では今が「お盆」らしい。
午前中の書道の会では、お盆の節目ということで、久々の写経。
「真剣に写経をなさっているときの皆さんのお顔を見ると、
ああ、ここに観音様がいる、と気づくんですよ」
書道の村上先生がおっしゃったひとこと。
そっかあ・・・そうなのかな。
考えてみると、写経している私たちを観音様にしているのは、
村上先生の「観音様だと思った」ということばだ。
人から手を合わされると、合わされた手にふさわしくなりたいと自然に思う。
つまり、人に向かって手を合わせると、相手は自然と菩薩になれる。
村上先生は、いつも人に向かって手を合わせているから、
相手はみんな菩薩になれるのだなあ。
写経は、坐禅よりも「無」になりやすい要素がある。
何も考えず、一心に経典を写す。
「私」がなくなって、「私」=「筆」になる。
私は「筆」なので、もちろん雑念もなく、墨に浸かってひたすら仏法を記す。
これこそが、禅ではないか。
坐禅のあと、哲明先生の法話につながってゆく。
「諸法空相、すべてのもの(諸法)は空ということ。
つまり、『わたしとあなた』ではなく、『わたしはあなた』ということ。
たとえば、『桜の花をみる私』から、『桜は私』に転換する。
すると、桜のキラキラは『私のキラキラ』となる。
これが無我の境地、つまり空だ」

今日は七夕。
帰りがけ、ちょうど一年前に結婚式を挙げた乃木神社に、
パートナーと待ち合わせ、感謝のお参りに行く。
境内にかかる大きな笹には、お願い事がたわわに実る。
子どもたちの無邪気なお願いごと。
大人たちの家族への祈り。
私の短冊も仲間に加えていただきました。
“尊敬し、助け合えますように”。

2007年6月2日(土)

梅雨入りも間近・・・三田龍源寺、6月の禅の会。
ここ最近仕事が立て込んでいて、心乱れる日が多い。
メールひとつにカチンときたり・・・深呼吸。
ああ〜いかんいかん。
心鎮めて、坐禅でリセットしなければ。
と思っていたのに、今朝も5時起きで仕事仕事。
なんとか8時に自宅を出て、電車で龍源寺に向かう。
車中ウツラウツラしていると、うっかり二駅乗り過ごして戻る始末。
「おはようございます!」
初夏らしい日差しの中、ジャスミンの香りむせかえる。
虚ろに溜まった水にびっしりと張った水草。
暗く美しい、亜細亜的なこの季節が好きだ。
坐禅は今日はとても無理・・・一瞬で寝ると思う。
受付まわりで、片付けや次回準備などバタバタ。
法話は完全に熟睡してしまって・・・哲明先生ごめんなさい。
書道の会。
今月は「仮名に親しむ」というテーマ。
書の名筆、「高野切(こうやぎれ)」を鑑賞しながら、
雅びな女人になったつもりで!かな文字を書いてみる。
筆の上の方をポツリとつまんで、
サラリサラリと流れるように書いてゆくのが上級者らしい。
今の私にはとてもできないけれど、
見よう見まねで雰囲気だけは味わいたい。
「美しい字を、じっくり見るだけでも、心が磨かれますよ」
2007年5月5日(土)
こどもの日の、5月禅の会。
白い陽光の中、半そで姿で颯爽とお見えになる方もちらほら。
お庭は夏に向けて、新緑が勢いを増し、光り輝いている。
この、新緑の光そのものに、私がなれるかどうか。
私が光輝き、雨降ればそぼ濡れ、風吹けば倒れるかどうか。
坐禅し研鑽す。
和尚は芭蕉に尋ねた。
「青苔が生じるより前にあったことは何か」
芭蕉は即座に応じた。
「かわずとびこむ みずのおと」
この禅問答(公案)の意味・・・わかりますか?
芭蕉とはもちろん松尾芭蕉です。
「『青苔』なんて人間が決めた名前だが、
さて『青苔』と名づけられる前、何があったか?」
「カエルが飛び込む水の音です」
音そのものに、名前はない。
光そのもの、風そのもの、地のぬくもり、冷たさ・・・
人が生じる前にあるものを、ポチャンという音だと芭蕉は喝破した。

ご住職、哲明先生の法話は楽しい。
「今日は禅の種明かしですよ。門外不出、絶対に本なんかに書けません」
「この私が空(クウ)になるにはどうしたらいいですか?カンタンですよ」
種明かし。
さすがにこの日記にも書くのは差し控えますが、
知りたい方、ぜひご一緒に三田龍源時に行きましょう。
書道の会では、今日は「中」という字の練習。
村上先生「ゆっくり丁寧に書くのは基本中の基本です」
美しい字を書く技術がない分、人より5倍ゆっくり書こう。
スローモーションをさらにコマ送りしているくらいの速度で筆を運ぶ。
「立ち居振る舞いも、ささっと済ませるのと、ゆっくり丁寧にするのと、
どちらが美しいか、明白でしょう?」
2007年4月7日(土)
東京はもう桜も終わり。。。
お寺の庭は色とりどりの素朴な春の花で埋め尽くされている。
坐禅会に訪れる方々も、皆自然とお庭に足が向く。
お堂の中はまだひんやり。
いつものように受付から外を眺める。
入口の黒い額に縁取られて、ゆるゆると暖かな陽気がことのほか眩しい。
今日も初めての方が多い。
エビちゃんみたいな女の子三人組に、「何を見てお越しになったんですか」とお聞きすると、
「ananです」って(笑)
ananにも載っているのか!
午前の部の受付のお手伝いを済ませて、書道会に向かう。
本堂のとなりにある花園会館で行っているのだ。
今日は写経ではなく、太筆での練習を行う。
基本のキ、「一」を書く。
「書は人なり。ごまかしようもなく、その人そのものが出ます。
こころに不安や雑念が多いと文字も曲がります。
鏡のようなこころで書けば筆が自然によい字を書いてくれます」
縦書きと横書きで、それぞれ「一」を書く。
シンプルなだけに、迷いがそのまま出てしまう。
書く前に筆を持って一礼。
筆を置いてからゆっくりゆっくり、まっすぐに筆を引く。
坐禅と同じように、筆を引きながらゆっくりゆっくり息を吐く。
からだごと、同じ速度で、筆を運ぶ。
最後に止めて、ゆっくりと筆を上げ、一礼。

本当に、恥ずかしいことに、私そのものが出てしまう。
最初の筆の入り方が、カッコつけようとして逆にフニュっとなってしまうあたり、私そのものだ。
たくさんの方の書いた「一」が並んでも、間違いようがない。
自分で書いたものは、すぐにわかってしまう。
無心になれれば、実にまっすぐに筆が運ぶ。
というか、筆に運ばれてゆく。
ああ、やはり坐禅と同じなのだ。
今日は坐禅会に友人のAちゃんが初体験。
「自分自身について、ゆっくり考える時間になりました」
そうなのだ。
たとえ10分でも、何もせずに座っている時間なんて、この慌しい日常にはない。
何もせず10分間。座っていれば気づくことは山ほどある。
それは、緊急ではないけれど大事なこと。
苦労している母のために、何をしているかということ。
遠く離れて一人暮す祖母ために、何をしているかということ・・・
2007年2月3日(土)

北風の中、かじかむ手をポケットに突っ込んで早歩き。
けなげに咲いていた山茶花も、ほとんど散ってしまったようだ。
代わりに、見事に咲いた白梅が迎えてくれた。
今月から、龍源寺さん禅の会は、午前の部も始まる。
お手伝いメンバーは朝9時集合。
「おはようございます!」
午前の部は今月からスタートということで、まだお越しになる方は少なめ。
25人くらい。
私だったら午後より午前の部に来るなあ。
朝の清々しい空気は坐禅に相応しい。
人数も少なめで、集中できる。
坐禅会が終わってもまだお昼だから、午後の予定も組めるし。
ぜひ、オススメです!

○サライ2007年2月15日号 定価650円
今月号の雑誌「サライ」に、この龍源寺ご住職、松原哲明先生の
「般若心経を唱える、聴く」という特集があります。
なんと、哲明先生の読経CD付録つき!
簡潔な現代語訳も載っていて、あらら、びっくり。
雑誌で初めて般若心経の現代語訳を読む人もいるんだなあ。
般若心経はとても簡潔かつ奥深い聖典だ。
「サライ」でなんとなく意味を知った人が、
さらに興味を持って本を読んだり坐禅をしたりするといいなあ。
さてさて、今日は、初めて写経会にも出席。
書道の先生に基本の心構えや筆の持ち方、作法などを教えていただく。
「ゆっくり丁寧に。墨を磨るときから、もうお写経は始まっています」
写経は何度か経験があるが、お手本を紙の下敷きにしてなぞる写経しかしたことがない。
お手本を左に置くのは初めてだ。
同じような漢字ばかりが続くので、初心者は間違いやすい。
「写経で、キレイな字を書こうとしてはいけません。
ただ丁寧に、一字一句間違いなく写すことに専念するように」
私は般若心経を暗記しているし、意味も私なりの解釈があるので、間違うことはない。
これはとてもリラックスできる要素だ。
意味が分からない言葉を写すのは難しいだろうな。
前半は墨がかすれたり字の中心がずれたり、字の大きさがバラバラだったが、
後半は素直に筆が運び、思ったよりスムーズに一枚を書き終えた。
でも、集中力にはまだまだ欠けている。
坐禅のときのような張り詰めた感覚はまだない。
何度かやってみれば、新しい発見があるかな・・・。
2007年1月6日(土)

「禅の『無』は、有る無しの『無』じゃないってことなんですよ」
年が明けて初めての、三田龍源寺さん禅の会。
生憎のどしゃぶり・・・横なぐりの雨の中、お寺はいつもどおりの佇まいだ。
さすがに人は少なめ、とはいっても60人くらいが集まった。
坐禅には雨が似合う。
北軽井沢での坐禅修行会を思い出すからかもしれない。
往来の騒音も、雨にかき消されて聞こえない。
ざあざあざあと降り注ぐ雨は、存在と存在の隙間を埋め尽くし、境界線を曖昧にする。
雨音に集中する。
私は雨そのものになる。
私がこの世界を塗りつぶしてゆく・・・。
「ある僧が趙州和尚に問うことには、犬っころにも仏性は有るか無いか。
和尚は言った、『無(ム)』」
坐禅のあとは哲明先生の法話。ここで冒頭のことばにつながる。
釈迦の教えに「全てのものにことごとく仏性あり(悉有仏性)」というものがある。
じゃあ、犬っころにも仏性は・・・当然「有る」。
そこを『無』と言い切ったその心は。
「『無』って言った途端に『無』が『有る』んだもの。
禅の『無』はNothingとは別物なんですよ」
さあ・・・わかりますか?
禅問答って、こういうことなんですって。
法話のあとは、龍源寺書道会の書初め展に行ってみた。
「書」もアートのひとつだと思うけれど、「絵」と違うところは何だと思いますか?
・一度書いたら修正できないこと(→絵は何度も上塗りする)
・何枚も何枚も書いて練習すること(→絵は1枚を時間かけて仕上げる)
・書くもの(字)に意味が備わっていること(→絵はそれ自体に意味はない)
これ以上、日本人らしいアートは、他にないだろうな。
曇った心では「書」に向き合えない。
その一瞬、自分が筆そのものになれるかどうか。
これぞ、今日の法話の『無』じゃないの?
なんてことを考えていたら、私もチャレンジしてみたくなってきました。
珠房さんからも熱心にオススメいただいたし、やってみようかな・・・。
「これも何かのご縁だからね」