海の口(うんのくち)城の戦い

天文元年(1532)9月に守護領国の甲斐国の統一を果たした甲斐守護・武田信虎は、その矛先を信濃国佐久郡に定め、天文5年(1536)11月21日に8千余の軍勢で平賀源心(玄信)の拠る海の口城を攻囲した。この平賀源心は信濃国の有力国人領主・大井氏の一族で、岩村田城主・大井貞隆の兄弟ともされる。
また、この出征には信虎の嫡男・武田信玄(当時の名乗りは晴信)も従軍しており、信玄の初陣でもあった。
武田軍の攻囲は1ヶ月以上にも及び、この間にも数度の攻撃を仕掛けたが、大雪と城兵の頑強な抵抗のために攻略できなかった。
信虎はついにこの城の攻略を断念して12月26日に撤退を開始するが、殿軍を任されていた信玄が途中で3百余騎を率いて海の口城へ引き返し、油断していた城方の虚をついて夜襲をかけ、たちまちのうちに落城させたという。

この城攻めについては『甲陽軍鑑』等の二次史料にしか記述がないことから、この城攻め自体の存在を疑う説や、のちの天文9年(1540)5月に佐久郡への大規模な攻勢が行われていることから、このときの一戦を年代を誤って記録されたとする説などがある。
しかし天文5年といえば信玄が元服した年であり、初陣に相応しい年齢(信玄16歳)、相手と考えることもでき、なんら不自然なことでもないのである。