陸奥国の戦国大名・南部氏の一族。南部氏22代惣領・南部政康(三戸南部氏)の二男。南部安信の弟。糠部帯刀左衛門・石川左衛門尉。妻は一方井安正の娘。
大永4年(1524)に兄・安信の命を受けて津軽地方を平定し、津軽3郡の郡代として津軽石川城に居したことから石川姓を称す。
翌大永5年(1525)に安信が没し、その子である南部晴政が若年で家督を継ぐと後見し、とくに軍事面において大いにこれを援け、領国の保持や拡大に大きく寄与した。天文9年(1540)の岩手郡平定戦、永禄9年から11年(1566〜1568)にかけて安東愛季との鹿角郡をめぐる攻防戦などに出陣。晴政から恃みとされ、信任の厚かったことがうかがわれる。
長男の信直は南部氏第26代の南部信直となり、二男の政信は高信の死後に浪岡城に在って津軽郡代となった。
諸系図では天正9年(1581)に石川城で死去したとされているが、元亀2年(1571)5月に大浦為信(のちの津軽為信)が石川城を急襲した際に敗れて自刃したとの説も有力視されている。