天文19年(1550)12月に薩摩国鹿児島の内城(御内城:みうちじょう)に入って名実ともに島津氏当主の地位を継承した島津貴久は、すでに平定した薩摩半島に続いて大隅国平定へと目を向けており、さしあたっての目標は薩摩・大隅国境付近の制圧であった。
この国境から別府川下流の帖佐や加治木周辺は貴久の父・島津忠良の時代から幾度となく係争が繰り返されており、当時の加治木城は島津氏に属す肝付兼演が守備していた。しかし天文23年(1554)9月、別府川上流を本貫地とする国人領主・蒲生範清がこの加治木城に向けて侵攻し、城を包囲した。
貴久はこの加治木城救援の前段として、加治木への往来を扼す岩剣(岩剱)城の制圧を目論んだのである。
この岩剣城は標高約2百メートルの岩剣山にあり、東・西・北の3面は直立の絶壁に擁された天険の要害であった。南面だけが平地の林へと続いているが、ここには堀切が設けられており、城に近づくことは容易でなかった。城主は渋谷氏一族の祁答院良重である。
貴久は弟の忠将、子の義久・義弘、重臣の伊集院忠朗らを従えて9月12日に出陣した。14日の脇元での交戦で、島津忠将の部隊が鉄砲を使用している。これが史料に見える島津氏初の鉄砲の実戦使用であった。
無勢ながらも天険の要害に拠る岩剣城はよく守っていたが、10月2日に城主の良重の子・重経と、岩剣城の救援に来ていた蒲生勢の西保盛家が相次いで戦死したことによって大勢が決し、観念した良重は10月3日未明に開城し、同時に加治木城の包囲も解かれたのである。
島津氏はこの岩剣城を勢力下に置いたことで、これを足掛かりとして沿岸部からの大隅進撃が容易なものとなり、のちに大隅平定に邁進することになる。
この岩剣城の戦いは、国内で初めて鉄砲が実戦に用いられたとして知られるが、島津氏の史料で見る限りでも天文18年(1549)の黒川崎の合戦で敵方の蒲生・渋谷氏らがすでに鉄砲を使用しており、この岩剣城の攻防戦においても祁答院勢も鉄砲で応戦しているという記録があるので、正しくは「島津氏で初めて実戦で使用した」のであり、国内初の鉄砲実戦使用というのは誤りと言わざるを得ない。
また、勇将の誉れ高い島津義弘の初陣でもあった。