陸奥国伊達氏第9代。伊達宗遠の嫡男で、一説には康永2:興国4年(1343)の生まれともいう。官途は兵部権少輔・大膳大夫。追号を儀山と称した。
正室は岩清水八幡宮の検校である善法寺通清の娘・蘭庭禅尼で、室町幕府第3代将軍・足利義満の生母の妹にあたる。
永和3:天授3年(1377)10月、留守氏一族の余目三河守と一揆契約を結んだ。このときは兵部権少輔の官途を称しているが、明徳2:元中8年(1391)には大膳大夫となっている。
政宗が余目三河守と一揆を結んだ前年には、父の宗遠は田村荘の領主と目される小沢伊賀守と一揆を結んでおり、父子それぞれに活動していることがわかるが、強い対立や不仲が生じていたかは不詳である。
至徳2:元中2年(1385)頃に死去した父の跡を継承して伊達氏9代の当主となる。
応永4年(1397)、上洛して将軍・足利義満の謁見を受け、京都扶持衆となる。
明徳2:元中8年(1391)暮れ頃に陸奥・出羽両国が鎌倉府の所管となり、応永6年(1399)の春に鎌倉公方の足利満兼が奥州支配を堅固なものとするために弟の満貞と満直をそれぞれ陸奥国の岩瀬郡稲村・安積郡篠川へ派遣した際、御料所として所領の進上を求められたことに反発して応永7年(1400)の初頭ころ、奥州探題の大崎詮持とともに鎌倉府に対して挙兵を企てたが、失敗して帰国した。
応永9年(1402)の春に再び反抗し、5月には鎌倉府から下された上杉禅秀の軍勢による追討を受け、陸奥国赤館城に拠って抵抗するも9月5日に降伏した。会津に逃れたともいう。しかし政宗が2ヶ月を経ずして復帰して政務を執っていることから、処罰らしいものは下されなかったようである。
なお、この「赤館」について、通説では「高館」(桑折西山城)と目されているが、現在でも赤館の地名が残っている大鳥城(福島市飯坂町)とする見解もある。
応永12年(1405)9月14日死去。享年53。
この政宗の時代に亘理・黒川の両氏を麾下に従え、宇多・名取・宮城・深谷・松山の郡・荘を支配下に治めるなど、勢威を大きく伸ばした。
『独眼竜』の異名で著名な伊達氏第17代の伊達政宗は、この人に肖って名付けられたという。