伊賀盛光(いが・もりみつ) ?〜?

陸奥国海道地方の国人領主。父は飯野満貞、母は不詳。通称は三郎。備前守。式部三郎・左衛門三郎・式部備前守のほか、飯野備前守とも称す。
父祖以来、陸奥国の好島荘預所職を相伝し、好島荘八幡宮(飯野八幡宮)の神職でもあった。
暦応2:延元4年(1339)頃に左衛門尉、貞治3:正平19年(1364)頃に備前守となる。
嘉暦3年(1328)頃から翌年頃にかけて好島荘地頭の岩城小次郎と対立し、盛光は地頭の年貢不済を幕府に訴えている。
鎌倉幕府の滅亡後は建武政権の陸奥守・北畠顕家に従い、建武元年(1334)8月の津軽地方の北条氏残党鎮圧に功があり、翌年には功賞を賜っている。しかし建武2年(1335)に足利尊氏が建武政権から離脱するとこれに味方し、同年11月に尊氏の弟の足利直義から新田義貞討伐を要請された佐竹貞義から参陣を促されており、建武3:延元元年(1336)の常陸国瓜連城の戦いにも佐竹氏に与して出陣している。
同年末に皇家が分裂し、いわゆる南北朝の動乱が始まると、室町幕府が支持する北朝方に属し、佐竹氏に与して常陸・陸奥国を転戦した。
貞和3:正平2年(1347)には奥州管領・吉良貞家の下知を受け、南朝方が拠点としていた南陸奥の藤田城や霊山城、宇津峯城の攻撃に従軍して功があった。
足利尊氏・直義兄弟の分裂抗争(観応の擾乱)の余波で、奥州でも吉良貞家と畠山国氏の両奥州管領が争うようになると吉良方に味方し、文和2:正平8年(1353)1月には奥州東海道検断職を得た。
生没年ともに不詳であるが、貞治5:正平21年(1366)までは領主としての活動が見える。しかし14世紀中ごろの軍事活動においては代官を出陣させており、老齢あるいは身体の不具合などにより、一線から退いたものと思われる。