宇都宮基綱(うつのみや・もとつな) 1350〜1380

宇都宮氏綱の嫡男。妻は細川頼元の娘。下野守。下野国宇都宮城主。
名の「基」の字は、鎌倉公方・足利基氏より一字を与えられたものとみられる。
応安3:正平25年(=建徳元年:1370)7月に没した父・氏綱のあとを継ぎ、下野国宇都宮氏の第11代当主となる。
永和3:天授3年(1377)11月17日付の鎌倉公方・足利氏満の御教書から下野守護の職務に在ったことが確認できるが、下野国小山祇園城主の小山義政にも同日付で同じ内容の氏満御教書が下されており、この時期はそれぞれが下野国の半国守護であったと目されている。
しかし同国の守護職をめぐってか両者の関係は険悪だったらしく、所領の境目争いを発端として康暦2:天授6年(1380)5月16日に小山義政と下野国裳原で戦い、重臣の芳賀氏や主だった者80人ほどとともに討死した(裳原の合戦)。享年31。
基綱のあとは幼少の嫡男・満綱が継いだ。
なお、基綱を討った小山義政はこののち、鎌倉府から追討を受けることになった(小山義政の乱)。