仁科道外(にしな・どうがい) ?~?

信濃国の安曇郡の国人領主。安芸守。
仁科氏は平安時代以来の仁科御厨を中心として信濃国安曇郡に勢力を扶持し、御厨の鎮護である仁科神明宮の祭祀や神事、造替などに深く関わってきた一族である。
道外とは法名(出家名)であり、実名は不詳である。仁科神明宮の式年造替の棟札を見ると永正13年(1516)に盛国、天文5年(1536)が盛能、弘治2年(1556)には盛康が社殿の造営を行っている。道外の活動期から見れば盛能に相当するが、天文9年(1540)に盛康が盛能のあとを継いだとされ、この家督の継承が死没によるものか、譲渡によるものかは不明である。しかし「小笠原系図」には小笠原長時の妻が「仁科安芸守明盛入道道外」の娘であると記されている。
当時の信濃国は甲斐国の武田信玄が天文11年(1542)に諏訪郡の諏訪氏を滅ぼし、天文14年(1545)には下伊那地方を制圧するという状勢であったが、この武田軍の勢いを危惧した小笠原長時は、武田軍が天文17年(1548)2月の上田原の合戦に敗れて大打撃を受けたことを好機として村上義清らと結んで諏訪地方に侵攻し、道外もこれに与同して参陣している。
しかしこのとき、道外が長時に下諏訪に所領の獲得を望んだが容れられなかったため、「労して得るところなし」として戦陣から離脱したという。このためか、小笠原・村上らの連合軍は同年7月の勝弦峠(塩尻峠)の合戦で武田軍に敗北を喫した。
天文19年(1550)7月15日、道外は武田信玄のもとに出仕した。この日は、小笠原長時の居城・林城が落城した日でもあった。仁科氏は、同年4月には武田氏からの調略を受けていた。
天文22年(1553)閏1月に仁科匠作が武田氏に出仕した。この「匠作」とは修理職の唐名で、仁科修理亮盛康を指すと思われるが、この出仕は道外から匠作へと代替わりしたことを意味するものと考えられる。