陶興房(すえ・おきふさ) ?〜1539

周防国大内氏の重臣。陶弘護の二男。通称は次郎(三男で通称を三郎とする説もある)。中務少輔・尾張守。
兄・武護の早世を受けて家督を相続し、大内義興義隆のもとで重臣の筆頭として周防守護代を務めた。
その活動は多岐に亘り、永正5年(1508)に主君の義興が11代将軍・足利義澄との政争に敗れて逃れてきた前将軍・足利義稙を推戴して上洛したときには随行している。義興の在京は10年に及んだが、興房も在京を続けていたかは不詳。
この間、中国地方では尼子氏が勢力を伸ばしてきており、安芸国の大内氏直轄領保全のため大永2年(1522)3月には安芸国に出陣した。安芸国への着任後は鏡山城を奪取するなどの功績を挙げたが、同年8月頃に麾下としていた毛利氏が離反して尼子経久につくと、大永3年(1523)6月には鏡山城を奪い返され(鏡山城の戦い)、大永4年(1524)には佐東銀山城の攻略に失敗する(佐東銀山城の戦い)など、苦戦を余儀なくされた。
その後は巻き返しを図り、とくに敗戦の要因ともなった毛利元就の非凡さを知ってからは彼の獲得に意を注ぎ、大永5年(1525)3月には味方につけることに成功している。
享禄元年(1528)に義興が没したのちはその嫡子・義隆に仕え、翌年に剃髪して道麒(または道麟)と号す。
天文元年(1532)11月頃より北九州戦線に出陣、翌年より筑前・肥前国などを転戦し、天文5年(1536)9月には少弐資元冬尚父子を降し、翌月には帰国した。
天文8年(1539)4月18日没。法名は大幻院殿透麟道麒大居士。
寡言重厚、文武両道と伝わり、ことに禅に心を傾けたという。武辺だけでなく和歌・連歌をよくした文人でもあり、公卿の飛鳥井雅俊や連歌師の宗硯と交流があった。