天正16年(1588)、越後国の本荘繁長が出羽国庄内に向けて侵攻を開始した。
本荘勢はこの年の1月初頭、数百程度で付近の砦に駐屯しているだけだったが、のちに後続部隊と合流して4千ほどに増強させ、破竹の勢いで庄内の奥深くに進撃してきたのは同年8月のことである。
この頃の庄内の領主は、最上義光に属す東禅寺義長であった。義長は本荘勢の侵攻を知ると尾浦城と大宝寺城を両翼とし、その間を流れる千安川付近の十五里ヶ原に布陣して迎撃態勢を構えたのである。この東禅寺勢の兵力は不詳であるが、城兵を合わせても2千ほどであったと見られている。
この十五里ヶ原には千安川、湯尻川、八沢川という三流があり、天然の要害をなしていた。東禅寺勢はこの川筋を防衛線として牽制しつつ援軍を待ったが、本荘繁長は別働隊を編成し、その別働隊を夜陰に紛れて上流から渡河させておき、夜明けを待って一斉攻撃に出たのである。
突然に背後から奇襲を受けた東禅寺勢は混乱に陥り、こうなると頼みとしていた川が逆に障壁となり、数に勝る本荘勢にさんざんに打ち破られた。
この戦いで東禅寺義長は戦死し、また、義長の弟・勝正は本荘勢の将士を装って繁長本陣に潜入して繁長を討ち取ろうとしたが、繁長の近習らに阻まれて失敗、壮絶な斬り死にを遂げたという。
この合戦の勝利によって尾浦城・大宝寺城を含む庄内一円は本荘繁長、ひいては上杉氏の支配するところとなった。