春日顕国(かすが・あきくに) ?〜1344

南北朝時代の武将。別称を顕時。侍従・左近衛中将に任ぜられたことから、春日侍従・春日中将とも称される。父は公家の源顕行ともいわれるが不詳。
公家の出身であるが、猛将としてその名を轟かせた。
建武3:延元元年(1336)に侍従に任じられて東国に差し下され、後醍醐天皇より陸奥守・鎮守府大将軍に任じられていた北畠顕家の麾下として、主に常陸・下野国の戦線で活躍した。同年12月に後醍醐天皇が南朝を興すとこれに属し、建武4:延元2年(1337)7月には下野国小山荘で北朝(光明天皇・足利尊氏)方の軍勢と戦っている。
暦応元:延元3年(1338)に上洛したようだが、翌暦応2:延元4年(1339)2月には常陸国に下着しており、前年より常陸国の小田城に在って東国経営の立て直しを図る北畠親房を軍事面から補佐した。下着後間もなくの2月末までには下野国の八木岡城・益子城を攻め落とし、ついで上三川城・箕輪城を自落に追い込むといった目覚ましい戦果を挙げ、去就の明らかでない宇都宮氏を圧迫している。
しかし同年に北朝方から鎌倉府執事(のちの関東管領)として派遣された高師冬の活躍もあって、関東という広域での戦況は南朝方には思わしくなく、暦応4:興国2年(1341)11月に北畠親房が拠っていた小田城の城主・小田治久(高知)が降伏。この事態を受けて親房は常陸国の関城、顕国は興良親王を奉じて大宝城へと移った。なおこの年、顕国は顕時と改名している。
その後も大宝城を拠点として北朝方への抗戦を続けたが、康永2:興国4年(1343)11月に至って関・大宝の両城は陥落。このときに親房は南朝の行宮のある大和国吉野に逃れ、顕国(顕時)は討死したとする図書もあるが、実際には落ち延びてその後も抗戦を続けている。
しかし翌康永3:興国5年(1344)、ついに捕えられて殺された。