小田政光(おだ・まさみつ) ?〜1558

肥前国神埼郡蓮池城主。小田資光の子。通称は新九郎。駿河守。
常陸国小田氏の分流・鎮西小田氏。
はじめ少弐氏の麾下にあって忠実に仕え、大永4年(1524)には龍造寺家兼と連合して千葉胤勝を討っている。享禄3年(1530)4月に大内氏武将・杉興運が少弐冬尚(時尚)の拠る肥前国神崎郡勢福寺城へ向けて侵攻を企てたときにも、家兼らとともに防衛にあたった。
天文3年(1534)10月、主家の少弐氏は家兼の進言によって大内氏と和睦を結んで居城を明け渡したが、翌年には約束を違えた大内義隆の攻撃を受けて没落したため、これを龍造寺氏の背信であるとして反目するようになった。天文13年(1544)11月に少弐氏重臣・馬場頼周が家兼一派の失脚を謀ったときにも少弐・馬場方に加担している。
龍造寺氏宗家・龍造寺胤栄の死後に惣領家を継承した龍造寺隆信に反発し、天文20年(1551)10月には土橋栄益らとともに隆信を筑後国に逐ったが、隆信は天文22年(1553)7月に再挙して復帰を果たし、10月に龍造寺勢の報復攻撃を受けて敗れ、臣従するに至った。
永禄元年(1558)11月、隆信の命を受けて勢福寺城を攻めるために出陣したが、同月10日の長者林の合戦で戦死した。