「じゃーねー、パパ♪」
休日の午前中、妻と子供達が近所のスーパーまで買い物に出かけた。私はゴニャゴニャと言葉にもならないような返事をすると、冷たい表情のまま布団からむっくり起き上がる。
(いなくなった…。やっと集中できるぞ!)
日々頭の中に溜めておいたアイデアをやっと現実にパソコンの中に打ち込むことができる安堵感。アイデアは忘れないように不要レシートの裏にビッチリ書き込んである。制服の胸ポケットからクシャクシャのそれを取り出し、パソコンの前、自分の指定席にドッカと腰を下ろす。
(どれどれ…)
改めて確認すると、現実に採用するには難しいアイデアもあるが、すぐに実現できそうなアイデアもある。蛍光色のマーカーで有望株に印を付けると、モニターに意識を集中する。
一気に行くぞ、集中だ。俺は決して間違えない、集中だ。一気に行くぞ、集中だ〜! 周囲の雑音が消えていき、モニタ以外の視界が暗くなっていく。もうパソコンと私以外、世の中には何もない…
(ズガズガッ! カチャカチャカチャ、ガガガガッ! カチャカチャカチャ)
私は激しくキーボードを叩きながら、パソコンの中に仮想空間を作り続ける。3つあるモニターの一番右側、17インチの液晶モニターにその打撃の成果が次々と映し出されていく。
右目だけが別人格のようにキョロキョロと気味悪く動き、プログラミング作業の正誤確認・入力のチェックをリアルタイムで行っている。まさに顔面デュアルコア状態、CPU使用率100%といったところだろうか。
開発作業がスタートしたら、もう周囲の音はまったく聞こえない。やさしく肌に当たる、そんなそよ風ですら私の崇高な作業には邪魔なのだ…。
世界中で私にしかできない、貴重なプログラムを組んでいるんだ。私の開発の邪魔をするなんて何者だろうが許せない。もし間違えが起こったらどうしてくれるんだ! どうせ誰も直せないクセに〜っ!
なぜかはわからない。コンピューターの世界にのめりこめばのめりこむほど、自分の人格が攻撃的になっていくのを感じてはいた。だが、やはり作業を止めるわけにはいかない。大勢のユーザーが待っている。一人も顔を知らないが、きっと待っているのだ。
要望に応え続けるため、要望が出る前に先回りだ。ん? 現在進行形の作業はユーザーからの要望だったっけか?
自分で勝手に思いついたんだっけ?
もうそんな事はどうでもいい。私の血走った右の目玉と10本の指のダンスは更に加速していく。
作業の先頭を走る「思考」のすぐ後ろ、もう入力作業が追いつきそうだ。あぁ…、もっともっと思考速度を上げねば!
これまで何度か作業中に家族が帰ってきたことがある。子供が話しかけても、私はトランス状態のまま、狂ったようにキーボードを叩き続けているそうだ。
「ねぇ〜、パパの好きなプリン買ってきたよ♪」
かわいらしく話しかける子供に対し、私は恐ろしい目で威嚇する、らしい。私にはその酷い行為の記憶がまったくないが、妻によるとそれはゾッとするような「イヤな目つき」なんだとか。
しかし、仕方がないではないか。ただただ私は必死なのだ、作り続けることに。自分でしか作れない、この世界を拡張し続けることに。
(…順調だ!)
よく寝たせいか頭の中がやたらとすっきりとしている。私の「思考」はどこまでも真っ直ぐなアウトバーンをアクセルベタ踏みでフルタイム加速、ピタリとすぐ後ろには入力作業もスリップストリーム状態で張り付いている。その奇跡にも近い猛スピードの中、私は印のついたアイデアを次々と実現させていく。もう4年も作業しているが、このアウトバーンに終点はなさそうだ。
「ピンポーン!」
ネット空間に訪問者が訪れると、この効果音がなる。もちろん、その仕組みも私が作り上げたのだが、不意に鳴るので、いつもビグッと電気が走ってしまう。
私は、開発用ウィンドウを最小化すると、ネット空間のチャット画面を最前列に表示させる。ネット上での私の名前は、ヨンドバック。今回の訪問者はマーティ、まったく面識のない人物だ。
ヨンドバック : はじめまして、こんにちは〜
マーティ : おぉ〜! ヨンドバックさん!
私はこちらの挨拶に、間髪入れず返ってきた相手の文字入力速度に驚いてしまう。
(こりゃ相当キーボードに慣れているな)
私はマーティと名乗る初対面の男(と思われる)に対してやや警戒を強める。なんせ世の中には怪しい輩が山ほどいる。
マーティ
: ラッキー、いきなり会えるなんて!
ヨンドバック : ん?
どういうことかな?
マーティ :
探していた人物にすぐ会えるのは幸運です。
ヨンドバック :
なるほど、ではなにか私に何か用かな?
マーティ :
あなたの製作したプログラムがどうしても必要なのです。
ヨンドバック :
えーっと、非公開なのでお渡しできません。申し訳ない…
マーティ :
いや、どうしても頂きたいと考えています。あなた自身のためです。
ヨンドバック : ん?
私自身のため?
マーティ :
困っているのはヨンドバックさん、あなた自身です。
ヨンドバック :
よく意味が分からないのですが…
マーティ :
私はあなたの依頼で、2070年から来ました。
ヨンドバック : は?
私はチャットしながらも、作業内容をいつでも再開できるように脳の端っこに留めておいた。が、あまりに非現実的なマーティの発言に、頭の中でメモリ保存していた「思考」が霧のように消え去ってしまう。
しかし、そんな事はどうでもいい。この奇妙な男は一体なんなんだ?
いまや私の興味はこの男の目的を知ることだ。
ヨンドバック :
2070年…? 私は98歳、相当な高齢者ということになりますね。
マーティ : 2070年、98歳はそれほど高齢ではありません。
マーティ :
それに水の中に入ってしまえば、140歳前後まで元気でいられますし。
ヨンドバック :
ぬぬぬっ。えーっと、…水の中って?
マーティ : 水を張ったタンクの中で冬眠、そのまま健康状態を維持するのです。
マーティ :
24時間前の肉体と変化があった場合、浮いたまま治療します。
マーティ :
水の中にいれば、老いや病気を恐れる必要がないのです。
マーティ :
定年退職後、年金を使ってずっと水の中で過ごすのがブームです。
ヨンドバック :
ずっと…。死ぬまで水の中か…。どんな人がその選択を?
マーティ :
家族のいない、孤独な老人の多くが選択します。
ヨンドバック :
なるほど…。でも、水の中にいる間、な〜んにもできないよね?
マーティ :
肉体的には動けませんが、意識はLANでネットと接続されています。
マーティ :
意識はネット上で自由に活動できるのです。あなたもそんな一人です。
ヨンドバック :
でも、キーボードを叩けないんじゃ、活動なんてできないのでは?
マーティ :
キーボードによる入力は2050年以降、行われていません。
ヨンドバック : なぬ〜!
イメージすることで入力が可能、ということか…
マーティ :
ちなみに成人の後頭部には12箇所、USB機器を接続することができます。
ヨンドバック :
す、すごい! 人間がパソコンのようになってしまうのか…
絶句したまま、私の指は止まってしまう。心はまだ半信半疑なのだが、マーティの言葉には説得力がある。なんせ返答にまったく迷いがないのだ…
マーティ :
ということで、プログラムを頂きたいのですが。
ヨンドバック : ちょっと待った!
まだ納得できない! 質問させてくれ!
ヨンドバック : 水の中って維持費が大変でしょ?
老人の多く、って無理じゃない?
マーティ :
ソーラー発電の飛躍的な進化でエネルギー問題が解決し、
マーティ :
食糧問題も月面でのコケ繁殖に成功、2050年以降解決しています。
マーティ :
水の中に一年入ったとしても、6000円ほどの費用です。
マーティ :
多くの方が望んで、死ぬまで楽しく、安価な水の中で過ごしています。
ヨンドバック :
ぬぬぬ…。では、地球温暖化はどうなった?
マーティ :
大気圏外で太陽光を遮断、海洋上を日陰にして調節しています。
ヨンドバック :
その太陽光の遮断、ってどうやって?
マーティ :
私は科学者ではないので、詳しくは分かりません。
ヨンドバック :
うーむ…
マーティ :
では、プログラムを送ってください。
ヨンドバック :
ど、どこへ送ればいいの?
マーティ :
A4用紙に全て印刷して、郵便で送ってください。
ヨンドバック : え〜?
電子メールとかで送ったほうが楽でしょ…
マーティ :
わ、私、パソコン持っていないので…
ヨンドバック :
持ってないんかーい!
マーティ : 冗談です。
ヨンドバック : こらっ!
マーティ :
今すぐ、こちらから取りに伺います。
ヨンドバック :
い、今すぐ?
マーティ :
目を瞑っていただけますか…
ヨンドバック :
はい
言われるがままに目を瞑った途端、体を背中からガシッと掴まれるイヤな衝撃を感じ、私は思わずギャーと悲鳴を上げる。が、発せられているはずの声がまったく聞こえない!
真っ暗な空中を「ギャー」というテキスト文字(MSゴシック)が飛んでいくのを感じる。「見える」ではなく「感じる」と表現したのは、私自身の目がしっかりと閉じられたまま、だからだ。
どうにか目を開けようとするのだが、体の自由が、指一本ですらまったく動いてくれない。恐怖を感じている私に向かって、なにか巨大な物体が近づいてくる。それは見えているのではなくイメージとして、視覚以上の緊迫感を伴って迫ってくる。白い矢印型のそれは…、マウスポインタだ!
動けない私のおでこに、その矢印の先端がピタッと張り付くと、カチッという音がした。クリックしたまま、指を離していない感触がある。これは…、この操作は、ドラッグだ!
グググッとポインタが後退すると、私の頭の中から膨大な量のプログラムデータがアリの巣を散らしたように噴き出してくる。あっという間に私の周囲は、プログラムで使用された命令文やら変数で満たされる。ゆっくりと自分の周りを多重スクロールする文字列を眺めていると、改めてその膨大な量に驚かされる。次第に文字の回転が速度を増し、空中にある一点に集約されていく。消えていくプログラムデータを眺めていると、空中に巨大なダイアログが出現した。
削除してよろしいですか?
はい いいえ
マウスポインタが「はい」というボタンの上でピタッと止まる。ギクッとした私は、全身全霊を振り絞って叫んだ。
「やめろ〜っ! 俺のプログラムを消さないでくれ〜!」
が、やはり声を発することができない。空中にMSゴシックが冷たく表示されるだけだ。そしてそれもBackSpaceキーで次々と消されていく。何度も何度も叫んだが、無慈悲に全て消されていくだけだ。次第に抵抗する意識が弱まっていき、ふっと一瞬の間が空いた時だった。
カチッ
(クシャクシャクシャ)
「はい」のボタンが押され、これまでの努力の結晶、私の作ったプログラムはあっけなくゴミ箱に捨てられてしまった。静寂があたりを支配し、ただただ私は途方にくれるのだった…。
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カッと目が開いた。汗だくの私は、なにか巨大な喪失感を感じていたが、なにを失ったのか思い出せない。パソコンの前に座っているが、自分がなにをしていたのか思い出せない。不意に背後で声がする。なんて安心する、ほっとできる声なんだ。
「ねぇ〜、パパの好きなプリン買ってきたよ♪」
「おお〜、ありがとう。本当にモエカはやさしいな〜」
「エヘヘ♪」
「ねえ、あなた、コーヒーでも入れましょうか?」
「気が利くね〜、あ、そうだ、今度久々に家族で旅行にでも出掛けないか?」
「やった〜!」
自分の目が愛情とやさしさに満ちているのを感じる。そうだ、そういえば、結婚前に妻はこんなことを言っていたっけ。私の「やさしい目」が好きだって…。あの時、いつまでもそんな目でいたいなぁって、そう思ったっけ…。
そうか、さっきの喪失感…。私が失ったなにかって、この気持ちだったのか! 思い出せたぞ!
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マーティ : 例のプログラム、ご依頼どおり確かに消去いたしました。
ヨンドバック : ありがとう。
マーティ :
しかし、あれほど膨大な量だとは思いませんでした。
ヨンドバック :
当時の私は持てる情熱の全てをプログラムに注ぎ込んでいたからね…
ヨンドバック :
が、その代償に大切なモノを失ってしまったのだ。
マーティ :
ご家族ですね、それで水の中の余生を選ばれた…。
ヨンドバック :
そう…。私は身寄りのない孤独な老人なのだ。
マーティ :
来月で、一旦治療に区切りをつけて、外界に戻られたらどうですか?
ヨンドバック :
戻ったって誰もいない。あの家には戻りたくないんだ…。あっ!?
マーティ :
もしかしたら、いらっしゃる、かもしれませんよ!
ヨンドバック :
ぬおおおおっ!!