天正14年(1586)7月27日に大友氏の武将・高橋紹運の守る筑前国岩屋城を落とした(岩屋城の戦い)島津軍は、宝満城を8月6日に降伏開城させ、続いて筑前国の要衝・立花城の攻略に取り掛かろうとしていた。
島津軍の大将のひとりである島津忠長は、立花城への攻撃のまえに使者を派遣して降伏を勧告したが、城方はこれに応じず、あくまでも抗戦する構えを崩そうとはしなかった。それでもその後、島津方は数度の勧告を行ったようだ。
立花城は岩屋城よりも堅固な城で、高橋紹運の実子にして立花道雪の養子となった立花宗茂以下2千ほどの兵がその防衛にあたっていた。島津方は先の岩屋城の戦いで多くの将兵を失っており、これ以上の戦力低下は避けたいところであっただろう。一方の城方としては、宗茂の父・紹運の敢闘に報いるためにも、一戦も交えぬうちから降伏するなど論外であっただろう。それに加えて、羽柴秀吉の命を受けた毛利勢からなる救援部隊の到来を待っていたのである。
立花城が降伏勧告に応じる気配がないため、島津忠長は開城工作を諦めて力攻めにすることに意を決し、8月初旬頃には軍勢を立花城に近い遠矢原(香椎)に布陣させて城下の焼き討ちを行っている。そして、立花城への総攻撃は18日に行うと決められた。
その頃のことであろうか、島津軍の本陣を訪れる者があった。立花城から派遣された、立花家中にその人ありと名の知れた内田壱岐入道玄敍(鎮家)である。
忠長が玄敍を引見すると、意外にも講和の使者として参じたといい、持参した宗茂からの書状には、評定の結果、降伏開城することに決したが、整理や準備をしたいので数日の猶予を頂きたい、という旨の文言が認められていたのである。これを謀略と見る者もいたが、玄敍自ら人質として留まると申し出たため、忠長はこれを信じて18日の総攻撃も中止し、立花城の開城を待つことにしたのである。
しかしその後、立花城からは何の連絡もないままに日々が費やされ、8月23日となった。
この日、ついに玄敍は島津の諸将に白状する。「援軍到着までの時間稼ぎをさせていただいた。すでに援軍の吉川・小早川は迫り、豊前には四国勢が集結し、関白殿下(秀吉)の御出馬も間近と聞く。自分の役目は終わったので、あとはこの首を刎ね、立花城攻めに向かうも陣払いするも良いでしょう」。事実、吉川・小早川の毛利勢先陣は8月10日に出陣、本隊も16日に広島を発向し、先陣はこの16日に豊前国の門司にまで到達していた。
玄敍の告白を聞いた島津諸将のうちには玄敍を害そうとする者もいたようだが、忠長はこれを止め、「身を捨てて城を守ろうと当陣へ参った覚悟、見事である」と称え、玄敍が立花城に帰ることを許したという。
しかし、玄敍の白状だけでなく島津方でも毛利勢渡来との情報が確認されると、陣中に動揺が走った。この状態での軍事行動の継続は不利と判断した忠長は、立花城攻略の断念と撤退を決した。島津軍は24日(一説には23日夜とも)より全軍撤退を始めたが、これを見た宗茂は城から打って出て島津軍後陣に打撃を与える戦果を収めた。
そして25日には攻勢に転じて島津方の拠点となっていた高鳥居城を攻め落とし、さらには岩屋城・宝満城の奪回をも果たしたのである。