武田、のちに徳川氏に仕えた武将。依田信守の子。通称は源十郎。常陸介・右衛門佐。
依田氏は信濃国小県郡依田荘を本貫とした領主であるが、佐久郡蘆田を拠地としたこともあるため蘆田の姓も用いた。
父・信守の代から甲斐国の武田信玄に属す。
元亀3年(1572)10月に信玄が軍勢を率いて西進を開始するとこれに従軍し、同年12月22日の三方ヶ原の合戦にも出陣した。また、この西進途次に武田勢は徳川家康方の遠江国二俣城を攻略したが、父の信守とともにこの城を預けられている。
天正3年(1575)5月の長篠の合戦で武田勢が大敗を喫して戦力を大きく低下させると徳川勢は遠江国の諸城の奪還を開始、二俣城もその標的に据えられた。同年6月に光明城を落とされて孤立し(光明城の戦い)、さらに6月19日に父を亡くすも、よく城を支えて抵抗を続けたが、12月下旬に開城して城を下った(二俣城の戦い:その2)。
二俣城の開城後も遠江国の高天神城や田中城に入って徳川方への抗戦を続けたが、天正10年(1582)3月に武田氏が滅亡したのちは徳川家康に属し、同年6月の本能寺の変後に織田氏領国であった甲斐・信濃国をめぐって徳川氏と北条氏が抗争に及ぶと、家康の命を受けて信濃国佐久郡に赴いて同族や知古を糾合して徳川勢力の拡大に努めている。また、帰趨の定かでなかった真田昌幸を徳川勢力に帰属させるにおいても奔走し、これを実現させた。
天正11年(1583)2月22日、反徳川の大井行吉を信濃国佐久郡岩尾城に攻撃している最中、銃弾に当たって翌日に死去した。享年36。
信濃国の武将ではもっとも早く家康に属した武将であり、子の康国は松平姓を名乗り、小諸6万石の領主となった。