富田長繁(とだ・ながしげ) 1551?〜1574

はじめ朝倉、のち織田家臣。通称は弥六郎または弥太郎。越前国府中城主。
はじめ越前国の朝倉義景に仕え、元亀3年(1572)に朝倉氏が同盟を結んでいた浅井氏が織田信長に攻められた際に浅井氏への援軍として近江国に出陣したが、同年8月に前波吉継に続いて織田氏に投降した。
朝倉氏が天正元年(1573)8月に滅ぼされたのち、越前国南条郡を宛行われて府中城主に任じられた。
同年9月から10月にかけての第二次伊勢長島一向一揆討伐に従軍して抜群の活躍をしたともいうが、同じく朝倉氏の旧臣で信長から越前守護に任じられていた桂田長俊(前波吉継が改名)と越前国支配の主導権をめぐって対立するようになると、一向一揆と結んで天正2年(1574)1月に桂田長俊、ついで朝倉旧臣だった魚住景固を討った。
長繁は桂田への対抗上の方策として一向一揆と結んだのであって、信長に叛く気はなかったと見られているが、一方の一向一揆はこの抗争に乗じて織田氏の支配から自立しようとする動きを見せており、同年2月に加賀国から本願寺の坊官・七里頼周を迎えていた。長繁はこれに対抗すべく、同じ浄土真宗ではあるが本願寺とは対立していた誠照寺と証誠寺を味方につけたが、七里頼周率いる多勢の一揆一揆軍に攻められ、2月18日に長泉寺山で敗死した。
『朝倉始末記』では、突然に寝返った配下の士に鉄砲で撃たれたといい、享年24であった。