蒲池鑑広(かまち・あきひろ) ?〜1579

筑後国の国人領主。蒲池親広の嫡男。勘解由・志摩守。筑後国上妻郡山下城主。
蒲池氏は筑後国最大の勢力を誇る国人領主であったが、その威勢を警戒した大友氏は勢力の削減を謀って蒲池治久の二男である親広をして分家を立てさせ、本家を下蒲池家、分家を上蒲池家と称した。鑑広はその親広の子であり、上蒲池家の2代目である。上蒲池家の知行地は本家の下蒲池家に匹敵する規模であり、分かたれたとはいえども筑後国屈指の勢力であった。
大友氏に属し、永禄13年(=元亀元年:1570)3月より大友宗麟龍造寺隆信の拠る肥前国佐嘉城を攻めた際(佐嘉城の戦い:その2)には、田尻鑑種や従兄で下蒲池家の蒲池鑑盛らとともに水軍を率いて参陣している。
この後も下蒲池家とともに大友氏に属したが、天正6年(1578)より大友氏が島津氏との交戦状態に入り、同年11月の耳川の合戦で大敗を喫して勢威を衰退させると、これに乗じて龍造寺氏が勢力拡大を企図して筑後国の経略に乗り出す。下蒲池家の蒲池鎮並や田尻氏はこれに与したが鑑広は応じなかったため、天正7年(1579)4月より居城の山下城を龍造寺氏から攻められることになった。
8月下旬には大友義統が豊後国日田郡にまで出陣してきたこともあり、これを恃みに防戦に努めたが、11月に入って大友勢が軍勢を退かせると孤立無援となり、秋月種実の仲介で龍造寺氏に降った。
しかし『蒲池物語』では同年に死去したとしており、死因や経緯などは不詳である。