扇谷上杉氏の家宰。太田資房の子。幼名は源六郎。左衛門大夫・備中守。相模守護代。自得軒道真と号し、史料や図書などでは太田道真と表記されることが多い。
扇谷上杉持朝に仕えて永享12年(1440)までには家宰またはそれに准ずる地位にあったようであり、『鎌倉大草子』に同年1月に一色伊予守を相模国今泉に攻めた大将のひとりとして太田備中守資光の名が見えることから、資光とも名乗ったようである。出家号の道真として名が見えるのは、鎌倉府が再建された文安4年(1447)からである。
宝徳元年(1449)に上杉持朝が隠退すると、その嫡男で家督を継いだ上杉顕房を支えた。
宝徳2年(1450)4月、山内上杉氏の家宰・長尾景仲とともに鎌倉に鎌倉公方(のち古河公方)の足利成氏を襲って江ノ島に逐うも、成氏派武将の小山持政らの迎撃を受けて敗れた(江ノ島合戦)。
享徳3年(1454)12月末、成氏が関東管領の山内上杉憲忠を誅殺したことで山内・扇谷の両上杉氏と足利成氏方の抗争(享徳の乱)が勃発すると、明けて享徳4年(=康正元年:1455)1月には武蔵国や相模国で成氏勢と戦ったが、主君の顕房が討死するという大敗を喫した(分倍河原の合戦)。
この年より嫡男の太田資長(道灌)の名が史料に現れてくるようになるが、戦況は劣勢のまま膠着しており、扇谷上杉氏は康正3年(1457)に武蔵国の防衛力強化のために河越城・江戸城・岩付城を築いているが、太田父子もこれに大きく寄与している。
寛正2年(1461)年末、扇谷上杉氏と幕府より新たに派遣された公方・足利政知の反目を受けてのことか、家督を資長に譲って武蔵国越生の地に隠居したが、隠然たる影響力を維持していたようである。
また、道真の名は歌人としても有名であり、飯尾宗祇らを招いて「河越千句」を行っている。
文明4年(1472)に竜穏寺を再興。
長享2年(1488)8月3日に没した。享年78。法名は自得院殿実慶道真庵主。なお、没年月日を延徳4年(=明応元年:1492)2月2日とする史料もある。