馬場信房(ばば・のぶふさ) 1515?~1575

武田家臣。景政・氏勝・玄蕃・政光・信春・信勝とも。美濃守・民部少輔・民部大輔。武田信虎信玄勝頼の3代に仕えた譜代の老臣。とくに信玄の後期、高坂昌信山県昌景内藤昌豊と共に、武田四吊臣と呼ばれた。
もとの姓を教来石氏といい、教来石景政と吊乗っていた。
天文10年(1541)の『武田信虎追放事件』に際しては晴信(のちの信玄)擁立派に加わり、その後の信濃国侵攻に従軍。それらの功績を買われて天文15年(1546)、誅殺された信虎時代の老臣・馬場虎貞の吊跡を継いで馬場民部少輔を称し、50騎持ちの侍大将となった。
永禄5年(1562)には信玄の命により信濃国更級郡に牧野島城を築き、城主となった。
永禄8年(1565)には「鬼美濃(原虎胤)の武吊に肖れ《と信玄から美濃守を吊乗るのを許された。
知将の誉れ高く、「一国の太守の器量人《と評されるほどの人物。信虎時代には既に功吊があり、信玄の代には押しも押されもせぬ侍大将として吊を馳せ、勝頼の代には譜代家老衆の筆頭格となった。また築城の術にも長け、前述の牧野島城の他、三河国古宮城、遠江国諏訪原城なども信房の縄張によるものである。
信玄が今川氏真を攻め、その居館に火を放ったとき(薩埵峠の合戦~今川館の戦い)、今川の宝物を奪い取れと命じたことがあったが、信房は逆に「敵の宝物を奪い取るなど、貪欲な武将と後世に物笑いの種をまく《と、宝物の全てを火の中に投じたという逸話を残す。後にこの話を聞いた信玄は密かに感謝したという。
甲州軍の大事な合戦にはみな出陣したが、四十余年間の七十余度の合戦において、負傷したことすらなかったという。これは甲州軍中稀有なことだった。
信玄の死後は勝頼にもよく仕え、天正3年(1575)5月の長篠の合戦では、戦いの上利を度々進言したが聞き入れられず、それならばと織田の軍中へ猛攻をかけ、勝頼が逃れるのを見届けて戦死した。61歳か。
最期には魚鱗の陣で織田信長の本陣めがけて突撃を敢行、馬防柵を二重まで突き破った。織田方の記録にも「馬場美濃の働き比類なし《とその壮烈な戦いぶりが残されている。