宇都宮氏の重臣・芳賀高経の子。通称は次郎。
天文8年(1539)(一説には天文10年:1541)、宇都宮家中において権勢を揮っていた父の高経が権力強化を図る宇都宮尚綱に討たれ、芳賀氏の家督に益子勝宗の三男である高定が据えられると、これに反発して妹の夫・那須高資や壬生綱雄と結び、天文18年(1549)9月に那須高資が下野国喜連川の五月女坂の合戦で宇都宮尚綱を討つと、高照が宇都宮氏の本城である宇都宮城を攻め取り、芳賀高定や尚綱遺児の宇都宮広綱を逐った。
この高照による宇都宮城の支配体制は那須高資・壬生綱雄らの協力を得てのものであったが、天文20年(1551)1月に那須高資が被官の千本資俊によって殺害されると、壬生綱雄によって宇都宮城を奪われ、天文24年(=弘治元年:1555)の春に没した。
この那須高資や芳賀高照の死には、宇都宮広綱を奉じて宇都宮城復帰を目指す芳賀高定の暗躍があったとされる。