諱は勝商(かつあき)で、強右衛門は通称。徳川家臣。
天正3年(1575)5月11日、武田勝頼の軍勢が徳川方の長篠城を取り囲んだ。籠城して辛うじて持ちこたえているが、武田勢1万5千の兵力に対して長篠の城兵はわずかに5百。残された兵糧もごくわずかであり、落城は時間の問題だったのである。この窮状を徳川家康に訴えるため、長篠城兵の鳥居強右衛門が使者となって長篠城を脱出することになったのだった。
強右衛門が城を抜け出たのは14日、小雨降る闇夜のことだったという。武田軍の厳重な包囲を突破するのに、城の不浄口(トイレ)から岩壁を這い降り、寒狭川を潜って横断したといわれる。
強右衛門はこうして武田の包囲を潜り抜け、家康に謁することができたのである。そして、そこには家康の要請に応じて援兵を引き連れてきた織田信長の姿もあった。援軍はすぐそこまで来ていたのである。
強右衛門は救援軍が来ていることを報告するため、長篠城に戻ることにした。家康や信長は「武田の包囲を突破して帰城するのは危険だから軍勢と同行せよ」と言ったが、それを固辞してまたもや敵地に潜入していったのだった。
が、今度は武田軍に捕まってしまい、勝頼の前に引き出された強右衛門はやむなく密使の任務を供述した。このとき勝頼は、むしろ強右衛門の忠義を褒め称えたという。
そして、武田家臣に取り立てて重く用いるというかわりに、ひとつの条件を出した。それは長篠城の真ん前に磔にされて「援軍は来ない。もはや降伏開城するより方策なし」と、城中の兵を説得するということだった。
強右衛門はこれを承知した。
そして、強右衛門は長篠城の眼前に磔にされた。武田勢も、長篠の城兵も強右衛門に注目する。その強右衛門の口が開いた。
「織田殿の援軍は既に岡崎まで参着。この数日のうちに援軍は必ず参るぞ」と大音声で城兵を激励したのである。
約束を違えた強右衛門はその場で何本もの槍を突き通され、絶命した。しかし、強右衛門の決死の言葉を励みに長篠城兵はその後もよく持ちこたえ、徳川・織田の連合軍が到着。そして5月21日、史上有名な「長篠(設楽ヶ原)の合戦」が展開されることとなったのである。