三浦義同(みうら・よしあつ) 1451?〜1516

相模国の豪族。三浦高救の子。この高救は扇谷上杉持朝の二男で、三浦時高の養嗣子となった人物である。母は大森氏頼の娘。三浦介。従四位下・陸奥守。号は瑞雲庵道寸。
軍記等に拠る通説では、三浦時高に養子に迎えられてその後継者と目されていたが、のちに時高に実子が生まれ、時高がこの子に家督を譲ろうと考えたために廃嫡されて不和となり、身の危険を感じて相模国足柄の総世寺に身を置いて道寸と号していたが、母の実家である相模国小田原城主の大森氏の支援を受け、明応3年(1494)9月23日に三浦郡新井城に時高父子を討って三浦氏の名跡を奪い、相模守護になったとされる。
しかし近年の研究では、時高が養子としたのは義同の父・高救であること、時高は寛正3年(1462)3月末までには隠退し、家督を譲られたのも高救とみられることなどから時高から義同への家督委譲説には否定的な見方もあり、当時の記録による史料もないため不詳と言わざるを得ないが、周辺勢力との関係から時高と義同は反目するようになって闘争に及んだ可能性は考えられる。
のち相模国岡崎城に拠って相模国随一の豪族として威を揮うが、永正9年(1512)8月、伊豆・相模国の兵を率いる北条早雲に岡崎城を攻められて住吉城、さらには新井城に逃れた。このとき救援に向かった扇谷上杉朝興も、北条の軍勢に阻まれて後退した。翌10年(1513)9月には、義同の娘婿である太田資康が江戸を発って三浦郡に救援の軍勢を送るも敗死したというが、これは疑わしい。
堅城との呼び声高い新井城に拠って北条氏の攻勢を3年間に亘って凌ぐが、永正13年(1516)7月に新井城を一気に攻められ(新井城の戦い)、11日に嫡男・義意とともに自刃して果てた。66歳か。