美濃国土岐氏。土岐成頼の嫡男。通称は次郎。初名は頼継。左京大夫。美濃守護。
成頼の嫡男である政房がその後継者となることは既定方針であったが、土岐氏の家中で重臣の斎藤妙純(利国)とその被官である石丸利光が反目するようになると、利光は政房の弟である土岐元頼を擁立して兵を挙げたことから、明応4年(1495)に船田合戦が勃発した。
この抗争では、土岐氏家宰の地位を望んだ利光が元頼を擁したことに加えて、政房・元頼両名の父である成頼までもが元頼に与した。政房の母は出産後一週間で没したといい、元頼の母(成頼後妻)は存命していたと思われることから、後妻の意向もあったのだろう。
政房・妙純の陣営がこれに勝利し、元頼も自害したことで、その地位を確固たるものとした。この船田合戦は明応5年6月に決着を見るが、その最中の明応4年9月に美濃守護として政房の名が見える。同年7月に石丸利光らが近江国に逃れたことから、成頼は政房に守護職を譲らざるを得なくなったのであろう。また、明応5年6月8日には元頼とともに城田寺に籠る成頼に対し、自ら出向いて説得を試みている。
永正6年(1509)、守護館をそれまでの革手から福光に移した。
永正10年(1513)5月までには、家宰的な地位に在ったと思われる斎藤彦四郎(妙純の子で利親の弟か)と対立するに至り、抗争に及んだ。
永正14年(1517)12月、今度は斎藤新四郎(利良。利親の子)と抗争し、大敗を喫した。この抗争は政房の後継者の地位を争う子の頼武(土岐頼純と同一人物か)・頼芸兄弟の争いに端を発するもので、政房が弟の頼芸を支持したのに対し、新四郎は兄の頼武を支持していたという。
敗れた政房は、先だって抗争していた彦四郎と結び、翌永正15年(1518)8月には新四郎を越前国へと逐っている。
この後継者問題は未だ決着を見なかったが、政房は永正16年(1519)6月16日に死去した。法名は承隆寺殿前左京兆海雲宗寿大禅定門。享年54か。応仁元年(1467)生まれともされる。