陸奥国会津蘆名氏第16代当主。蘆名盛舜の二男。幼名は四郎丸。通称は平四郎。修理大夫。止々斎と号す。陸奥国会津郡黒川城主。
兄・氏方が妾腹の子であったため、若年時より盛氏が家督継承者と目されており、父・盛舜の没する天文22年(1553)以前より蘆名氏の当主またはそれに準ずる地位に在って活動していることが知られている。
享禄3年(1530)、将軍・足利義晴に拝謁。
天文6年(1537)、伊達稙宗の二女を妻に迎えた。同年12月、陸奥国田村郡の田村隆顕と同盟関係を結ぶ。しかし田村氏との関係は不仲であったらしく、天文11年(1542)から始まる伊達氏天文の乱において、はじめは岳父の稙宗に与していたが、同陣営にあった田村・二階堂氏との対立から、のちに伊達晴宗方に転じている。
この乱は天文17年(1548)に終結するが、その後も近隣領主らとの抗争は続いており、とくに安積郡の領有をめぐって田村・二階堂氏と鎬を削った。
永禄4年(1561)、敵対した庶兄・氏方を討った。またこの年に家督を子・盛興に譲る。
永禄9年(1566)、二階堂盛義を降して、盛義長男の盛隆を人質に受けている。しかし天正2年(1574)に盛興が没したため再び執政し、翌年には盛隆と盛興未亡人を縁組させて嗣子とした。
天正8年(1580)6月17日、黒川で没した。60歳。法名は瑞雲院殿竹巌宗関大庵主。
近隣の白川・二階堂・田村・二本松(畠山)の諸氏を降して影響下に置くことで伊達氏に匹敵する勢力を築きあげ、関東地方を舞台とした北条氏・武田氏・上杉氏・佐竹氏の抗争にも介入するほどの隠然たる威勢を誇り、蘆名氏の全盛時代をもたらした名将。
領国経営においては、永禄3年(1560)から天正4年(1576)にかけて6度もの「徳政令」を公布して経済の安定を図り、また梁田氏を商人司に登用して、流通支配を強化している。